幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 三十
其 三十
十兵衛が傷を負って帰った翌朝、平生のように早く起き出せば、お浪は驚いて、慌てて押しとどめ、
「何とまぁ、とんでもない、ゆっくり臥んでおいでなされ、おいでなされ。今日は取り分け朝風が冷たいのに、破傷風にでもなったらどうなさる。どうか臥んでいて下され。お湯ももう直沸きましょうから、口の含嗽も洗面も其所で私がさせてあげますに」と、壊れかけた土竃に鍔の欠けた釜を乗せ、その下へ火を焚き付けながら、気を揉んで言うけれど、一向に平気の十兵衛は笑って、
「病人扱いされるほどのこともないわ。手拭だけを絞ってもらえばそれで可い。顔も一人で洗った方が好い気持ちじゃ」と、箍の緩んだ小さな盥に自分で水を汲んで、別段困った容態もなく平日と同じように振る舞えば、お浪は呆れ、また心配するのだが、のっそり十兵衛、少しも気にすることもなく、朝飯を終えて立ち上がり、突然着ているものを脱ぎ捨てて、股引、腹掛を着にかかるのを、
「とんでもない、何処に行かれる。どれ程仕事が大事だと言っても、昨日の今日では、疵口が塞がる訳もなく、痛みもあるでしょうに、泰然として、身体を動かすな、特に心配はないけれど、治癒るまでは、まず静穏しくしていることが肝要だとお医者様も言っておられたではないか。無理圧して感応寺に行くおつもりか、無茶すぎる。仮令行ったとしても仕事など出来やしまい。行かなくても誰が咎めましょう。行かずには済まぬとお思いなら、私がちょっと一走りして、お上人様にお目にかかり、三日、四日の養生を直々にお願いしてきましょ。お慈悲深いお上人様がご承知をされぬ筈はない。きっと大事にせい、軽挙なことはするなと仰るはず。さあ、此衣を着て、家にいて、せめて疵口が悉皆密着くまでは静穏しくしていて下され」と、只管とどめ、宥め、慰め、脱いだ衣服を取って復着させれば、
「余計な世話は焼かなくても可い。腹掛を着せてくれ、これは要らん、と利く右手で撥ね退ける。
「まあ、そう言わずに家にいて」と、また打ち着せる。が、また撥ね退ける。男は意地、女は情、言葉争いが何度も続けば、さすがにのっそりも少し怒って、
「訳も分からん女の立場で、邪魔立てするか、忌々しい奴。よしよし、もう頼まん、一人で着る。たかがこれしきの蚯蚓膨に一日でも仕事を休んで職人どもの上に立てるか、お前は少も知るまいがの、この十兵衛は愚かで馬鹿な奴だと常々言われているので、職人どもが軽く見て、眼の前では我の指揮に従って働いているように見えるが、蔭では勝手に怠惰るやら譏るやら、散々こけにしていて、表面だけは粧っているが、誰一人として真実に仕事をちゃんとしようという心意気を持ってくれている者はない。えぇ、情けない。如何にかして外見ではなく仕事を頑張ってもらいたい、仕事に汗を流してもらいたい、と諭せば頭は下げながら、横を向いて鼻で笑われ、叱れば口では謝罪るが顔色で怒られ、じっと我慢をして下手に出れば、直ぐに増長してくる口惜しさ、悲しさ辛さ。毎日毎日、棟梁、棟梁と大勢に立てられるのは立派でよいけれど、腹の中では泣きたいことばかり。いっそ穴鑿で引使われた方が楽だと思うくらい。そんな中で、どうにかこうにか此日までやりおおせて来たのに、今日休んでは大きな躓き、胸が痛いから早帰りします、頭痛がするので遅くなりましたと、皆に怠惰られるのは眼に見えている。その時、自分が休んでいれば何も言うこともできず、仕事が雨垂拍子になって、出来るものも出来なくなってしまうというもの。万が一にも仕損じることになれば、お上人様や源太親方に顔が向けられるか。これ、生きていても塔が成ねばな、この十兵衛は死んだも同じ。死んでもこれを仕遂げれば、お前の夫は生きているわい。二寸、三寸の手斧傷に臥ていられるか、えぇ、臥ていられるか。破傷風が怖ろしいか、仕事のできないのが怖ろしいか、仮に片腕を奪られたとしても、すべて成就するまでは、駕籠に乗ってでも行く。まして、これくらいの蚯蚓膨に」と、言いながら、お浪の手から奪い取った腹掛に、左の手を通そうとして顰める顔。それを見れば、女房もそれ以上争えず、争い負けて、傷を労りながら、遂に袢纏、股引まで着せて送り出すお浪の心の中、何とも口では言いがたいものがある。
十兵衛はまさか来はしないだろうと、思い合わせていた職人どもが、ちらりほらりと、辰の刻(*1)頃から来て見てみると吃驚。そして、吃驚する途端に、
「精を出してくれるか、嬉しいぞ」との一言を十兵衛から受けて、皆冷汗をかいたが、このことがきっかけとなり、一同励み勤め、昨日までとは違う身のこなし。一を聞いては三まで働き、二と言われれば四まで動けば、のっそりの片腕が使えなくなったのが、劫って多くの腕を得ることとなって、日毎に工事も捗り、肩の疵が癒える頃には、殆ど塔も成あがった。
*1 辰の刻……午前八時。




