幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 二十九
其 二十九
「八五郎、其処にいるか、誰か来たようだ、開けてやれ」と言われて、
「何だ? 不思議な。女みたいだ」と、口の中で独語ながら、
「誰だ、女嫌いの親分の所へ今頃来るのは、さあ、這入りな」 と、がらりと戸を引き退ければ、
「八ッ様、お世話さま」と、軽い挨拶。提灯を吹き滅して、頭巾を脱ぎにかかるのは、この盆にも、この正月にも心付をしてくれたお吉だと気づいて、八五郎は面くらい、素肌にどてら一枚の袵がはだけて、鼠色になっている犢鼻褌が見えるのを急いで押し隠すなどしながら、
「親分、なんの、あの、なんの姉御だ」と忙しく奥へ声を掛けると、『なんの』だけで分かる江戸っ子、
「応、そうか、お吉よう来たの、よう来た。まあ、其辺の塵埃のなさそうなところへ坐ってくれ。油虫(*1)が這って行くから用心しな。野郎ばかりの家は不潔のが取柄だから仕方がない。我もお前のような好い嬶でも持ったら清潔にしようぜ、アハハハ」と、笑えば、お吉も笑いながら、
「そうしたらまた、不潔不潔と厳しくお叱めなさるかも知れぬ」と、お互いに二つ、三つ冗談しをしたが、その後、お吉は少し改まり、
「清吉は眠ておりますか。どういう様子か見ても遣りたいと、心にかかって参りました」と、言えば、鋭次も打頷き、
「清は、今しがたすやすや睡着いて起きそうにもない様子じゃが、疵と言っても別にあるわけでもなし、頭の顱骨を打破った訳でもないので、整骨医師が先刻言うには、烈く逆上したところを滅茶苦茶に撲たれたため、一時は気絶までもしたかも知れんが、大したことはない、と保証っておった。見たければ、ちょっと覗いてみるか」と、先に立って導く後についていくお吉、三畳ばかりの部屋の中に、ぐっすり眠り込んでいる清吉を見てみると、顔も頭も膨れ上がって、こんな風になるまで撲ってしまう鋭次の酷さが恨めしいまで哀れな様子であったが、もう済んだことであり、どうしようもなく、元の場所に戻って、鋭次に対い、
「我夫は清吉が余計な手出しをしたことに腹を立て、お上人様やら十兵衛への義理もあって、必ず酷く叱るか、出入りを禁じるか、何とかするでございましょうが、元はと言えば、清吉が自分自身の恨みごとでしたことではなし。畢竟は此方の事情で、筋の違った腹立ちを、ついむらむらとなってしただけのこと。私としては、我夫のすることだけを見ている訳には行かず、殊更少し訳あって、私が何とかしてやらねば、この胸の収まりが済まない事情もあり、それやこれやを種々と考えた末に浮かんだのは、一年か半年ほど、清吉にこの土地を離れさせること。人の噂も遠のいて、我夫の機嫌も治ったら、取りなす方法は幾干もある。とにかくそれまでは、上方辺りで生活できるようにしてやりたく、その旅費に必要な金も調えて来ましたので、少しではありますけれど、お預けいたします。何卒、よろしく言い含めて、清吉めに与って下さいませ。我夫は彼通り、表裏のない人、腹の底で如何思っていようが、一旦はきっと清吉に辛く当たるに違いなく、きっと思いっ切り強く叱りましょう。その時、仮令清吉が何と言おうとも、聞く耳を持たないのは分かったこと。傍から私が口を出しても、義理は義理であればしようがなし。と言って、慾で做出来した罪でもないのに、男一人、頼る者もいないようにして、知らん顔では、如何しても私としてはおられませぬ。彼の一人残される母のことは、彼さえいなくなれば、我夫に話して、扶助るのを厭とは言わせないし、また、厭というような分からぬ事を言いますまい。だから、それは心配ないけれど、私が今夜来たことやら、蔭で清を劬っていることは、我夫には当分秘密にして……」
「解った、えらい、もう用はなかろう、お帰りお帰り。源太がもうすぐ来るかも知れん。出くわしたら拙かろう」と、愛想はないが、真実ある言葉に、お吉は嬉しく、頼み置いて帰れば、その後、入れ違いのようにやって来た源太。やはり、清吉に出入禁止、及び師弟の縁を断るとの言い渡し。鋭次は笑って黙り、清吉は泣いて詫びたが、その夜、源太が帰った後、清吉は鋭次から事情を聞かされ、また泣かされて、
「えぇい、犬になっても、我は姉御夫婦の近くから離れねぇ」と唸った。
四、五日過ぎて、清吉は八五郎に送られて、箱根の温泉を目指して江戸を発ったが、それから辿る東海道、到るは京か大阪か(*2)、しかし夢見るのはいつもその東の方角、源太、お吉の住む江戸であった。
*1 油虫……ゴキブリのこと。
*2 それから辿る東海道、到るは京か大阪か……日本近代文学大系の頭注に拠れば、『「いろはがるた」の最後は、「京の夢大坂の夢」なので、それをふまえている』とある。




