幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 二十三
其 二十三
鷹が飛ぶ時は決して余所視はせず、鶴なら鶴の、その狙った一羽だけを、雲を突っ切り、風に逆い、目指す獲物の咽喉仏を把攫までは決して承知しないものである。
十兵衛がいよいよ五重塔の工事をすることに決まってからは、寝ても起きてもそのことばかり。朝の飯を食う時も、心の中では塔を噛み、夜の夢にも魂魄は九輪の頂の廻りを巡るほどであれば、まして仕事をする時には、妻のあることも忘れ果て、児のあることも忘れ果て、昨日の我は既になく、明日の我も頭にない。ただ、釿(*1)を振り上げて木を伐る時は満身の力をそれに籠め、一枚の図を引く時には、一心の誠をそれに注ぐ。五尺の生身の身体だけは、犬が鳴き、鳥が歌い、権兵衛の家に吉慶あれば、木工右衛門の所に悲哀があるといった、ごく日常の俗世に属するものの、精神はそんな紛らわしい因縁に奪われることはなく、必死になって勤め励めば、先だっての夜、源太に悪く思われたことは気に掛からないでもないが、日頃ののっそりは益々長じて、もはや何処に風が吹いた、くらいにしか思わぬようになり、自然と軽く受け流すようになって、いつしか頓と打ち忘れるようになった。唯々、仕事に没頭するのは、愚かなだけに情に鈍く、一本道があれば、もうそこからは外れて駈け出すことのない老牛の愚かさにも似ていた。
金箔、銀箔、瑠璃、真珠、水精、以上合わせて五宝、丁字、沈香、白膠、薫陸、白檀、以上合わせて五香、その他、五薬、五穀まで備えて、大土祖神、埴山彦神、埴山媛神という、あらゆる鎮護の神々を祭る地鎮の式も終え、地曳土取(*2)の儀式も支障なく済ませた。さて、龍伏(*3)は、その月の生気の方から敷き始め、以後順々に右回りに据えて行き、五星を祭り、釿初めの大礼には、鍛冶の道を創められた天目一箇命、番匠の道を闢かれた手置帆負命、彦狭知命から、思兼命、天児屋根命、太玉命、木の神と言われる句々廼馳の神まで、七神を祭って、その次の清鉋の儀式も首尾よく済んで、東方提頭頼吒持國天王、西方尾嚕叉廣目天王、南方毘留勒叉増長天、北方毘沙門多聞天王の四天王にかたどる四方の柱、千年万年動ぐなと祈り定める柱立式、天星、色星、多願の玉女の三神(*4)、貪狼巨門など北斗の七星を祭って願う永久安護、順に柱の仮轄を三つずつ打って、脇司に打ち緊めさせる十兵衛は、これまでの幾干の苦心も此処まで来れば、垢穢顔にも光の出るほどの喜悦。気も勇み立って、『動きなき下津磐音の太柱』と、式で唱える古歌さえも、何とはなしにつくづく嬉しく、『身を立つる世のためしぞ』と、その下の句を吟ずるにも莞爾しながら二度繰り返し、壇上に向かって礼拝恭み、柏手の音を清く響かせた。
一切成就の祓いを終える此処の光景に引きかえ、源太の家のもの淋しさ。
主人は男の心を強く持ち、思いを外には現さないが、お吉はどれほどさばけた質とはいえ、流石に女の度量は小さく、出入りの者に、感応寺の塔の地曳が今日済んだ、柱立式は昨日済んだと聞く度ごとに忌々しく、嫉妬の火炎が衝き上がってきて、おのれ、十兵衛の恩知らずめ、良人の心の広いのをいいことにして付け上がり、うまうまと名を揚げ身を立てるか。もし、名が揚がり、身が立つのであれば、此方には差し詰め礼にでも来るべきなのに、知らん顔して鼻高々とその日その日を送りくさるか。余りに性質の好過ぎる良人も良人なら、面の憎いのっそりめものっそりめだと、折に触れてはあっちこっちに癇癪の虫を跳ね廻らせ、自分の小鬢の後毛を上げる時も、
「ええ、焦れったい」と、罪のない髪を掻き毟り、一文お恵みをと、物乞いがやって来ても、甲走った声を上げて酷く謝絶るなどしていたが、ある日、源太が不在のところへ気心の知れた道益という饒舌坊主の医者が遊びに来て、四方八方話の末、
「ある人に連れられて、先日蓬莱屋へ参りましたが、お伝という女から一部始終聞きましたぞ。いやどうも此方の棟梁は違いますな、偉いもの、男はそうありたいと感服いたしました」と、お世辞半分に何気なく話し出した言葉を、それはどういうこと? と、その夜の仔細を聞けば、知らずにいたことさえ口惜しいことを知ってしまい、これまで以上、十兵衛に憎さが募り、お吉はますます腹を立てずにはいられなかった。
*1 釿……大工道具の一つ。鍬に似た形をした斧。手斧。
*2 地曳土取……地鎮祭の後に行う、土地を清める儀式。
*3 龍伏……礎石。日本近代文学大系の頭注に拠れば「まず地中に小石を埋め、それを築き固めて土台石をおくこと」とある。
*4 玉女の三神……陰陽道でまつられる神々の名。天皇玉女、色星玉女、多願玉女。原文に「天星」とあるが、「天皇」が正しい?
★ 素人の独り言
この節も前節の建築様式の記述と同様、建築の儀式に関する内容が事細かく描かれている。施工時の段取り、神々の名など浅学の私にはそれを信じるしかない。『近代文学大系』には私の注以外にも多くの頭注がある。深く知りたい方には多少なりとも参考になるだろう。しかし、それほど細かく知りたいと思わなければ、読み飛ばしても差し支えないのではと考えてしまう。……と、これは私の不勉強と怠惰な精神から出る言葉でもあるが。




