幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 二十二
其 二十二
言葉はなくても、真情が見える十兵衛の挙動に、源太は悦び、春風が湖を渡り、霞が日を蒸すとでもいうような温和な表情になって、なおもやさしい口調で、
「こう打ち解けてしまった上は、互いに不妙こともなく、上人様の思し召しにも叶い、我達の面目も立つというもの。あぁ、何にせよいい心持ちだ。十兵衛、お前もゆっくり過ごしてくれ、我も今日は充分酔うぞ」と言いながら立ち上がり、違い棚に載せてあった風呂敷包みを取り下ろして、結び目を解き、二つに束ねた書類を出して、十兵衛の前に置いた。
「こいつは我にとってはもう要のないもの、一つはこれ、材木の委細い見当を調べたものやら、人足、担ぎ人足、その他種々の費用を幾晩もかかって漸く調べあげた見積もり書き、またもう一つは、彼所をどうする此所をこうすると、工夫に工夫した下絵図、腰屋根の地割だけなのもあり、平地割だけなのもあり、初重の形だけ描いただけのもあり、二手先、または三手先、出組だけのものもあり、雲形、波形、唐草、生類(*1)、彫物だけを書いたものもあり、何よりも面倒な
真柱から内法、長押、腰長押、切目長押に半長押、椽板、椽かつら、亀腹柱、高欄、垂木、桝肘木、貫やら角木の割合算法、墨縄の引き方、規尺の取り方などが余さず洩らさず書いているのもある。中には我が書いたのではないが、家に伝わる秘伝の遺品、外には出せない絵図もあり、京都とか奈良とかの堂、塔を写し取ったものもある。これらは悉皆お前に預ける。見れば何かの参考にもなろう」と、自分の精神を籠めたものを惜しげもなく譲り与える、そんな度量の広さに頼母しさを覚えないでもないが、のっそりもまた一途な気性。他の金で美味いものを食べようというのは好まず、
「親方、まことに有り難くはありますが、ご親切は頂戴いたも同然、これはそちらにお納めを」と、心はそんな心算はなくても、言葉として素っ気なさ過ぎる返辞をすれば、源太は何とも不満気に、
「此品をお前は要らんと言うのか」と、怒りを底に匿して訊けば、のっそりは源太のそんな気持ちも気づかずに、
「別段拝借いたしても……」と、迂濶り答えかけるその途端、鋭い気性の源太は堪らず、
「親切の上にも親切を尽くして、我が智恵と思案を凝らした絵図まで与ろうというのに、それを素気なく返すとは無礼ではないか。どれ程自己の手腕に自信があってか知らんが、他人の好情を無にするというのか。そもそも最初にお前なんかが我の対岸へ廻った時にも腹は立ったが、じっと堪えて争わず、大体我の下に身を置きながら、今回の仕事を手に入れようとするなど、どれだけ打ち叩いても飽きない奴と、怒って怒って、してやろうと思えばどうにでもできるところを、可愛い奴だと思ったからこそ、一言の厭味も言わず、唯々、自然の成り行きに任せておいたのに、そのことを忘れたか。上人様のお諭しを受けた後も、考えに考え抜いた末、わざわざ出かけてお前のために相談を掛けてやったのに、勝手な意地を張り、大体は堪忍などできないところを、よくよくお前が最惜いと思ったからこそ踏みとどまったのが分からんのか。お前は運が好いからだけで、手腕が好いからだけで、心が正直だからというだけで、上人様から今度の工事を命けられたと思っているのか。此品を与って、この源太が恩着せがましくするとでも思うのか。あるいは、もはや慢心してしまい、端からこんな詰まらないものと、人の絵図を安っぽく思うのか。要らないと言うものを無理に受け取ってもらうことはない。しかし、余りにも人情のない奴、あぁ、有り難うございますと、喜んでこれを受け取り、この中での仕様を一箇所でも二箇所でも使ってみて、あの箇所はお陰でうまく行きましたと、後で礼を言うほどのことはあっても当然なのに、開けて見もせず、覗きもせず、こんなことは知れ切ったものと言わんばかりに愛想もなくすげもなく、要らん、とは、お前、十兵衛よくも撥ねつけたの。この源太が認めた図の中にあるのは、お前が知っているものばかりだというのか、お前の工夫に我が及ばないとでも言うのか、見るに足らぬとそちらで思っているのなら、お前のやり方も知れたもの、大方、高の知れた塔しか建たないのは、建つ前から目に映って、気の毒ながらもう既に批難がある。もう、堪忍袋の緒も切れた。卑劣い返報はしないが、源太の烈しい意趣返報がないとは思うなよ。酸っぱくなるほど、今までは口もきいたが、もうきかん。一旦思い捨てた上は、口をきくほどの未練も持たん。三年でも、五年でも、返報をするのに充分な機会を得るまで、物陰から眼を光らせて睨んで無言でじっと待っててくれよう」と、気性が違えば思惑も違う。一度、二度、終に三度目で無惨にも完全に齟齬い、怖いまでに物静かに言葉を低めて、
「……十兵衛殿」と、殿の字を急に付け出し、丁寧に、
「要らんという図はしまいましょ。お前さん一人で建てる塔はきっと立派にできるだろうが、地震や風にまさか壊れることはあるまいな」と、言葉は軽いが、深く嘲る言葉に十兵衛も快くは思わず、
「のっそりでも恥辱は知っております」と、心底から力を籠めて源太の言葉に応じれば、
「なかなか見事な一言じゃ、忘れぬように記臆えておこう」と、釘を刺しつつ、恐ろしく睨み付けて、後はものも言わず、やがて直ぐに立ち上がり、
「あぁ、とんでもないことを忘れていた、十兵衛殿、ゆっくりと遊んで行ってくれ、我は帰らなければならんことを思い出した」と、風のようにその場を去り、あっという間におおよその勘定をして、幾金かを遺して風と出ていく。そして、直ぐその足で、同じ町にある、ある場所の敷居を跨ぐや否や、
「厭だ厭だ、厭だ厭だ、詰まらん、下らん、馬鹿馬鹿しい、愚図愚図せずに酒を持ってこい。何だ蝋燭なんかいじりおって(*2)、それが食えるか、鈍痴め、そんな肴で酒が飲めるか、おい、小兼、春吉、お房、蝶子らを四の五の言わせず、見つけて連れて来い、それから足の達者な若い衆に頼む、我家に行って、清、仙、鉄、政、誰でも彼でも直ぐに遊びに来るように言ってくれ」と、そう言う片手間にも、ぐいぐい仰飲り、そこにやって来た女達に
「何がこんばんわだ、ぼんやりしたことを言いおって」と、真っ向から焦燥た思いを吹っ掛けて、
「飲め、飲め、酒は車懸りで円陣を組め、猪口は巴にグルグル廻せ、お房、体裁など気にするな、春婆、大人ぶるな、えぇ、お蝶め、それでも血が巡っているのか、頭上に鼬花火を載せて火を点けるぞ、さあ歌え、じゃんじゃんやれ、おっ、小兼の奴、気持ちの好い声を出すじゃないか、よしッ、あぐり踊るか、かぐりもっと跳ねろ、やぁ清吉来たか、鉄も来たか、何でも好いわ、滅茶苦茶に騒げ、我に嬉しいことがあるのだ、無礼講にやれ、やれ」と、源太はもう破れかぶれの勢いである。後れて来た仙も政も、何が何やら分からないが、浮かれ立って、天井が抜けようが、根太が抜けようが、抜けたら此方のお手のものと、飛ぶやら舞うやら唸るやら、はやり歌の潮来節に『潮来出島の 真菰の中で あやめ咲くとは しおらしや』とあるが、それを女が唄っても、もうしおらしくも何ともなく、皆で声を上げて甚句(*3)を喚き立て、かっぽれに滑って転倒び、手品で使う太鼓を杯洗(*4)で鉄がたたけば、清吉はお房の傍に寝転び、銀釵にお前その様に酢ばかり飲んで(*5)、を稽古する馬鹿騒ぎ。そんな中、何か思うところがある顔つきで、政が木遣り(*6)を丸めたような声を出しながら、『北に峨々たる青山を』(*7)と、異なことを吐き出す勝手三昧。やっちゃもっちゃの末は、拳遊び(*8)も下卑てきて、着物を全部脱いだ女が、もはや臍の下に紙幕を張らなければならないほどになると、
「さあ、此処はもう切り上げるぞ」と、源太が一言。それから先は何所へやら……。
*1 生類……生き物。
*2 蝋燭なんかいじりおって……日本近代文学大系の頭注に拠れば「来客のために、あわてて灯火をつけているさま」と解説してある。
*3 甚句……全国各地にある郷土民謡。
*4 杯洗……盃を洗うための水を入れる器
*5 銀釵にお前その様に酢ばかり飲んで……「日本近代文学大系」の頭注には『俗謡の一種か』とあり、詳細不明。筆者もあちこち検索してみたが分からなかった。ご存じの方がいらっしゃればお教えください。
*6 木遣り……木遣り歌。重い木材などを大勢で運ぶ時、息を合わせるためにうたう歌。
*7 北に峨々(がが)たる青山を……長唄「老松」の一節。平家物語に「北には青山峨々として、松吹く風索々(さくさく)たり」とも。
*8 拳遊び……今で言う「野球拳」のような遊び。じゃんけんで負けた方が着ている服を一枚ずつ脱いでいく。
★ 素人の独り言
二手先、三手先、出組など古寺建築用語に関して、当初「注」を入れようとしましたが、建築に関してまったく無知な私が、間違った記述をしてしまう可能性もあり、一旦書いたものの、削除しました。興味のある方はネット検索してみてください。多くヒットします。
なお、私としては、工藤圭章・渡辺義雄著「古寺建築入門」(岩波書店)という本が写真も多く、図も参考になりました。




