幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 二十一
其 二十一
池に浮かぶ紅蓮、白蓮の香りが衣袂や裾にゆかしく薫り、浮葉にころころと露の玉が揺らいだり、立葉に風が軟吹いたりする風情ある夏の景色も、赤蜻蛉が水草を弄び、やがて初霜が降りる季節となって、向うが岡(*1)の樹梢を紅く染める頃になると、そんな眺望も全然なくなってしまう。とは言うものの、蓮が暗赤色の茎ばかりになって、池の中に淋しく立っているその間を、世を忍ぶような白鷺がそろりそろりと歩く姿も風情があり、紺青色に暮れて行く天に漸く輝り出した星を背中に擦って飛ぶ雁の、鳴き渡る音が聞こえるのも不忍池の一つの趣味である。そんな景色を肴の外の下物として、客に酒を亀の子に振る舞う(*2)ほどに飲ませる蓬莱屋の裏二階に、気持ちのよさそうな顔をして、楽しげに人を待つ一人の男がいた。
唐桟(*3)揃いの淡泊した装いで、住吉張の銀煙管(*4)をゆったりと構えているのは、職人らしい侠気のある物言いや挙動に見えるが、少しも下卑たところのない上品な器量である。いずれは親方、親方と多くの者たちに立てられる、棟梁衆の一人だと、随分前から承知しているお伝という女が、
「さぞ、お待ち遠しいでございましょうね」と、膳を置きながらお世辞を言えば、待っている退屈しのぎにその言葉を引き取って、
「あぁ、待ち遠しくて、待ち遠しくて堪らんわ。本当に人の気も知らないで、何をしていることやら」と言えば、
「それでも、お化粧に手間が掛かっているでしょうから、無理もないはず」と言って、
「ホホ……」と笑うのは、いかにも慣れきった返し方である。
「アハハハ、それも道理じゃ、今に来たなら能く見てくれ、まぁ恐らく此処辺にはまず、お目に掛からない、というものだ」
「おや怖ろしい、そんな別嬪さんとはねェ。何を散財くださいますか。で、親方、というものとは、何所かのお師匠様ですか」
「いいや」
「娘さんですか」
「いいや」
「では、後家様」
「いいや」
「じゃ、お婆さん」
「馬鹿言え、可哀想に」
「それでは……、赤ん坊」
「此奴め、人をからかうな、ハハハハハ」
「ホホホホホ」と、くだらなく笑っているところへ、襖の外から、
「お伝さん」と名を呼ばれ、
「お連れ様が」と知らされれば、お伝は立ち上がって、襖を開けかけながら、ちょっと後ろを向いて、男に目配せをして見せ、無言で笑うのは、男がさぞ嬉しかろうと調戯って焦らせて、心底喜ばせてやろうとする冗談であるが、源太の方が逆に、心底可笑しく思っているとも知らず、お伝がすいと開ければ、のろりと入ってくる客は色気のある若い女どころか、香もなければ艶もない無骨男。ぼうぼう頭髪のごりごり髭、面は汚れ、垢が付いて破れた衣服は、見るからに厭気がぞっと立つほどの様子。お伝もさすがに呆れて、挨拶さえもどぎまぎしてしまい、急には言葉が出ない。
源太は笑みを含みながら、
「さあ、十兵衛、此所へ来てくれ、構うことはない、大胡座で楽にしてくれ」と、おずおずしている十兵衛を無理に坐らせる。
やがて膳もすべて出そろい、さてあらためて飲み乾した酒盃を十兵衛に渡し、酒を注いで、沈黙でいる十兵衛に対い、
「十兵衛、先刻、態々富松を遣って、こんな所に来てもらったのは、他でもない、実は仲直りしてもらいたくてだ。お前とわっさり飲んで、お互いの胸の中をじっくりと合わせて仲良くなり、どうか過日の夜の我の言ったあの言い過ぎを忘れてもらいたいのだ。聞いてくれ、こういう訳だ。過日の夜は、実は我もお前を余りにも解らん奴だとむきになって腹を立てた。恥ずかしいが癇癪も起こし、業も煮やし、お前の頭を打砕いてやりたいほどにも思った。しかし、幸福なことに源太の頭は悪の方ばかりには傾かなかった。清吉めが家へ来て酔った揚げ句に言い散らした無茶苦茶を、あぁ、了見の小さい奴は詰まらぬことを理屈っぽく、恥ずかしげもなく言うものだと、聞いているのさえ可笑しくて堪らなかったが、ふとそう思ったその途端、あの夜のお前の家で並べ立てて来た我の言い草に気がついて、考えてみれば清吉の言葉と似たり寄ったりではないか、えぇ、間違った、一時の腹立ちに我を忘れてしまったか、残念、この源太の男が廃る、意地が立たん、上人の蔑視も怖ろしい。十兵衛が何もかも捨てて辞退するものを斜に取って、逆意地立てるのは大間違い。とは思っても、余りにもお前の解らなさ過ぎが腹立たしくて、四方八方、何所から何所まで考えても、此所を押せば、其所にひずみが出る、彼点を立てれば此点に無理があると、まぁ、我の智恵分別のありったけを尽くし、自己のためばかり考えているのではないと話をしたつもりが、無下に言い消されたのが忌々しくて、忌々しくて、随分堪忍もしかねたが、さて、いよいよ考えを定めて上人様にお眼に掛かり、思うことを申し上げれば、好い好い、と仰られるその一言で、もう雲霧はすっかりなくなり、清しい風が大空を吹き渡っているような気持ちになった。昨日はまた、上人様から態々のお招きで行ってみれば、我にご褒美のお言葉の数々、その上、いよいよ十兵衛に普請の一切を申しつけたが、蔭になって助けてやれ。皆汝の善根福種になるのじゃ。十兵衛の手許には職人もいまい。彼がいよいよ取りかかる日には何人もの職人が要るだろうが、その中には汝の手下の者も交じろう、決して猜忌邪曲など起こさぬように、それらには汝から能く言い含めてやるが好い、との細かいお諭し、何から何までお見通しで、お慈悲深い上人様のありがたさをつくづく身に浸みて帰った来たが、十兵衛、過日の言い過ごしは堪忍してくれ、こうした我の心意気を解ってくれたら、従来通り浄く睦まじく交際ってもらいたい。一切がこういう風に定ってみれば、あれこれ思ったことは皆夢での中の言い争いみたいなもの、後に残す面倒こそあれ、益のないこと。この不忍池の水にさらりと流して、我も忘れよう、十兵衛、お前も忘れてくれ。木材の商談、鳶人足の仲介など、まだ顔を売り込んでいないお前には一寸ばかりやりにくかろうが、それらには我の顔も貸そう、手も貸そう。丸丁、山六、遠州屋など、好い問屋は皆馴染でなくては、こっちを見くびってうまく事が運ばないだろう。万事歯痒いことのないように我を自由に出汁に使え。め組の頭の鋭次というのは、短気なのはお前も知っていようが、骨は黒鉄、性根玉は憚りながら火の玉だ、と平常言うだけあって、さてもじっくり頼めばぐっと引き受け、一寸退かぬ頼母しい男。塔は何より地行(*5)が大事、空風火水の四つを受ける地盤の固めを彼にさせれば、火の玉鋭次の根性だけでも不動の台座の岩より堅い基礎を確りと据えさせてみせるわと、諸肌脱いで遣ってくれるのは間違いない。彼にもいずれ紹介せよう。もう、こうなった暁は、源太の望みはただ一つ、天晴れ十兵衛、お前が能く仕上げさえすりゃそれで好いのじゃ。唯々、塔さえ能く成ればそれ以上嬉しいことはない。仮初にも百年、千年後にも残って、謂わば我等の弟子、またその流れの奴らの眼にも入るものに、ヘマがあっては悲しいではないか、情けないではないか。源太、十兵衛の時代にはこんな下らない建物に泣いたり笑ったりしたそうな、と言われる日には、なぁ十兵衛、二人の骨も魂魄も粉灰にされて、消し飛ばされるわ。拙な細工を施したまま、世に出ないなら恥も劫って少ないが、遺したものを弟子めらに笑われる日には、馬鹿親父が息子に意見されるのと同じで、親から意見を言われる子より何倍にも増して恥ずかしかろう。生磔刑で死んだ後、塩漬けにされて、もう一度磔刑になるような目に遭ってはならん。初めは我もこれほど深く、思うこともなかったが、お前が我の対面に立ったその意気の張りようを見て、我の腹の底には、十兵衛に塔を建てさせて見よ、源太に劣りはすまい、そしてもう一つ、源太が立てて見せてくれよう、何、十兵衛に劣ることなどないわ、という二つの思いが出て来た。その二つの思いを幾度も幾度も擦り合わせ、木で木を擦り合わした時に出る火で見る先の先……、それを見た時、もう自分の考えを押し通そうとする思いは何にもなくなった。ただ、好く成てさえすれば、それで好い。お前も名誉、我も悦ぶ。今日はこれだけを言いたいだけだ。あぁ、十兵衛、その大きな眼を潤ませて聴いてくれたか、嬉しいやい」と、磨いて研いで研ぎ出した純粋の江戸っ子、粘り気はなし、一でなければ、その真裏の六と出る。忿怒の裏の温和さも、飽くまで強い源太の言葉に、身じろぎさえしないで、じっと聞いていた十兵衛、何も言わず、畳に食いつき、
「親方、堪忍して下され、口がきけませぬ、十兵衛、口がきけませぬ。こ、こ、この通り、あぁ、有り難うございます」と、愚魯しくも、心底真実に、ただ平伏して泣くばかりであった。
*1 向うが岡……日本近代文学大系の頭注に拠れば「東京都文京区。もとの本郷にあり、旧制の第一高等学校があった」とある。
*2 酒を亀の子に振る舞う……「ウミガメが網にかかったら酒を飲ませて海へ帰す」「亀に酒を飲ませると喜ぶ」という言い伝えがあり、亀は酒が好きということから、この表現になっていると思われる。
*3 唐桟……木綿の縞織物。
*4 住吉張の銀煙管……“上野池之端仲町にあった住吉屋は、浅草御蔵前黒船町の村田屋と一、二を競い、「住吉と村田張り合い磨き合い」と川柳にまで詠まれた”と「東京クリップ」というサイトにありました。「住吉と村田張り合い磨き合い」で検索すればヒットします。
*5 地行……地固め。




