表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳   作者: 秋月しろう
20/35

幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳  其 二十

 其 二十


 十兵衛は感応寺に参って、朗円(ろうえん)上人にお目にかかり、涙ながらに辞退する旨を告げて帰ったが、その日の味気なさと言ったら、煙草を()むだけの気力もなかった。ただ茫然(ぼんやり)として、つくづく我が身の薄命(ふしあわせ)、浮世の(わた)りづらさなどを思い巡せば、思い巡らすほど気分も落ち込んだ。食事の時間になって、食う飯の味が今更(かわ)るはずもないけれど、箸を持つ手さえゆらゆらとして定まらず、舌は何を食べても美味(うま)いと受け取らず、平常(いつも)は六碗、七碗と気持ちの好いほど平らげるのに、僅かに一碗、二碗で終え、その代わりに、茶ばかり飲むというのは、心に(わだかま)りを抱える人の慣例(つね)と言うものか。

 主人(あるじ)が浮かねば女房も、そして何の罪もない頑要(やんちゃ)ざかりの猪之(いの)まで自然(おのず)と浮き立たず、淋しい貧家はさらに淋しさを増し、希望(のぞみ)もなければ快楽(たのしみ)も何一つない一日が暮れて、暖味(あたたかみ)のない夢に、もの寂しい夜を明かした。

 お浪は暁天(あかつき)の鐘に()()めて、猪之と一所に寝ていた蒲団から(そっ)と出るが、朝風の寒いのに火もない(うち)から起こすのは可哀想、もう少し寝かせておこうという(やさ)しい親心であったが、何もかも知らないでたわいもなく寝ている平生(いつも)とは違い、どうしたことか、(たちま)ち飛び起き、寝衣(ねまき)姿のまま蒲団の上で跳ね廻り跳ね廻り、

「厭じゃい、厭じゃい、父様(とうさま)()っちゃ厭じゃい」と、(わらび)のような手を眼に当てて、訳も判らず泣き出せば、

「えぇ、これ、猪之はどうした?」と、吃驚(びっくり)しながら抱き止めるが、抱かれてもなお泣き止まない。

「誰も父様を打ちはしません、夢でも見たか、ほら、そこに父様はまだ寝ておられる」と、顔を押し向けて教えてやれば、不思議そうに覗き込んで、漸く安心したものの、まだ疑いの晴れない様子。

「猪之や、何にもありはしないわ。夢を見たのじゃ。さあ、寒いから風邪を引いてはなりませぬ。蒲団に入って寝ていなさい」と、引き倒すようにして横にならせ、掻巻(かいまき)を掛けて隙間のないように上から押しつけてやる母の顔を見ながら、眼をぱっちりさせ、

「あぁ怖かった。今他所(よそ)の怖い人が」

「おぉ、おぉ、どうかしましたか」

「大きな、大きな鉄槌(げんのう)で、黙って坐っている父様の、頭を()って、幾つも()って、頭が半分(こわ)れたので、坊はものすごく吃驚(びっくり)した」

「えぇ、鶴亀(つるかめ)鶴亀(つるかめ)(*1)、厭なこと、縁起(えんぎ)でもない」と、眉を皺寄せる折も折、戸外(おもて)を通る納豆売りの震え声に覚えある奴が、

「ちぇっ、忌々(いまいま)しい、草鞋(わらじ)が切れた」と、打ち独語(つぶや)いて行き過ぎていくのを聞いて、女房はますます気分を悪くし、台所に出て釜の下を()き付けようとするが、思うように燃えない(まき)にも腹立たしく、引窓(ひきまど)のすんなり()かないのも今更のように()れったく思えた。

 あぁ、今日は何となく厭な日だと思うのは、皆この心から出ること、とは分かっていながら、気になることばかり気にしていると、いくらでも気にしてしまう。しかし、口に出して言えば、夫にまた笑われてしまうだろうと、自分で自分を叱って、平日(いつも)よりも笑顔を作り、言葉も(ほが)らかに、溌々(いきいき)として夫に接し、子をあしらうが、(もと)(わざ)としている偽飾(いつわり)のものなので、(かえ)って笑い声の尻が憂愁(うれい)の響きを(のこ)しているという有り様であった。が、そんな最中(さなか)

「十兵衛、おるか」と、横柄に大人びた口を利きながら這入(はい)ってくる小坊主。高慢にもちょこんと上がり込み、

「ご用あるにつき、直ぐに来られたし」と、前後(あとさき)なしの(ぼう)口上(こうじょう)

 お浪も怪訝(けげん)な顔、十兵衛もどういうことなのか分からないでいたが、断ることも出来ず、もはや感応寺の門をくぐることさえ意味のないことなのに、と考えながらも、

「どんなご用事でありましょう」と、(おもむ)いて問えば、これは何と! 天地があたかも逆転したかのよう。夢か(うつつ)か真実か、右に円道、左に為右衛門、中央(まんなか)に朗円上人が坐っておられ、円道が言葉もおごそかに、

「この(たび)建立(こんりゅう)するところの生雲塔(しょううんとう)の一切の工事、川越の源太に任せられるべきところ、方丈(ほうじょう)(*2)の(おぼ)し召しにより、格別のご吟味、例外のお慈悲をもって、十兵衛、その(ほう)(しか)(おん)(まか)せるに相成(あいな)った。辞退などは決して無用。早々に有り難くお受け申せ」と、言い渡される言葉に重ねて、上人が皺枯れたお声で、

「これ、十兵衛よ、思う存分仕遂(しと)げて()い、()うに仕上がれば嬉しいぞ」と、荷担(にな)うに余る有り難いお言葉。

 のっそり、ハッと俯伏(うつぶ)せたまま、五体を(なみ)のように(ゆる)がせて、

「十兵衛めの生命(いのち)は、さ、さ、差し出しまする」と言った切り、(のど)が塞がって、続く言葉が出せず、深閑(しんかん)とした広い座敷には、何かを語るような呼吸が(かす)かに聞こえるだけであったが、その(あふ)れる思いは聞く人の耳にしっかり響き伝わったのであった。


 *1 鶴亀(つるかめ)鶴亀(つるかめ)……縁起の悪いことがあった時、縁起直しに唱える文句。

 *2 方丈……住職。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ