幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 十九
其 十九
その夜、源太は床に入ってもなかなか眠られず、一番鶏、二番鶏の鳴き声を確かに聞いて、朝も平日より早く起き、含嗽と洗面で、見てもいない夢を綺麗に洗い流した。熱茶を一杯飲んで昨夜の酒の残り香を払っていると、折しもむくむくと起き上がってきた清吉、寝惚眼をこすりこすり、怪訝顔してまごついているのを見て、お吉ともども噴飯して笑い、
「清吉、昨夜はどうした?」と、嬲ってやれば、急にかしこまって無茶苦茶に頭を下げ、
「つい、ご馳走になり過ぎて、何時の間にか寝てしまいました。姉御、昨夜、私は何か悪いことでもしでかしてはおりませんか」と、心配そうに尋ねるのも可笑しく、
「まぁ、何でも好いわ、飯でも食って仕事に行きやれ」と、和しく言われて、ますます畏れ、ぼんやりとして腕を組み、頻りに考え込む様子。そんな正直なところが可愛らしい。
清吉を送り出した後、源太はなおも考えに一人沈んで、日頃の快活とした調子もなく、碌にお吉に口さえきかず、思案に思案を凝らしていたが、
「ああ解った」と、独り言を言うかと思えば、
「不憫な……」と、溜息をつき、
「えぇ、もう止めてしまおうか」と、言うかと思うと、
「どうしてくれよう」と、腹立てている様子でもある。それを傍で見ているお吉の辛さ。
「何をそんなに」と、夫を慰めようと口に出せば、
「黙っておれ」と、やり込められ、致し方なく自分の胸の中で空しく心を痛めるばかりであった。源太はそれには関いもせず、夕暮れ頃まで考えに考え、漸く何かを思い定めたと見えて、衝と身を起こすと、衣服をあらため、感応寺へ赴いた。上人と会って、昨夜の顛末を隠すことなく上人に語り、最後に、
「一旦は私も余りにも解らぬ十兵衛の答に腹を立てたものの、帰ってよくよく考えれば、たとえば私一人で立派に塔を建てたにせよ、それでは折角お諭しを受けた甲斐もなく、源太がまた我欲を張っただけの、強いようで男らしくもない話。と言って、十兵衛は十兵衛の思いを捨てることはまずない様子。彼もまったく自己を押さえて私に譲れば、この源太も自己を押さえて彼に仕事をさせなければという義理人情。色々愚昧な考えを使って、漸く提案したことにも十兵衛が乗らなければ仕方なく、それを怒っても恨んでもどうしようもない訳で、私にはもうこれ以上他に考えが及びません。ただ願いますのはお上人様、たとえば十兵衛一人に仰せつけられましても、私は何とも思いませんので、十兵衛になり、私なり、あるいは二人共々になり、どうとでも仰せつけられて下さいませ。お上人様自らのお言葉であれば、十兵衛も私も互いに争う心は捨てておりますので、何ら支障はございません。この件につきましては、我ら二人が相談しても手に余りましたので、お願いに参りました」と、真剣な顔つきで願えば、上人はほくほく笑われて、
「そうじゃろ、そうじゃろ、さすがに汝も見上げた男じゃ。好い好い、その心掛け一つで、もう生雲塔を見事に立てたよりも立派な男になっておる。十兵衛も先刻ここに来て、同じことを言うて帰ったわ。彼も可愛い男ではないか、のう源太、可愛がってやれ、可愛がってやれ」と、何かを含んだ言葉。源太はそれを聞くと、素早く理解して、
「えぇ、可愛がってやりますとも」と、実に清しげに答えれば、上人は満面を皺だらけにしてお悦びになり、
「好いわ、好いわ、ああ実に気持ちのよい男じゃな」と、真から底から褒美られて、勿体なさを感じながら、源太は思わず頭を上げ、
「お陰で男になれましたか」と、その一言に無限の感慨を籠め、男泣きして喜んだ。そしてこの時、早くも源太に、十兵衛の仕事に力を貸そうとする心が、世にも美しく湧き立ったのであった。




