幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 十六
其 十六
「えい、ありがとうございます。あぁ、目一杯酔いました。もう飲めやせん」と、ただただ何度も空お辞儀を繰り返すが、猪口を持つ手だけは引っ込めないのが酒飲みの常態、清吉は出された酒に早くも十分酔ったけれど、遠慮するのはまだ三分の真面目さが残っているのか、ちょっと恐縮しながら座り込んで、
「親方の不在に、こうへべれけでは済みませんな。姉御と対酌では、こんな夕暮れから騒がしくするのもいけませんってもんで……。アハハ、何だか無暗に嬉しくなってきました。でも、もう行きましょう。羽目を外すと親方のお目玉だ。だけれど姉御、内の親方にはお眼玉を喰らっても私は嬉しいと思っておりやす。何も姉御の前だからお世辞を言うってんじゃありませんがね、真実に内の親方は茶袋よりも有り難いと思っておるんで。日外の凌雲院の仕事の時も、鉄や慶を対にして、詰まらねぇことから喧嘩を始め、鉄の肩先に大怪我をさせたことがあって、その後、鉄の親から泣き込まれ、あぁ悪かった、気の毒なことをしたと後悔しても、こっちも貧乏、金が無ェ、どうしてやるにも遣りようがなくて、困り切って逃げるしか無ェとまで思っていたところ、親方は黙って治療代も出して下さった上、私には叱言の欠片半分も言われず、ただもの和しく、清や、手前、喧嘩は時の弾みで仕方はないが、気の毒だと思ったら、謝罪っておけ。そうすりゃ鉄の親の気持ちも好いだろうし、手前の寝覚めも好いっていうもんだと、意見して下さったその時は、あぁどうしてこんなに仁慈深いんだろうと、有り難くて有り難くて、私は泣きました。鉄に謝罪る謂われはないが、親方の一言に堪忍して、私も謝罪に行きました。けれども、それからは異なもので、何時とはなく鉄とは仲好しになり、今では何方かに万一したことがあれば、骨を拾ってやろうか貰おうかというくらいの交際になりましたが、それも皆親方のお陰。それに引き替え茶袋なんぞは無暗に叱言を言うばかりで、やれ喧嘩をするな、遊興をするなと下らぬことを小五月蠅く耳の傍でグダグダ愚痴るだけ。ハハハ、いやはや話にもなりません。えっ? 茶袋ってのは、お袋のことです。なに、酷くはありませんや。茶袋で沢山です。しかも、渋ったらしい番茶の方です。あッハハハ、ありがとうございます。もう行きましょう。えっ? また一本燗たから飲んで行けと仰るんですか、あ、あ、ありがたい。茶袋だと、こっちでもう一本というところを反対にもう廃せと言いますわ。あぁ、好い心持ちになりました。歌いたくなりましたな。歌えるか、とは情けない、松づくし(*1)などは彼奴に賞められたほどで」と、罪のないことを言えば、お吉も笑いを含んで、
「おやおや惚気は恐ろしいもんだわ」などと、からかっている所へ帰ってきた源太、
「おお、丁度いい、清吉いたか、お吉飲もうぞ、支度させい、清吉、今夜は酔い潰れろ、野太い声の松づくしでも聞いてやろう」と言えば、
「やや、親方、さては立ち聞きしておられたな」
*1 松づくし……端唄の一つ。各地の名所の松を並べた数え唄。




