幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 十一
其 十一
いつものように玄関の格子戸を開ける音も爽やかに響かせて、
「お吉、今帰った」と、元気よさそうに上がってきた夫の声を聞くや否や、心配をほわりほわりと煙の輪にして吐いていた煙草管をぞんざいに抛り出して、忙しく立ち迎え、
「えらく遅かったではないか」と、言いながら背面に廻って羽織を脱がせ、立ったまま顎を使って袖を畳んで素早く室隅の方にそのまま差し置き、また直ぐに火鉢の傍へ戻って、手早く鉄瓶に火を入れ、チンチンと松虫の音を発させ、どっかりと大胡座をかいた男の顔をチラッと見つつ、
「日は暖かでも風は冷たいので、途中は随分寒えましたろ、一瓶煖酒ましょか」と、痒いところへよく届かす手は、口を利くその間にも、慣れた手つきで膳をこしらる。用意された三輪漬は柚の香りゆかしく、大根卸で食べる鮏卵はあり合わせにしても気が利いた肴である。
源太には苦慮はあっても、いくらかこれに慰められて、猪口を把って直ぐに二、三杯、その後一杯をゆっくり飲んで、
「お前も飲め」と猪口を与えれば、お吉は一口、口に付けて置き、焼きかけの海苔を畳んで折って、
「追っつけ、三子が来そうなものだが……」と、魚屋の名をぽつりと呟き、猪口を返して酌をした後、きっとうまく行ったはずだと確信しているので、動かす舌も滑らかに、
「それはそうと、今日の首尾は? 大丈夫、こっちのものだとは分かっていても、知らせて下さらない中は私ゃ気が揉めますよ。お上人様は何と仰せか。それで、のっそり奴はどうなったか、そんなに真面目な顔でむっつりされては心配で心配でなりませぬ」と、言われて源太は高笑い。
「心配してもらうことはない。お慈悲の深い上人様はどの道我を好漢にして下さるのよ。ハハハ、なぁお吉、弟を可愛がれば好い兄貴ではないか、腹を空かした者には自分は少し辛くても飯を分けてやらなければならない場合もある。他人が怖いことなどこれっぽっちもないが、強いばかりが男ではないわなぁ、ハハハ、じっと堪忍して無理に弱くなるのも男だ。あぁ、立派な男だ。五重塔は名誉の工事。我一人だけでものの見事に千年壊れぬ名塔を万人の眼に残したいが、他人の手も智恵もまったく交ぜずに川越の源太の手腕だけで遺したいが、あぁ、癇癪を堪忍するのが、えぇ、男だ、男だ、なるほど好い男だ。上人様に虚言はない。折角望みをかけた工事を半分他人にくれるのはつくづく忌々しいけれど、あぁ、辛いが、えぇ、兄貴だ、ハハハ、お吉、我はのっそりに半口与って、二人で塔を建てようと思う。これは立派な弱い男と言うべきか、賞めてくれ賞めてくれ、お前にでも賞めてもらわなくては余りにも張り合いのない話だ。ハハハ」と、嬉しそうな顔もしないで、意味のない声ばかり弾ませて笑えば、お吉は夫の気持ちを量りかねて、
「上人様が何と仰ったのか知らないけれど、私にはさっぱり意味が分からず、ちっとも面白くない話。唐変木のあののっそりめに半口与るとはどういうこと。日頃の気性にも似合わない。もし与るのだったら、未練気なしに全部与ってしまう方が好いし、元々こっちで取れるはずものだから、要りもしない助太刀を頼んで、一人の首を二人で切るような卑劣なことをするなんておかしいではありませぬか。冷水で洗ったような清潔な腹を持っていると他人に言われ、自分でもいつもそう言っていたお前さんが、今日に限って何という煮え切らない考え。女の私から見ても、意地の足りない愚図々々思案、賞めませぬ、賞めませぬ。賞めるなんてとても出来ませぬ。たかが相手はこっちの恩を受けているのっそり奴、そもそもこっちの仕事を先潜りする太い奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出せないようにすればいいだけののっそり奴を、そんなに甘やかして胸の焼ける連名工事を何でする必要がありますか。甘いばかりが立派なことか、弱いばかりが好い男か、私の中の腹の虫はどうしても受け取れませぬ。何なら私が一走りして、のっそり奴のところに行って、まったくもって恐れ入りました、と思い切らせて謝罪らせて、両手を突かせてきましょうか」と、女賢しいとも言うくらいの夫思いの言葉。源太は聞いて冷笑い、
「何がお前に解るものか、我のすることを好いと思ってくれてさえいればそれで可いのよ」。




