幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 十
其 十
感応寺からの帰り道、半分死んだようになって、十兵衛は安手の木綿の綿入れの袖を合わせ、腕を組みながら、ぼんやり歩き、お上人様がああいう風に仰ったのは、どちらか一方がおとなしく譲れと諭された謎々であることは、如何に愚かな我でも分かったが、あぁ、譲りたくないものじゃ。折角丹誠に丹誠を凝らして、さぞかし冷て寒いでしょうに、お寝みになって下され、などと親切でしてくれる女房の世話までを、黙っておれ、余計なことだわ、と叱り飛ばして、夜も寝ないで工夫に工夫を積み重ねた細工、今度という今度は一世一代、この腕を精一杯に奮い、建てたら死んでも恨みはないとまで思い込んだのに、悲しいかな上人様の今日のお諭し、確かに道理には違いない、また、そうでなくてはならないと思えることじゃが、これを譲ったら、今度は何時また五重塔が建つという的があるものでもない。この十兵衛は一生、到底世に出ることが叶わない身なのか。あぁ情けない、恨めしい。天道様が恨めしい。尊い上人様のお慈悲は充分了っていて、有り難くないとは露ほども思わないが、あぁ、どうにもこうにもならないことじゃ。相手は恩のある源太親方、それに恨みを向けることもできず、どうしてもこうしても温順にこっちが身を引くしか他に考えようもないか。あぁ、本当にないか。と言って、今更だが、残念な、なまじこんなことを思い立たずに、のっそりだけで済ましていたなら、このような残念な苦悩をすることもないのに、分相応というものを忘れた我が悪かった。あぁ我が悪い、我が悪い。けれども、えぇ、けれども、えぇ、思うまい思うまい、十兵衛がのっそりで、浮世の怜悧な人たちの物笑いになってしまえばそれで済むのじゃ。連れ添う女房にまでも、胸の内で、何と立ち廻りの下手な夫じゃ、とぼやかれながら、夢のように生きて、夢のように死んでしまえばそれで済むこと。だが、諦めるとなると何とも情けない、つくづく世間が詰まらない。あまりに世間が酷過ぎる、いや、そう思うのもやっぱり愚痴か。愚痴かも知れないが、情けなさ過ぎる。言わず語らず諭された上人様のあのお言葉の真実のところを味わえば、あくまでお慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透って、未練な愚痴など出る幕もない。争う二人をどちらも傷つけないようにお捌きになり、末の末まで共に仲良くと、兄弟の子どもに事寄せて、尚いお経を解きほぐして、噛んで含めて下さったあのお話しに準えてみれば、もとより我は弟の身、より一層他人に譲らなければ人間らしくもないものになる。あぁ弟とは辛いものじゃ、と路も見分けられず、思い悩んで眼は涙に曇りながら、とぼとぼと、何一つ愉快もない我が家の方に、糸で曳かれる人形のようにぼんやり我を忘れて行く途中、
「この馬鹿野郎が! 我が折角洗ったものに何をする! 馬鹿め!」と突然に噛みつくように罵られ、癇癪声に肝を冷やしてハッとすれば、ガラリと転倒、手桶を台にして立てかけてあった張物板に気づかず一足、二足踏みかけて踏み返してしまった不様さ。尻餅をついて驚くところを、
「この狐憑きが! ほんに忌々しい!」と、馬鹿力の近江のお兼(*1)、顔は子どもの福笑戯に眼を付けて歪めた多福面のような房州出らしい下女の怒り。拳を振り上げ、パシッと打って、腕を伸ばして突き飛ばせば、十兵衛は堪らず汚塵に塗れ、
「はいはい、狐につままれました、ご免なさいよ」と言いながら悪口雑言を背中で聞いて、痛さも我慢して逃げ去り、漸く我が家に帰り着けば、
「おぉ、お帰りか。遅いのでどうなっているのかと心配しておりました。まぁ、塵埃まみれになって、どうさいました」と、払いにかかるのを、
「構うな」と、一言、気のなさそうな声で打ち消す。その顔を覗き込む女房の真実に心配そうな様子を見て、何故か知らず、無性に悲しくなって、じっと潤んでくる眼。自分で自分を叱るように、
「えぇ……」と、図らずも声が出る。
女房は煙草を差し出すなどして、何気なくもてなすものの言葉は無い。平常とは違う今の状態を、大方それではないかと推し量るけれど、慰めることもできず、問いかけていいものやら、問いかけない方がいいのやら。心に掛かる今日の結果を口に出して尋ねることができない女房は胸を痛めながら、二本のうちの一本が杉箸で、かろうじてその役割を果たしている火箸でもって挟み添えた消炭の、弱々しい火力を頼りに、土瓶の茶を温めるところへ、遊びに出ていた息子の猪之が戻って来て、
「やあ、父様帰ってきたな。父様も建てるか、坊も建てたぞ、これを見てくれ」と、さも勇ましく障子を開けて、褒められたさが顔一杯に、罪なく莞爾と笑いながら、指さし示すのは塔の模型。母は襦袢の袖を噛み、声も出せずに泣き出せば、十兵衛は涙に浮くばかりのまん円眼を剥き出し、瞬きもせずにぐいと睨んで、
「おお、でかしたでかした、よく出来た。褒美を与ろう。ハッハハハ」と咽び笑いを声高く、屋根の上にまで響かせたが、そのまま頭を天に向けて、
「あぁ、弟は辛いなあ……」
*1 近江のお兼……代表的な長唄の一つ「晒女」で唄われる女主人公で、近江国の大力女。




