三月五日
バレンタインの後に好きになったのは、幸か不幸か――浮かんでは消える疑問への、みつるの答えは変わらない。
(幸い、だよね。だって、チョコレートなんて渡せないよ)
代わりにと言っては何だが、築島の授業は今まで以上に真面目に受けたし、先週末にあった期末テストに向けて日本史を頑張ってもみた。
我ながらささやか過ぎるが、みつるにはそれくらいしか出来なかったのだ。
……だが、しかし。
「ちょっ……ツッキー、転勤するんだって!」
「えぇっ!?」
「嘘ぉ……」
月曜日の朝、亜美の席で話しているとクラスの情報通の娘が、そんなニュースと共に飛び込んできた。
途端に生徒達(主に女子)がざわめく中、みつるは呆然とした。
(……転勤?)
確かに一年の三学期にも、教師の転勤はあった。けれど、それがまさか築島にも当てはまるなんて――。
「ショック……あたし、ツッキーにチョコあげたのに」
「えっ……?」
亜美の口から出た言葉に、みつるは思わず声を上げた。そんな彼女に、何も知らない亜美は言葉を続ける。
「あれ、言ってなかったっけ? 義理チョコだけどね。ツッキー、カッコいいから」
そうだ。教師にまでとは知らなかったが、亜美は先輩にチョコレートを渡すと言っていた。それに、優しくて大人と言えば確かに築島にも当てはまる。
あの時はまだ、築島の事は何とも思っていなかったので、もし仮に聞いていても流していただろうが。
(でも、今は)
「……頭、痛い」
「みつる? 大丈夫?」
「うん……ごめん。席、戻るね」
本当に頭痛がする訳ではなかったが、これ以上、亜美とは話せなかった。逆恨みで八つ当たりだと解っていても、無理だった。
それ故、自分の席へと戻って俯く――そうすると、長い髪で顔が隠れてちょうど良かった。
「もう聞いているかもしれないけど、四月から別の学校に転勤する事になりました」
その日の四時間目は、築島の授業だった。他のクラスの生徒達からも聞かれたのか、自分からそう言った。
「短い間だったけど、ありがとう」
本人の口から聞いた事で、決定事項だと思い知る。
(……やだ……)
どうしようもないと頭で解っていても、そう思わずにはいられなかった。
だがそれを口に出し、築島を困らせる事も出来なくて――みつるは唇を引き結び、必死に不満と涙を堪えた。
「瀬尾さん」
「……はい」
テストの点数は、今までのみつるの最高点だったけれど。
俯いたまま受け取ったみつるには、築島がどんな表情をしていたか見る事は出来なかった。
そして、その日の授業が終わった後、みつるは体調不良を理由に一人で家に帰った。
「お帰りー」
「……ただいま」
母からかけられた声に、何とかそれだけ答えて自分の部屋に入った瞬間――みつるはブレザーの制服のまま、ペタンと絨毯の上に座り込む。
(先生が、いなくなっちゃう)
そう思って再び俯いた途端、一日中ずっと堪えていた涙がポロポロとこぼれ落ちた。
今の時代は、携帯電話もメールもあると言われる。だからどんなに遠く離れても、繋がれるのだと言われる。
けれど、友達ならともかく教師とそんなやり取りなんて、出来る訳がない。
(いてくれればいいって思ってたけど、どれだけ呼んでも届かなくなるんだ)
刹那、みつるが思い出したのは鶴姫の辞世の句だった。
『わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ』
うつせ貝とは、海岸に打ち寄せられた空の貝の事で。
恋人の死と共に、自分の恋は空しくなった――死んでしまったと、恋人の名前を思い浮かべるだけでも心が痛むと詠っている。
「わたしの恋も、そうなるんだ」
死ではない――けれど、物理的な別れによって。
そう呟いてゆっくりと上げた、視線の先。そこには、ペン入れに入れていたカッターがあった。
(鶴姫は、家族や恋人を追って入水した……わたしは?)
そんな風に自分へと問い掛けながら、みつるは涙で滲んで映るカッターへと手を伸ばした。




