カラ元気の日常
聞こえてきた目覚ましのアラームに、ゆっくり瞼を開く。
アラームを止め、ホッと一息吐く。
酷い目に会った。まさか目の前で殺し合いが始まるとは想定外だ。夢見が悪かったせいで、どうも気分が優れない。
とりあえず寝起きの体を解そうと、グッと背伸びをしたとき、左太腿に痛みが走った。
起きて恐る恐る調べると、パジャマの左太腿には血が滲んでおり、皮膚には切り傷がついていた。
夢の中で受けたのと同じ傷だ。これと同じことが昨日も起きていた。
(寝ているとき爪で引っかいただけよ。ほら、私って寝相悪いじゃん)
夢の中のことが現実に反映されるわけがない。これはただの偶然だ。
必死に自分を説得しながら傷の処置を終え、動揺で震える手で制服に着替える。
今日は日直当番になっているのでいつもより早く家を出て、学校へと歩く。
当番というものは厄介だ。早く教室に入り、花瓶の水を代えたり、足りないチョークの補充をしたり、窓拭きまで行わなければならないのだ。学級会で決まったこととはいえ、かったるい限りだ。
ほとんどの生徒は登校してきておらず、教室はほぼ無人だ。『ほぼ』とつけたのは、私の他に一人だけ登校している生徒がいるからで、早瀬翔太がそうだ。
早瀬は昨日と同じ、自分の机で美少女な表紙の本を読んでいる。
「手伝おうか?」
窓拭きをしていると、不意に早瀬から声をかけられた。
「言ってる意味がわかんないわ」
「いや、なんか黒江さんが辛そうだったから」
早瀬は本を机の上に閉じ、こちらに体を向かせる。
実のところ顔立ちはそんなに悪くない。キリッとした瞳に、引き締まった口元。体形は中金中背で、体も清潔感が漂っている。彼を『キモイやつ』と称す美香ですら、「見た目だけなら問題ないのに」と、容姿については認めているくらいだ。つけ加えるなら成績も上位だったりする。
趣味さえまともなら、すぐに恋人の一人くらいできそうなものだけど、と思い、机の本に視線をずらす。
そこには、異世界転生うんたらというタイトルと一緒に、女の子の絵が描かれている。
「それって面白いわけ?」
何気なく本を指さし、訪ねてみた。
「うん面白いよ。似た作品がたくさんある中で、とくに捻ったことをやっているわけでもないけど、逆にそれがよいのかな。よかったら読んでみる?」
「遠慮しておく」
私は踵を返し、窓拭きを続けた。
異世界転生。異なる世界に生まれ変わるという意味だろうか。当番を終えたあとスマホで本のタイトルを検索してみた。
発売したのは先週で、現在人気らしく、某ショッピングサイトでは書籍売り上げ一位にランキングされていた。
平凡な高校生の主人公が、剣と魔法の異世界に飛ばされ、その世界を冒険する内容のようだ。
(おいおい、私の夢の中そのまんまじゃん。ひょっとして私も異世界転生しちゃったか)
ヘラヘラと自嘲しつつも、微かに震える足を手で押さえた。
それから普段どおり学校生活が始まる。美香たちと駄弁って時間を潰したり、みんなでクラスの気弱な女子をからかったり、いつもどおりの日常をすごし、今日も放課後がやってきた。
今日も遊んで帰るべく、美香と下校する。
「あそこにいるの、ダサ子じゃない?」
美香が示す先には、一人でゴミ袋を運ぶ女子生徒の姿があった。
あの黒髪と、ダサいロングスカートは、間違いなくうちのクラスの白河桐花だ。化粧っけのない顔、黒ぶち眼鏡、服装も地味。そのオシャレ要素の一つもない容姿から、私たちは彼女を『ダサ子』の愛称で呼んでいる。
「可哀想に、ゴミ出し押しつけられたのね。委員長は大変だわ」
美香が言うとおり、彼女は片方の手に二つずつゴミ袋を持ち、重いのか、時々休みながら運んでいる。彼女は気が弱いせいで、なにかと面倒ごとを押しつけられるのだ。委員長という役職も同じ理由で抜擢された。
……彼女は中学のときから変わらず負け組だ。
「ダサ子がどんな目に遭ってようと、私らには関係ないっしょ。それより早く行こ」
私は立ち止まっていた美香を促し、校門を潜った。
昨日よりは早く帰宅し、苦手なアスパラが夕飯の肉じゃがに入っていることに不満を漏らしつつ、一日を終える。
さて今日の夢はどうなるだろう。三度目の正直だ。
今日の夢が昨日の続きでないことを祈りながら、私はベッドで目を瞑った。