黒との遭遇
荷物というのは大量のワインや葡萄酒といったお酒類だった。行先は北方にある農村で、今晩その村で行われるお祭りで振る舞われるものだそうだ。
馬屋で馬車をレンタルし、私たちはラバマを出発する。
道のりは長く、途中で見張りと手綱係りを交代しながら進む必要があった。二人だけでは休憩時間すら取れなかっただろう。手伝いが必要というのも頷けた。
村に到着したのは夕日が沈む直前だった。なんとかお祭りの時間には間に合ったようで、村人たちの出迎えは暖かいものだった。
「せっかくですので、お三方も祭りを楽しんではどうですかな。一緒に新夏を祝いましょう」
村長は気さくに私たちを祭りに招待してくれた。
親切なことに今晩の宿も提供してくれるようなので、断る理由はない。私たちは遠慮なく好意に甘えることにした。
「どうぞこちらに。食事は存分に用意してありますので、たらふくお召し上がりください」
村長に案内され、村の奥へと歩く。
村の中心は広場になっており、隣接する民家の壁や柵は花飾りで彩られていた。中央には料理が並んだ長テーブルが置かれ、その隣りには手作りのステージが設けられ、設置された篝火がそれらを明るく照らしている。
村の子供たちがはしゃいで辺りを走り回っているなど、どこか田舎の夏祭りのような雰囲気が感じられた。
テーブル前の椅子には多くの村人が座っており、何人かはすでに料理を頬張っている。
「祭りはもうすぐ始まります。みなさんも好きなところにおかけください」
村長に促され、私たちもテーブルにつく。
給仕係の女性たちがテーブルにワインの瓶を並べたところで、お祭りは開始された。
「そんじゃ仕事終わりの一杯をいただくとするか」
そう言ってカイは、自分のジョッキにワインを注ぐ。
「あら、自分のだけ? わたくしに気を利かせてはくださらないのかしら」
「滅相もございません。是非とも一緒に酔い潰れましょう、お嬢さま」
カイは冗談めいた口調で、ゲルダのジョッキにもワインを注ぐ。
それから二人はクイッとワインを煽り、幸せそうに頬を上気させる。
ちなみに、この国の法律では十五歳から飲酒が認められている。つまり私がお酒を飲んでもなんら問題はない。というわけで、私も自分のジョッキにワインを注ぐ。
――産まれて初めて味わうお酒の味は、酷く不快なものだった。苦いやら辛いやら渋いやら、とても飲めたものではなかった。これが大人の味なのだろうか。
「うん、美味しい――」
お酒を楽しめないことが恥な気がしたので、とりあえず強がっておく。
すっかりお酒に懲りた私は、果物やら食べ物類を摘まみつつ、ステージで繰り広げられる村人による余興を見物する。
女性たちのダンスや、男性の奇術。別のところではお酒の飲み比べ競争が行われており、小さな村ながら精一杯楽しんでいるようすだった。
「楽しんでおりますかな」
村長がやってきた。彼もお酒が入っているようで、顔にはすっかり赤身が差している。
「言うことなしね。今回の依頼を受けて正解だったわ」
「酒が飲めればそこは天国さ。この村に乾杯だ」
ゲルダとカイもほろ酔い状態だ。
「それはよかった。祭りは深夜まで続きますので、好きなだけ堪能してくだされ」
村長が言うようにお祭りは延々と続いた。
※ ※ ※ ※ ※
――その異変が起きたのは、夜も深くなってきた頃だった。
「おい、あれ見ろよ」
不意に村人の一人が夜空を指さす。
私を始め、周りの人たちは彼が示す方を確認するも、とくに変わったところはない。
「いったい空がどうしたってんだ? 夜鳥でも飛んでたか?」
別の村人が彼に問いかける。
「いや、夜鳥じゃない。飛んでたのは馬だ。月明かりの中に、一瞬馬が見えた……」
「おいおい。馬ってのは地面を走るもんだぜ。どう間違ったって空は飛べねえよ」
「そんなのは知ってる。でも確かに見えたんだ。まるで地面を走るみてえに足を動かしながら、夜空を飛んでるのが……」
「酒だ、酒。お前は酒に飲まれちまったんだよ」
酔って幻を見たということで結論がついたとき、急に辺りに靄が漂い始めた。
「この時期に夜霧とは珍しいな」
「そのうち晴れるだろ。それより酒が足りなくなったな。給仕係はどこに行ったんだ?」
呑気にお祭りを続ける村人とは逆に、ゲルダが過剰な反応を見せた。
ガタンと勢いよく椅子から立ち上がり、見る見る顔色を変えて行く。
「気をつけて。この霧は普通じゃないわ! 魔法の気配がする」
彼女の言葉を受け、カイが無言で鞘から剣を抜く。
「いったいどういうことだよ。魔法の気配ってなんだよ。説明してくれ!」
皆に広がる動揺を代表し、村人の一人が声を出す。
次の瞬間、彼は体を大きく痙攣させ、前のめりに地面へと伏した。その背中には深々と矢が刺さっており、この場に混乱をもたらすにじゅうぶんだった。
悲鳴、怒号。パニックに陥る村人たちに反応するかのように、霧の中から複数の影が現れる。
二メートル近い身長。手に握られた巨大な剣。そして全身を包む禍々しく黒い甲冑。
それらの姿には覚えがあった。ギルドの手配書に描かれているものと同一だったからだ。最近この地方を騒がせているテロ集団、『黒騎士団』に違いなかった。
「なんてこった。よりによって、とんでもないやつらと遭っちまったぜ……」
カイは軽い調子ながら、発した声には苦いものが感じられた。
「かなりの大所帯ね。全部で何人いることやら……」
ゲルダもカイと同じく、心境穏やかではないようだ。引き攣った表情で現れた黒騎士たちを一瞥している。
黒騎士の数は七。ただし、村のあちこちから悲鳴や破壊音が聞こえてくることから、ここ以外にも出現しているのは明白だ。相当な人数がいることが伺えた。
この場にいる村人が私たちに縋るような視線を向けるも、カイとゲルダの二人だけで対応することは不可能だ。仮に私に戦う力があったとしても、多勢に無勢な状況は覆らないだろう。
「カイ、参考までに訊いておくけど、なにか妙案はあるかしら?」
ゲルダは額の汗を拭いつつ、カイに声をかける。
「逃げの一手だな。まずやつらの目を眩まし、その隙に村の外に走る」
カイは黒騎士たちから視線を外さず口を動かす。
「やっぱそれしかないか……。聞いたわね、クロエ。そういうわけだから準備はいい?」
そう言ってゲルダは黒騎士たちに見えないよう、後ろに回した左手に魔力の光を宿らせる。
いいも悪いもない。やらなければ死ぬだけだ。私は震える体を抱きつつ、奥歯をカチカチ鳴らしながら返事をした。
そして仁王立ちしていた黒騎士たちが動きを見せる。正面の三体が剣を構えると、他の四体が腕をこちらに向ける。彼らの腕にはクロスボウが取りつけられており、先ほど村人を撃ったのはこれだと思われた。
「今だ!」
カイが叫ぶと同時、ゲルダは左手に準備していた魔法を放つ。
彼女が狙ったのは黒騎士ではなく、手前の地面だった。魔法の衝撃が地面から大量の土埃を舞い上がらせ、視界を遮る。
「走るのよ!」
私たちと村人は広場から走って逃げた。
途中、後ろからは風を切る音と共に矢が飛んでくる。何人かの村人が追撃してきた矢に倒れたものの、なんとか広場からは逃げ遂せることができた。
予想どおりやつらの攻撃はすでに村全体に広がっていた。至るところに黒騎士の姿があり、手に持った武器で凄惨な光景を作っている。血を流し倒れている村人。倒壊している小屋。火の粉が上がっている民家。たった数分のうちに、村は地獄へと変貌してしまった。
一緒に逃げてきた村人たちとは逸れてしまったようで、気づくと私たちは三人だけになっていた。
見つからないよう村の中を進んでいると、不意に影が差す。
見上げると、驚いたことに上空に馬が浮かんでいた。黒騎士たちとお揃いの、黒く禍々しい馬鎧を着込み、その背には槍を携えた黒騎士を乗せている。村人が見た空を飛ぶ馬とはこれに違いない。
「嘘だろ。ライダーまでいるのかよ。今日はとことんついてないな」
カイは深く溜息を吐きながら剣を構える。
馬は前足を持ち上げ咆哮を発すると、地上のように宙を走り、こちらに突進してきた。その背に跨る黒騎士が槍を翻す。
咄嗟にカイが突き飛ばしてくれたおかげで、私は難を逃れたものの、当のカイが逃げ遅れてしまった。
槍の一撃を受けた彼はその場に膝をつき、出血する右肩を手で押さえる。
「カイ!」
彼に駆け寄るゲルダ。
「このくらいなんともない。それより早くここを離れるんだ」
背後では先ほどのライダーが旋回し、もう一度攻撃を加える素振りを見せている。
ゲルダは再度魔法を地面に放ち、土埃で目くらましを行う。
「いったんあの納屋に身を隠しましょ!」
私たちは近くにあった納屋の中に逃げ込む。
念のため脇に置かれていた棚で入口を塞いだのち、息を整える。
「あんたら、祭りに参加してた冒険者か?」
急に声をかけられ、私は咄嗟に口を押え、喉まで出かけた悲鳴を飲み込む。
納屋には先客がいたようだ。男女合わせて五人の村人が、奥で身を縮めている。
「包帯の代わりになるものはないかしら。怪我人がいるの」
「食料袋くらいしかないが、それでもいいか?」
「ありがとう、感謝するわ」
ゲルダはカイの手当てを始める。
ゲルダが魔法の炎でカイの傷口を焼き塞いでいる間、私はもらった食料袋をナイフで帯状にカットする。できあがった即席の包帯をカイの傷口に巻き、きつく縛る。
「悪いな。面倒をかけた」
右手の具合を確かめつつ、カイが申し訳なさそうに口を開く。
「借りを返すのはラバマに戻ってからで構わないわ。だから必ず生きて帰るのよ」
「任せとけ。期待に応えるのは得意だ」
カイとゲルダはお互いの拳をコツンとぶつけ、微笑み合う。
「あいつらはなんなんだ? 霧の中から現れたと思ったら、いきなり襲ってきやがった」
手当てが終わると、男性村人が話しかけてくる。
「最近この地方で暴れ回っている黒騎士団よ。もういくつもの村が襲撃されてるそうよ」
説明は私が行った。黙っていると恐怖でどうにかなってしまいそうだった。
「噂には聞いていたが、まさかうちの村が襲われるとは……。いったいなんでだ?」
私たち三人は首を振るう。「わからない」と。
「あなた方は冒険者なんでしょ。早くあいつらをやっつけてください!」
後ろにいた女性が悲痛な声を上げ、隣りの男性に、「声が大きい」と叱咤される。
「さすがに数が多すぎる。俺たちだけじゃどうにもならない」
カイは、「すまない」と言葉を続けた。
「じゃあ私たちはどうすれば――」
女性は目に涙を浮かべて崩れ落ちる。
「決まってるだろ。あいつらに見つからないように逃げるんだよ。ジョンのところで馬を拝借して、ひたすら遠くまで走らせるんだ」
男性がやけくそ気味に答え、
「そいつは無理だ。ここに逃げ込む前、ジョンの馬屋が燃えてるのを見た。きっと飼っていた馬たちは黒焦げだ」
別の男性がそれを否定し、
「やつらは空飛ぶ馬を操っているわ。上空から監視されている以上、下手に動くのは危険よ」
そしてゲルダの言葉で村人全員が青くなる。
「もうお終いだ。俺たちゃ全員ここで死んじまうんだ!」
男性の一人が頭を抱えて項垂れたとき、納屋の壁から破壊音が響いた。
黒い手が壁を突き破って生え、バキバキと音を立てながら、力任せに板を剥ぎ取る。
壁にできた穴の向こうに黒騎士のシルエットを見た瞬間、私の血の気が引いた。
氷水でもかけられたかのように背筋が冷たくなり、全身がガタガタと震え始める。
「大丈夫だ。俺たちはまだやれる」
そんな私の肩に、カイはそっと手を置く。
「一体だけなら、なんとかなるはずよ。というか、なんとかしなきゃ終わりなんだけど……」
ゲルダは魔法の構えをする。
「すまんがクロエも協力してくれ。手数は多い方がいい」
「……なんとかやってみる」
私はおぼつかない手つきで剣を抜く。
構えてはみるも、その剣先はプルプル震え、我ながらなんとも頼りない。それでもやるしかない。ゲルダも言ったように、相手は一体だけだ。三人がかりなら倒せるはず。
「ゲルダの魔法がやつに直撃したあと、二人で切りかかるぞ。俺は左からやつの頭部を狙う。クロエは右から脇腹に一撃を加えてくれ」
「えっ、ええ……」
返事は涙声になってしまった。
黒騎士が一歩一歩こちらに歩いてくる。カイはタイミングを計るように、やつの動きに合わせてリズムを取っている。右からはゲルダの魔法詠唱が聞こえてくる。
「3,2,1……」
ゲルダはカウントを始め、「0」と同時に魔法を放ち、黒騎士を爆炎に包む。
「今だ。思いっきりぶちかませ!」
黒騎士が歩みを止めた隙に、私とカイは走った。
指示どおり、私は黒騎士の脇腹に力いっぱい剣を打ちつけ、カイは鎧の隙間を通すように、やつの首に剣を突き立てる。
攻撃がクリーンヒットし、心の中で歓声を上げたとき、こちらの喜びに水を差すように黒騎士が動いた。
胸に走る衝撃と、一瞬の浮遊感。そして再度体に走る衝撃と床の感覚。目の前には散乱する農機具が見え、薙ぎ飛ばされ、近くの棚に突っ込んでしまったらしい。
顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、黒騎士の手刀にお腹を貫かれているカイの姿だった。
絶叫するゲルダ。カイを助けるべく駆け寄るも、腕力で勝てるわけもなく、敢なく黒騎士に拘束され、骨が砕ける音と共にガクリと首を垂らす。
私は絶叫した。恐怖、驚愕、悲哀。爆発的に湧き上がる感情をまき散らすように、ありったけの声を上げた。
そんな私に構わず、黒騎士は二人の遺体を床に放ると、村人たちの方に歩く。
村人たちは納屋から逃げようと入口に走るも、入口の扉がバリケードの棚ごと吹き飛び、黒騎士がもう一体侵入してくる。
更に壁の穴からもう一体現れたことで、村人たちの命運は尽きた。
私は目を瞑り、耳を塞ぐ。
悲鳴。助けを求める声。断末魔の絶叫。背けていても聞こえてくる殺戮の音に怯えていると、やがて辺りが静かになる。
震えながら瞼を開くと、三体の黒騎士は返り血でその身を真っ赤に染めていた。
やつらがこのまま去るわけもなく、一体がこちらに歩いてくる。
腰が抜けていたため、私は床を這って後退った。スカートが捲れ上がるのも構わず無我夢中で手足を動かしていると、ほどなく背中が壁にぶつかる。
逃げ道はない。迫ってくる絶望に、私は涙を流した。大粒の涙を流し泣き叫んだ。歯の根の合わぬ声で命乞いもした。けれども黒騎士は無慈悲に距離を詰め、チェックメイトとばかりにその剣先を私の眼前へと突きつける。
死を悟った瞬間、脳髄を貫くような恐怖感と共に、下着が生温く湿っていくのがわかった。
恥ずかしさはなかった。大股開きで無様に失禁したにもかかわらず、羞恥は感じなかった。感じる余裕などなかった。私はひたすら恐怖に震えていた。こんな惨めな女は殺す価値もないと判断し、踵を返してくれないかと願った。
けれどもそんな願いが叶うわけもなく、黒騎士は私の醜態を嘲笑うように頭をユラユラと動かしている。
そして、突きつけられていた剣が振り上げられたところで、私の意識は途切れた。
※ ※ ※ ※ ※
朝日を顔に浴びながら、私は自分の部屋で目を覚ました。
覚醒したあとでも体は震え、目からはボロボロと涙が零れ続けた。
もう限界だった。こんなのは耐えられない。誰でもいいから助けてほしい。
頭に浮かんだのは一人の人物だった。
……早瀬翔太。身近なところにいる、唯一異世界転生について詳しそうな人物……。
迷っている余地はなかった。藁にも縋る気持ちで、朝一番で学校に向かった。
思ったとおり、早瀬はすでに登校していた。例によって、いつもの美少女な表紙の本を読んでいる。今はそれがなにより頼もしく感じた。
「お願い、助けて……」
私は早瀬の正面に立ち、嗚咽交じりに助けを求めた。