♯1
「……起きろ。起きるんだ」
「う、ん……」
暗闇の中、由理花に呼びかける声がする。きれいだが、どこか冷たい印象を与える声は、由理花にとって聞き慣れないものだった。
「誰……? あたし、まだ眠いよぅ……」
ふかふかとした寝心地。ぽかぽかとちょうどいい気温。更には、心の底からリラックス出来る草花の香りが由理花を包み込んでいた。由理花はむにゃむにゃと返事をする。本当は無視したかった。だが、心地いいまどろみをこれ以上邪魔されないようにする為には、頑張って答えるべきだと由理花は判断した。毎朝起こしに来る母親に、いつも由理花がしているように。
「では、そのまま眠っているといい。しかし、これだけは言っておく。目覚めた時、お前は貞操を失っているのかも知れないと」
今、由理花を起こそうとしている声は、間違いなく母ではない。由理花の母はおっとりとしていて優しい、春の日射しのような女性だからだ。間違っても、こんな風に由理花を脅したりはしなかった。
「貞操……?」
それにしても穏やかならざる脅し文句だ。脅しているのだから、穏やかなはずはないのだが。由理花は、十分に機能を回復していない脳で、そんな風に思っていた。そういえば、体に触れられているようだ。そう思うと、途端に神経が研ぎ澄まされてくる。くっきりとした身体感覚を取り戻すと、間違いなく誰かに体を揺すられているのが分かった。
「……はっ」
由理花の目が、ぱっちりと開いた。
「おっ?」
その目が、透き通るような青空をバックにしたライツの青い瞳とがち合った。由理花たちは、小さな白い花の咲き誇る丘の、なだらかな斜面にいた。由理花は自分がそこに寝転んでいることを確認すると、視線をライツの目から外し、下へ下へと移していった。すると。
「きゃ! きゃああああああああ!」
悲鳴とともに、由理花の手が凄まじい速度で弧を描いた。
「いっでぇーーーー!」
その手は、的確にライツの頬を捉えていた。ばっちーん、と小気味いい音がして、ライツはテンガロンハットを飛ばし転がった。
「よし。これで少女の純潔は守られた」
ライツのガンベルトに提がるホルスターに収められたドグマが、満足げにそう言った。
「あ、ありがと、ドグマ」
「どういたしまして」
ドグマは当然とばかりに応えている。
「で、あんた! ライツは、あたしに何をしようとしていたのっ?」
「俺は気絶したお前を介抱していただけだろぉっ!」
由理花にケダモノを見るような目を向けられたライツは、憤然として上体を起こした。くっきりと手のひらの跡がついた頬を押さえたライツは、涙目になりながらテンガロンハットをぼふっと被りなおした。
「介抱するのに、どうしてスカートをめくる必要があるの?」
由理花は、これでもかというジト目でライツを睨む。
「そんなことは決まってらぁ。あれだけの〈スライド〉があったんだ。どこか怪我をしていないか、念入りに確認しておくのが常識だぜ。打ち身、捻挫、骨折、そして裂傷による出血。どれもこの世界では命の危険に直結するもんなんだから」
ライツは極めて真面目な顔をしてそう答えた。
「そうなの、ドグマ?」
由理花は、ライツの腰に収まったドグマに問いかけた。ライツの説明は一見筋が通っているが、目覚めた時に見たライツの目は、どうもいやらしかったような気がしたからだ。
「うむ。ライツの言うことは本当だ。この世界、ささいな怪我でも命を落とすはめになる」
「そう、なんだ……」
由理花は項垂れた。ライツは自分を心配してくれていただけなのだ。それを疑った自分が恥ずかしく、そしてライツには申し訳なく感じていた。だが。
「しかし、ライツが真っ先に手をかけたのはスカートだ。顔も頭も腕も診ず、迷わずスカートに手をやった。他にも優先的に見るべき所があるはずだがな」
ドグマはやれやれと嘆息した。
「やっぱりチカンじゃない、あんた!」
「ぐはぁーっ!」
ライツの頬と由理花の手のひらが、再び小気味いい音を打ち鳴らした。
*
数分後。
「自己紹介、まだだったよね。あたし、閖上由理花。高校一年生で、15歳、です。危ないところを助けてくれて、ありがとう」
由理花は、花の絨毯に正座すると、手を地に付けて深々と頭を下げた。短めな黒髪が、光を弾いてさらりと流れる。
由理花には、この二人(?)に聞きたいことが山ほどある。ここがどこなのかもそうだったが、さきほどの〈スライド〉という現象のことも聞きたかった。が、まずは生きている、生きていられたことへのお礼をするべきだという結論に達した末の言葉だった。
「コーコーセー? へぇ、15歳か。で、ユリエゲユーリキ? 長い名前だなぁ、おい」
「ユリアゲ・ユリカ。名前はユリカだよ」
由理花はがばりと顔を上げた。あぐらをかき、腕を組んで首を捻ったライツと目が合うと、ぷいっと顔を背ける由理花。ライツの頬に残る、自分の真っ赤な手形を見るのがいたたまれないからだ。
「ふーん? じゃ、ユーリでいいか」
ライツには由理花の言う意味が分からない。ライツは、ライツだ。〈パラノイア〉の住人に、名字を持つ者などいなかった。この世界では、名前は短い方が都合がいい。危機を回避出来る確率はそれだけで跳ね上がるのだから。
「俺はライツ。〈銃士〉ライツだ。パラノイアじゃ、〈速射砲〉って異名で呼ばれるほどのガンマンさ」
由理花はすでにライツの名を何度も呼んでいたのだが、ライツも一応そう名乗った。人と人との連携が必須となる〈パラノイア〉では、出会った相手に名を知らせるのは習慣だ。
「そして、私はドグマという名で呼ばれている。見ての通り、長大な銃身が自慢の拳銃である。ライツ」
「あ? ああ、悪い悪い」
せっつかれ、ライツはホルスターからドグマを抜いた。
銀色に輝くバレルは、確かに普通の拳銃より長いだろう。そのバレルの上部には、これも特徴的な放熱冷却孔が設けられている。マットブラックのグリップは、まるでタイヤゴムのよう。その背部には、鮮やかな赤いラインが走っている。
「ふぇー。なんか、未来的なデザイン……。ライツには似合わない銃だよね、ドグマちゃんって」
現代日本から来た由理花をして、そう言わしめるような銃。それがドグマだった。
当然だ。ドグマはブラジルのトーラス社が開発した、マグナム弾の発射にも耐える大口径リボルバーなのだから。チタニウム製の銃身には、刻印だってされている。〈RAGING BULL〉と。
トーラス・Model480。〈レイジングブル〉。
それが、ドグマの本当の名前だったのだ。