♯2
由理花のいた所は、砂丘の谷間だった。勢いよく飛び出したサソリは、赤黒いごつごつとした八本の足で、反対側の斜面へと、音も無く着地した。
「キュイイイイイイ」
「うっ」
由理花は耳を押さえた。甲高いサソリの鳴き声は、かなり耳障りなものだったからだ。
鳴き声?
由理花は耳を押さえたままにサソリを見やる。太く伸びた尻尾の鋭い先端が、小刻みに震えている。由理花は、鳴き声の出所はこの尻尾だと確信した。
とはいえ、それが分かってもどうということもない。サソリは間違いなく由理花に正対し、ぎざぎざとした迫力あるハサミと、先端からぽとぽとと何かの汁を滴らせた尻尾を向けている。敵意があるのは、明らかだ。
「あ、あえ? え、っと」
由理花の頭は、現実を受け容れていなかった。今、自分の置かれている状況が、全く理解出来ないし、納得も出来ていなかった。目の前には、敵意ある巨大サソリ。自分は無力な女子高校生。抗う手段など皆無だった。では、この後、自分がどうなるのか?
「サソリって、人間なんて食べないよね……?」
側には誰もいない。由理花は自分を納得させたくてそう言った。大丈夫。こんなわけの分からない場所で、こんな得体の知れない化け物に、自分が殺されるはずがない。
電車では、お年寄りに席を譲った。タバコのポイ捨てをした大人に、注意したことだってある。お母さんの手伝いだってするし、弟の勉強をみてあげたりもした。お父さんの為、冷やしたグラスにビールを注いであげるのは、毎晩の自分の役目だ。
あたしは、いい子だ。なのに、どうして?
暴虐な太陽の陽をてらてらと弾くサソリには、そんな由理花の疑問など知るべくもない。由理花の左右からは大きく開かれたハサミが。そして頭上からは毒の滴る針の先端が、座り込んだ由理花に襲いかかろうとしていた。
その時。
「ぼーっとしてんじゃねぇ!」
男の叫び声が由理花の鼓膜を激しく揺らした。刹那、大きな金属音がして、由理花の心臓を急速に縮こまらせた。「ひゅいぃっ!」と叫んだサソリの声にびくんと一度体を仰け反らせた由理花は、四つん這いのまま回れ右をして逃げ出した。
「早く! 俺のところまで来い!」
「ふぇっ?」
由理花が見上げた砂丘の上には、小柄な男のシルエットが、陽炎のように浮かび上がっていた。その男の右手には、硝煙を立ち昇らせる拳銃が握られていた。
「キュイイイイイイ!」
男から何らかの攻撃を受けたのか、赤い体液らしきものを噴き出したサソリは、甲殻に覆われた体でじたばたと砂を巻き上げていた。
サソリの注意は、今、由理花から逸れている。
これが現実だとようやくにして理解した由理花は、差し出された男の手を目指し、必死に、無様に、転がるようにして駆け出した。はぁはぁと息をする度、熱い空気が喉を焼く。震える口は歯を鳴らし、じゃりじゃりと砂を噛む不快な感触を脳へと送る。汗を吸った制服にも砂が付着し、スカートは学校では絶対に見せられないくらいな所までめくれ上がった。しかし、そんな由理花に男は叫ぶ。
「そうだ! その調子で走るんだ!」
「う、うんっ!」
この男は、そんなことなど気にしていない。
由理花は、力一杯に頷いた。
由理花は登る。蟻地獄のように足を絡め取る砂丘の斜面を、手まで使い、泳ぐかのように登る。
あと、少し。もう、少し。
「届いたぁ!」
由理花の手が、がっちりと男の手を捕まえた。
「いよっし! ナイスファイトだぜ、お嬢ちゃん!」
由理花の手をぐいっと引っ張り上げた男は、大きな口を開けて笑った。由理花の目には、その笑顔が太陽よりも眩く映った。
「だが。ちっ。あの野郎、もう反撃の態勢に入っていやがる」
男は、対面する斜面で毒針の切っ先をこちらに向けたサソリを睨んだ。サソリから噴き出していた体液は、もう止まっている。良く見れば、サソリの巨体に対してあまりにも小さな頭部らしきものの中心に、親指ほどの穴が開いていた。それはこの男の持つリボルバーが穿った穴だ。由理花も、すぐにそれを察した。
「あ、ありが、とう」
だから、由理花はすぐにお礼を口にした。少しだけ冷静さを取り戻した由理花は、ようやく男のことをしっかりと見定めた。
男の頭には、茶色いテンガロンハットが乗っている。同じような色の革ベストには、たくさんのびらびらが下がっている。ボトムスも革だろう。ブーツには美しいステッチが施され、かかとでは拍車が銀色に輝いていた。帽子から覗く髪は金色。透き通るような瞳はブルー。年は、良く分からない。だが、由理花にはなんとなく20歳前後だろうという気がした。そして。
右手に握られた銀色の拳銃の銃身には〈RAGING BULL〉と刻印されている。
「……ガンマン? カウボーイ? あたし、西部開拓時代に来ちゃったの……?」
そんな由理花の呟きは、叩けばたくさんの砂埃が舞いそうな、ガンマンとしか形容しようのない男には届かなかった。
「ああ? お礼を言うのは、まだ早いかも知れねぇぜ」
テンガロンハットのつばを銃でぐいっと押し上げた、そのガンマンの表情は優れなかった。
「え?」
意外な男の反応に、由理花の胸がざわめいた。