出ていけよ
日の差さない暗い玄関で、脱ぎかけの靴を履いたままユーゴはしっかりと僕を見つめる。切れ長の、年齢に不釣り合いな老練さを感じさせる瞳に僕は訊く。
「え?それって、どういうこと…?」
「来栖、お前の父親は、どうしたんだ?」
父さん?父さんが何だっていうんだ。混乱している僕はユーゴの落ち着いた態度が理解できない。
「お前は父親の顔を見たことがないだろう?」
知らないはずの事実を口にするユーゴに僕は驚く。何ヶ月も毎日顔をあわせているはずの男が知らない人のように思える。僕は眉をひそめながら答えた。
「僕の父さんは、僕が赤ん坊の頃に事故で死んでる。だから僕は父さんの顔を知らない。どうしてそれを」
「嘘だ」
僕の言葉を遮ってユーゴが言った。
「それはお前の母親の優しい嘘なんだよ、来栖」
痛いほどに静まり返った玄関に、落ち着いた悲しげな声が響く。柔らかく、悲しげなのに事実を述べるユーゴの声に僕はどこか無情さを感じた。
「お前に戸籍上の父親はいないんだ。お前の父親は事故死なんかじゃない、お前の母親は結婚していなかった」
ユーゴの口から落とされる言葉に僕は呆然とする。
翔のお父さんは事故で死んじゃったの。きっと翔が大きくなるのを見られなかったことをすごく悲しんでいるわ。
でもきっとお父さんは翔のことを守ってくれているの。
母さんは、そう言っていた。ずっと二人で生きてきた。母さんは死んでしまった父さんの分も一生懸命働いて僕のことを育ててくれているのだと思っていた。だから僕は働く母さんのかわりに料理をして、洗濯をして、母さんの帰りを家でずっと待っていた。寂しくなんかないよ、父さんが守ってくれているんだろう?
「俺の父親の不倫相手が、お前の母親だったんだ。彼女がお前を身籠ったとき、奴は彼女をばっさり切り捨てた」
嘘だろ、と僕は呟く。聞こえた声はひどく情けなかった。そういえば、と僕は広い実家を思い出す。僕がずっとひとりで待っていた家。その家の母親の部屋にも床の間のある和室にも、どこにも仏壇なんてなかった。僕は、写真でさえも父親の顔を見たことがない。僕がずっと信じていたものなんて、存在しなかった。
「俺とお前は、腹違いの兄弟なんだ」
ユーゴの言葉は残酷だった。
「…ユーゴはいつからそれを知ってたの」
ようやく絞り出した声は掠れていた。小さな僕の声に反してユーゴはゆっくりと、はっきりとした口調で言う。
「だいぶ前から。お前と会う、ずっと前から」
「何で、どうして言ってくれなかったんだよ。もう何ヶ月も一緒に住んでいただろ?そもそももう知り合って一年もたつのに!」
僕は声を張り上げた。僕の知らないところで何もかもが進んでく。僕はいつだって置いてきぼりだ。
二人きりで助け合って生きてきたのに、突然知らない男を連れてきて嬉しそうに結婚するのと言った母親。僕の父親のことを、兄弟だということ知りながらずっと黙っていたユーゴ。僕がずっと信じていたものは、ユーゴのものだったのだ。
「なぁ、なんでだよ! お前は知っていたのに、あぁやっていつも笑っていたのかよ。一緒に住んで、同じ大学に通って、何を思っていたんだ? 何も知らない僕のことを馬鹿にしていたんだろ」
ひどい裏切りだ、と思った。母さんだってユーゴのことを知っていた。僕はいつだって置いていかれる。みんなが僕を裏切る。
「ユーゴはいつだってそうだ、腹の中で周りのこと馬鹿にしてんだろ。何にも話さないで、自分だけで知っていて嘲笑ってんじゃないのかよ? ふざけんなよ! 」
怒鳴り声をあげ、出口を見つけることのできなかった苛立ちを逃すように僕は靴箱の扉を叩く。がたん、とひどい音を立てて扉は揺れ、僕は右の手のひらに痺れるような痛みを感じた。僕の怒号はユーゴを貫く。ユーゴの顔が怯えを含んで強ばる。
「お前の顔なんか見たくない、出ていけよ。出て行かないなら僕が出ていく。もう僕の前に来ないでくれよ!」
僕はモスグリーンのセーターを着たユーゴの胸を両手で強く押した。僕よりも少し大きな体は簡単に傾き、広い背中と玄関の扉がぶつかって悲惨な音をたてた。
玄関の扉にもたれたまま、ユーゴは僕の顔を見つめる。息がきれた僕は浅い呼吸を繰り返す。ユーゴは唇を引き結ぶと、床に置いていたバックを素早く掴んで玄関のチェーンを乱暴に開けて飛び出していった。
傷ついたように歪んだその表情は、僕が今までに見てきたユーゴの顔の中で一番、彼の感情が露呈した表情だった。