表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ユーゴ  作者: 蒼井 雨
7/12

電話

「今日は講義、午後からなの?」

 ブリックパックの豆乳のストローを咥えた律が訊いた。水色のパッケージのバニラアイス味。遅すぎる朝食にトーストを咀嚼しながら僕は頷く。

「それ、美味い?」

「バニラアイス味豆乳?うん、甘くて美味しい」

 楽しそうにパックの端を折っていく律を僕は本当かよ、と少し訝しく思う。廊下の奥の方から美宇が洗濯機を回す音が聞こえている。僕はマーガリンを塗ったトーストをまた一口齧って、平日の昼間の怠惰なテレビを眺めた。

「来栖、携帯光ってるよ」

 テーブルの上に置いてある僕のスマートフォンを律は示す。僕は黙ったまま光る画面を見つめた。『来栖 桜子』。液晶画面に映る文字に僕はスマートフォンをひっくり返そうか迷う。顔をあげると律が真っ直ぐな目で僕をじっと見ていた。その黒く大きな瞳に僕は静かな洗面所に座って思いを馳せていた律を思い出す。みんな魅力的なんだよ、来栖。たくさんの人に私は魅せられているの。僕はユーゴが出会った凄まじい偶然のことを思い出す。品のある深い、深い青色のことを。出会い。人の、縁。

「もしもし?」

 液晶画面に触れて僕は数カ月ぶりに彼女からの電話にでた。

『もしもし?あぁ、翔よかった…ごめんなさい、私が悪かったわ…。その…』

 困惑した、しかしどこか安心したような母親の声を僕は聞く。僕の行動に少し微笑んで律が部屋を出ていくのが見えた。

『勝手に彼を連れてきて本当に悪かったわ。でもあなた一人暮らしするってこと以外何も言わずに家を出てから全く連絡ないから…とても心配だったの。どこに住んでいるのか、大丈夫なのか』

「うん」

『…元気にしているの?』

「元気」

『家は見つかったの…?お金は足りているの?』

 矢継ぎ早の質問に、彼女の心配そうな顔が浮かんだ。本当に心配してくれていたのだ、と僕は申し訳なくなる。律の向かった洗面所の方からわいわいと二人の話す声が聞こえる。賑やかな明るい声が届いたのか彼女は尋ねる。

『お友達?今、自宅にいるの?』

「うん、律だよ。母さんも知っているだろ。ルームシェアしているんだ。律と友達と四人で」

 ふぅ、と機械越しに安堵の溜息が溢れたのが聞こえた。

『よかったわ…元気にしているみたいで。あなたにもし何かがあったら本当にどうしようと思っていたの…。大学のお友達なの?』

 少し泣きそうな声。

「ごめん、ずっと連絡しなくて。美宇っていう律の友達と、ユーゴっていう大学が同じ奴だよ」

 はっと電話越しの母親が息を飲んだ気配がした。泣きそうな声が一瞬で何かを警戒したような色を滲ませる。

『ユーゴって祐豪くん…?上原祐豪くんじゃないわよ、ね?』

 そうだ、ユーゴはそんな名前をしていたと僕は思った。

「そうだよ。なんで、母さんがユーゴの名前を知っているの?」

 呆然として僕は訊く。

『上原祐豪くんなの?嘘でしょう。翔、だめよ』

「え?」

『お願いよ、翔。祐豪くんと一緒に住まないで』

 訴える声から必死さが漏れる。何で、どうして?僕の頭の中が白く埋め尽くされる。

「なんで?ユーゴはいいやつだよ?そもそもどうして母さんが知って…」

『悪いことは言わないわ。お願いだから翔、その人とは住まないで。あなたのことを思ってなの。絶対に、だめよ』

あなたのことを思ってなの。僕は母親の言葉を心の中で反芻する。律や美宇に、ユーゴになだめられていた何かが、ふつふつと衝動に似た怒りが湧き上がってくるのを感じた。母さんは自分勝手だ。いつだって。あなたのことを思ってなのだって?いつだって、何にも、言わないじゃないか。

「どういうことだよ!ユーゴがなんだっていうんだよ?母さんの知り合いなの?なんなんだよ!」

 怒鳴った僕の声がリビングに、電話先に、響く。先程まで楽しそうな声が漏れていた洗面所までもが僕の声を受けて静まり返った。

『翔、お願いだから聞いて。あなたのためなの…』

 か細い懇願を僕は切った。感情を持て余してソファーにスマートフォンを投げつける。勢いよく飛ばされた機械は白い生地に沈み込む。割れたって知るもんか、と僕はソファーを睨みつけた。電源の落とされたスマートフォンはひどく無機質で、僕は苛立ちに髪を掻き乱した。

「来栖…どうしたの。電話、桜子さんからじゃなかったの?」

 廊下から顔を覗かせておずおずと律が尋ねる。母親の懇願に、母親の口からユーゴの名前を聞いた疑問に混乱して、飽和状態になった僕は眉間に皺をよせたまま律を見つめる。

「桜子さんはなんて言っていたの…?」

 心配そうな律に僕は何も言わずに首を振る。わからない。わからないんだよ、律。

「ねぇ、来栖くん。桜子さんって誰?聞いてもいい?」

 眉を下げた美宇が訊く。僕はゆっくりと頷いた。

「僕の、母親。僕が引っ越してきたの、母さんの再婚に納得いかなかったからなんだ。急に知らない人を連れてきて結婚するのって言われて、怒って家を出てきた。ずっと連絡を取らなくて、こっち来てから今初めて話をした」

「お母さん、なんて?」

 尋ねられて僕は唇を噛む。戸惑いを、混乱を何て口にすればよいのかと少し黙る。

「…ユーゴと住むなって言われた。上原祐豪と、住まないでって。懇願、された」

 並んだ二人の目が見開かれる。

「どういうこと…?」

「わかんない、急に」

「来栖くんのお母さんがユーゴと知り合いなわけじゃないでしょう?」

「たぶん。」

 エアコンが空気を送る音が響くリビングで、僕と二人は困惑した顔で押し黙った。部屋の隅にはヒーターが赤く熱しているはずなのに、僕は靴下ごしのフローリングをひたすらに冷たいと思った。

「ユーゴはどこにいるの」

 リビングの入口につったったまま律が美宇に訊く。

「学校に。でも教授に呼び出されただけだからすぐに戻るって言ってた」

「本当になんなんだよ…」

 泣きそうな怒りと困惑の滲んだ僕の言葉を拾って、律は同情したようにソファーの上に目をやった。

 玄関の扉が開く音がして僕たちは顔を見合わせる。ただいま、と呑気な聞きなれた声がした。

「ユーゴ!」

 僕は玄関に駆け寄る。ついてこようとした美宇が律の手でリビングに引き止められたのが見えた。

「おぉ?なんだ?」

 ブーツを脱ごうと玄関に座っているユーゴはびっくりしたように僕を見上げる。駆けよったものの何も言えずに黙る僕に、靴紐に手をかけながら怪訝そうな顔をする。

「どうしたんだよ」

「…母さんと電話をしたんだ」

 ぴたり、と靴紐をほどく手が止まる。

「ユーゴと、上原祐豪くんと一緒に住むなって言われた」

 僕を見上げる顔の表情が固まる。黙ったままのユーゴに途方に暮れた僕は訊く。

「ユーゴは、母さんを知っているの…?」

 硬直したユーゴの表情が苦々しそうに歪む。じっと僕の目を見てユーゴは片方のブーツを脱ぎかけのまま玄関のタイルに立ち上がった。いきなり高さのあがった口が戸惑うような動きを見せた後、小さく開かれる。ユーゴは苦渋と困惑が、切なさがない混ぜになったような声で言った。

「来栖、お前は俺の弟なんだ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ