モナコブルー
はしゃいだ高い声がリビングにあがっていた。白いソファーの上で律と美宇は顔をくっつけ合うようにしてひとつの液晶画面を覗き込んでいる。
「ね!かっこいいでしょ、りっちゃんっ」
「うん、かっこいい。私ゲームをなめていたなぁ」
「りっちゃんはどの子が好き?」
「うーん、この中だったらこの黒髪の人」
美宇が握るポータブルゲームの小さな画面を見ながら律が吟味して言う。
「犬系男子だね、たしかにりっちゃんぽいなぁ…私はもっと引っ張ってくれるような人のほうがいい!」
「こっちの茶髪?」
うん、と美宇が満面の笑みを浮かべる。ふわふわとした部屋着が温かそうだ。ダイニングテーブルに肘をついて二人を眺めていた僕は、やっぱり女子がいる部屋は華やかだなと思った。今にも溶けそうなほど橙色に熱しているヒーターに足を伸ばす。冷えていた肌の表面がすぐに熱くなった。
「美宇はそういう感じの人がタイプなのか…じゃあ、今度私とおでかけしよう?遊ぼうよ!合コン行こう」
律が楽しそうに声を張り上げた。はしゃぐように美宇の腕を軽く叩く。
「えー、私そういうのはいいよ…初対面の人怖いもん」
「なんでよ、案外話せるって!来栖が来た時だって話せていたじゃない」
「うーん、でも」
はしゃぐ律に対して美宇は乗り気じゃないのか曖昧な返事しか返さない。
「美宇にはお出かけが足りないよ、もっと外行かないと」
行こうよ、一回行ってみたら絶対楽しい、と律は誘う。美宇は少し頬を膨らませて目線を下に落としている。
「ね!来栖もそう思わない?美宇ももっといろんな所に遊びに行けばいいのにって」
「うん、そうかな」
急に話を振られて僕は戸惑う。暖色のライトの下で律は両手を広げる。
「部屋にこもってばかりじゃもったいないよ。お出かけ、楽しいよ?」
「まぁ、そういうのには向き不向きがあるからな…」
僕の言葉に律は不思議そうに首を傾げた。そうかな、と言う律に美宇は顔を上げる。
「お家だって楽しいよ、りっちゃん」
柔らかく笑って言う。
「こうやって好きなものがあって、りっちゃんや来栖くんやユーゴとか好きな人と一緒にいれるだけで私はとっても楽しいもん」
小さな蝋燭に灯した明かりみたいな優しさで美宇は言う。不服そうにしていた律は少し照れたような顔をしてそうならいいのだけど、と呟く。ソファーからラグに落ちていた律は肌触りのよいラグの上で気持ちがよさそうな声をあげて伸びをした。美宇がすこし落ちそうになりながら足を伸ばして律をじゃれるように蹴る。
「そうだねぇ…、でも気が向いたらいつでも言ってね。すぐに連れ出すから」
しっかりとした眼差しで諦めずに言う律に美宇は吹き出した。
「諦めの悪いやつ」
僕の言葉に律がラグの上に落ちていたクリーム色の小さなクッションを投げつける。目を丸くしている美宇を横目に僕は指の沈み込むクッションをしっかりと受け取って、にやりと笑ってみせた。
どたばたとクッションの投げ合いをしていた二人が部屋に引き上げたのは一時間前。がちゃがちゃと玄関の鍵を弄る音がして、僕がいるリビングのドアを開けたのはユーゴだった。
「おかえりー、午前様」
「ただいま、バイトだよバイト。ふぅん、課題やってんの?」
僕がテーブルに広げている本と紙とを見てユーゴが聞いた。
「もうすぐ締め切りなんだよ、終わりそうもない」
「お前がリビングで勉強しているなんて珍しいな」
「空調が壊れているんだ」
僕は資料に目を戻してシャーペンを握りなおす。ユーゴは荷物を向かいの席に投げ出してキッチンへ向かった。電気の消えている暗いキッチンのガスコンロの上の小さな明かりが灯される。ユーゴは薬缶に水を注いで火をつけた。深夜のキッチンで青い炎が滑らかなセロファンのように揺れる。調理台の人工大理石と陶器がぶつかる小さな音がした。ユーゴは棚からフィルターとコーヒー豆の入った袋を取り出す。
「眠れなくなるよ」
「カフェインなんかに負けるもんか」
開けられた袋から広がる香ばしい香りに言った僕にユーゴは笑って返す。ごりごりとミルの刃に挽かれる豆が美味しそうな音をたてた。薬缶から吹き出す白い湯気がとても熱そうで蠱惑的だ。
「僕にも頂戴」
「眠れなくなるぜ?」
そう言うものの、薬缶が鳴るとユーゴはドリッパーの乗せられたマグカップ二つと湯気のたつ薬缶を持ってきた。ドリッパーに細く熱湯が注がれる。
「ありがとう」
いーえ、とユーゴは言う。青と茶色のオリエンタルな模様のマグカップから一口啜る。
「んー、うま。深夜のコーヒーって美味いよな。なんでなんだろう」
ユーゴは満足そうに目を細めてからテーブルに寝そべる。
「仕事あがりのビールと同じ原理じゃない?」
「あーなるほどね」
「バイト、疲れた?」
沈んだ茶色い頭に僕は訊く。
「うーん…忙しくはあったな」
少し考えてからユーゴは答える。僕はユーゴが疲れた、というのを聞いたことがないなと思った。
「でも、今日バーのほうに可愛いカップルが来ていたぜ。背の高い、育ちすぎた大学生みたいな男とお嬢さん風の年下の女の子」
「へぇ。口説いてた?」
「男はたぶん口説きたかっただろうな…ただ、女の子が可愛い顔して強いのなんの。甘くてでも割と度数高いやつをがんがん飲むくせに全然酔わない」
「失敗してた?」
「格好をつけたがった男がロックばかり飲んで口説く前に潰れちゃった。あの子は将来有望だな、酒豪有望、律みてぇ」
「律も強いよなー、酔うときはすぐに酔うから差が激しいけど」
バイトから帰ってきて荷物を横に置いたまま、にこにこと楽しそうなユーゴに言う。課題のやりすぎでコーヒーを飲んでいるのにも関わらず頭が冴えない。少しぼうっとした頭で僕は目の前の男を眺める。僕はたまに、ユーゴと僕では見えているものがひどく違うように思うことがある。ユーゴは変わっている奴だし、そんなことはわかっているのだけれど、同じ場所に座っていても遠く違う場所にいるように感じてしまう。ぼんやりとしたまま、僕は言った。
「僕はさ、ユーゴ。時々なんかお前と違う場所にいるように感じるよ」
不思議そうにユーゴは首を傾げる。部屋の正面の大きな窓にかけられた、青いカーテンがエアコンから吹き出す暖かい風に触れられて揺れている。
「僕とお前はここにいても同じ場所にはいなくて、あのカーテンはもしかしたらお前には青く見えていないんじゃないかって」
珍しい僕の言葉にユーゴは少し驚いたような表情をする。そして、理解したというように目元をふっと和らげた。
「いいや、あれは違う。青じゃない」
にやり、と笑う。
「あれはモナコブルーだ」
深海のようにどこまでも深い、品のある青い色をしたカーテン。壁にかけられた銀色の時計が深夜二時前を示す。深い、深い海の底。深海と真夜中は似ている。深い、深い夜の底。
「前にスクランブルにあるスターバックスに行ったら席が空いてなかったんだ。そこで、俺はたまたま目が会った四十代前半くらいの外国人の男と相席することになった」
ユーゴは話しだす。僕は彼の入れたコーヒーの入ったマグカップに手を温められながら黙って聞く。
「目があったくせに奴はほとんど日本語が喋れない。俺だって律みたいな英文科の学生じゃない。だから俺達は俺のほぼ日本のカタカナ語みたいななっていない英語と、奴の少し訛っている英語で話をしていた。奴は俺に聞いた。今日はお休み?俺は違うよ、学生だよと答えた」
まい、めーじゃーいず、ひすとりーぃ。ふざけたようにユーゴは言う。
「俺も奴もその日は暇だったんだな。なんだか話をしているうちに案外盛り上がった。奴はモナコ人でオーダーメイドの靴を作る仕事をしていると言っていた。弟が二人いるそうだ」
「モナコ?」
「そう。来栖はモナコがどこにあるか知ってるか?」
「知らない。」
「俺は西洋史が専攻だからモナコがヨーロッパにあることくらいは知っていたけれど、どんな国かなんて覚えていなかったし奴は俺が二十年以上生きてきて初めて会うモナコから来た人だった。これは後から知ったんだが、モナコは世界で二番目に小さな国らしい。東京都よりも小さい。小さすぎて何もないよ、と奴は言っていたよ。地中海があるからシーフードはとても美味いけれどって」
「東京より小さいってそれって世界地図で見えるの」
いやほとんど点にしか見えねぇ、とユーゴは笑った。海の幸に恵まれた、遠い地中海の本当に小さな国。その小さな国から彼が故郷をでる時にたくさんの国から遠い極東の小さな島国を選び、その国でユーゴとたまたま出会った。凄まじい偶然だ。その確率はどれほどのものなんだろう、と僕は思う。
ぬるくなったコーヒーを残したままユーゴは薄暗い廊下に出ていく。戻ってきた時に彼の手には薄いクリーム色をしたシンプルな地球儀が握られていた。
「まぁ、そこからは下らない話ばっかりしてたんだけどさ。奴が日本の女の子は小さいから身長の低い自分にとっては嬉しい、とかいうからモナコの女の子はどうなの?って聞いたりして」
「どうだって?」
「日本の女の子よりイージィだってさ、簡単って。オープンだから。失礼な奴だよな」
面白そうにいってユーゴは地球儀をテーブルに置く。僕は手を伸ばしてくるくるとそれを回した。
「この地球儀、色がついてないんだね」
ユーゴの地球儀には大陸と国々と赤道とが薄い線で描かれているものの、色分けがされてなくクリーム色一色で塗りつぶされている。ただ、ところどころ青く塗られていた。青く塗られているところを僕は不思議に思って撫でる。
「なにこれ」
「この地球儀は塗るものなのさ」
ユーゴは意味深長な言い方をして手にもった青いマーカーを見せる。
「実は今日バイトに行く前、俺は例の奴と遊んでたんだ。奴とあうのは本日が三回目。三回目は記念すべきことなんだ」
ふざけて芝居がかった口調でユーゴは言う。地球儀を半回転させヨーロッパが自分の方に向くようにする。向かいに座っている僕の方には僕たちの住んでいる国が浮かんでいて、僕は日本に淡く鉛筆で県境が書かれていることに気がついた。地球儀が回される。僕の方を向いたヨーロッパの一箇所に先ほどまではなかった青い点が書かれているのを僕は見つける。ヨーロッパの南西、フランスの沿岸の一箇所。恐らく、海の幸に恵まれた小さな国のある場所。ユーゴは地球儀のところどころに散った青を見つめる。
「友達のいるところを塗っているんだ。俺はこんなに色々なところの人と友達になれてとても嬉しい」
ゆっくりとユーゴは言う。優しく落とされた言葉は夜の底に溶けていった。僕は地球儀の深い青をモナコブルーだ、と思った。