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ユーゴ  作者: 蒼井 雨
5/12

「あぁ、ったく律、お前また増やしただろ!」

「えー、別にいいじゃない」

「よくない、俺のやつを置くスペースがなくなる」

 ユーゴの怒ったような声と律の高い声に僕は起こされた。律とユーゴの言い争いはたびたび起こる。寝起きのまだ霞がかかったような頭で朝からまたやってるよ、とぼんやり思いながら僕は二人の声を通す茶色い部屋のドアを見つめる。

「だってユーゴ男の子でしょうー?別に置くものないじゃん」

「シェービングクリームくらい男でも使うんだよ。ていうか化粧水くらい部屋に置いておけばいいだろ。顔を洗うのに必要ない。そもそも化粧水がなんで四本もあるんだよ」

「化粧水と美容液と乳液は違うの!顔洗ったらすぐにつけないと肌はどんどん乾燥していくんだよ?」

「知らねぇよ、そんなん」

 言い争いを聞いて僕は洗面台の棚の取り合いをしているんだな、と考えた。洗面所の鏡をあけたところにある棚は見るたびに、得体の知らない瓶や区別のつかないチューブが増えていた。ベッドの上に座ったままの僕は皺のよったシーツをぼうっと眺める。白いシーツはさらさらとしていてほんのりとした体温を残していて、まだ夜を続けてもいいよと僕を誘惑する。

「でも私のものが多いっていうけど、ここの六割は美宇だからね!」

 白いくせに怠惰な誘惑をするシーツに向かって僕は洗面所では夜どころか静かなはずの朝も終わっているらしいよ、と呟いて固いフローリングに裸足を触れさせた。

「それじゃ文句は美宇に言え」

 一畳ほどの広さしかない洗面所で並んでいる二人を見て喧嘩をするなら狭い場所に二人でいなければいいだろ、と僕は思った。

「お、おはよ来栖」

「…おはよ」

 濡れた顔を分厚いタオルでおさえているユーゴとピンク色の歯ブラシをかまえた律が振り向く。

「律、たぶんお前タオル置きの棚も八割侵食してる」

 欠伸をして僕が言うとユーゴは洗濯機の上に備え付けられた棚に目をやり、それから律を肘で小突く。

「今言わなくたっていいじゃん」

小さく律から抗議の声が上がる。ごめんごめん、と僕は笑った。四人で住むようになってから幾つか僕がうけたカルチャーショックの一つに律のバスタオルがあった。律は毎日バスタオルを変える。数日間で一枚を使う僕達よりも使う枚数が多いので、タオルの棚は律のものが多い。

「じゃあバイト行ってくるわ」

 手についたワックスを洗い流してユーゴは行ってきまーす、と言って出て行った。僕と律は手を上げて返事をする。ガラスのコップに入れられている白と青と緑の三本の歯ブラシの中から青いのを選んで僕は歯磨き粉をつける。二人で黙ってしゃかしゃかと歯を磨く音を鳴らす。大学生が小さな洗面所の鏡の前に並んで歯を磨いているのはどこか滑稽だ。

「来栖、大きくなったねぇ」

 口を濯いでタオルをもった律が唐突に言った。僕は歯ブラシを咥えたまま言い返す。

「急にどうしたんだよ。毎日会っているだろ」

「うん、そうなんだけど。隣を並んで歩いているのと鏡の前で並ぶのはなんか違うっていうか。少し前まで身長同じくらいだったのに」

「その少し前って中学生くらいの頃じゃないか」

 僕は律を見る。僕たちの身長は十五センチくらい違う。中学生の律は確かにこんなに小さくなかったかもしれない、と思う。もっと日に焼けていてわんぱくで生意気な女の子だった。こんなに女っぽく、なかった。

 僕はかがんで蛇口に顔を近づける。冷たい水を両手で器をつくって掬う。

「あ、携帯」

 アラームを止めてポケットに突っ込んでいたスマートフォンが落ちる。

「よかったね、画面割れなかったよ」

 落ちた僕のスマートフォンを拾って律は画面を見る。液晶保護シールの貼られた画面には不在着信の溜まった通知が表示されている。

「桜子さん…?」

 同情したような目で律は尋ねる。僕は返事をせずに拾ってくれたことに対してだけありがとう、と言った。その応答は朝の清潔な洗面所を冷ややかなものにした。

 律は眉を平行にして黙ったまま僕を見る。何も言わない僕に小さく溜息をついて洗濯機に寄りかかって座った。

「来栖がいいなら、いいことだから何も言えないよ」

 困ったような、でも優しい言い方に僕は何も言わない。僕は静かにユーゴのシェービングクリームを手にだして頬に塗った。歯を磨き終わったはずの律はどこにもいかないで、洗面所の白くて湿り気のある冷たい床で膝を抱えたままだ。

「そういえばさ、お前の友達らしき人がきたんだけど」

「え…?」

 僕は話題を変える。律は不思議そうに見上げる。

「スタイルのいい茶髪の外人。明るい緑色みたいな目した男。ああいう目ってなんていうんだっけ、ヘーゼル?」

「茶髪の外人…?」

 考えるように律は呟く。そして、小さく声をあげて剥き出しの白い額を手でおさえる。

「それユーリだ…」

「ユーリ?友達?」

「友達ではないけど…たまたま知り合った人っていうか…」

 言葉を濁す律に僕は呆れる。

「お前、男漁りも大概にしとけよなー。」

「あさってないから!」

「でも友達じゃないんだろ?どこでであったんだよ」

「クラブ。あぁ、でも家来るなんてミスちゃったなぁ…。住所なんて教えてないはずなのに」

 律は眉を顰める。紅い唇を尖らせて少し、考え込む。

「あ、男の連れ込み禁止なんだっけ」

 このマンションに初めて連れてこられた時のことを思い出して僕は笑って言った。街灯の下で不敵な笑みを浮かべた男を。

「笑い事じゃないよ、来栖。ユーゴに怒られる…美宇に悪影響だって。あーもうやばい」

 真剣な顔で律はまくし立てる。やばいよ、どうしよう家きたことユーゴにばれたらやばすぎる、と律は呟く。

「まぁ、その人来たとき美宇と二人だったからユーゴは知らないよ」

 困った顔をする律を慰める。

「でも悪影響って、ユーゴは美宇に過保護なんじゃないか?確かに二つ年下だけど僕達と年変わらないだろ」

「ユーゴがっていうより美宇の両親が過保護なんだよ」

 律は少し悲しそうな顔をして言う。いつも傍若無人な振る舞いをする律の暗い表情は、僕に雨の日に捨てられている猫を思わせる。僕は洗面台に背中を向けてよりかかった。冷えた陶器の感触がシャツ越しに固く伝わる。

「ユーゴは美宇の両親に借りがあるから面倒を見ることに責任を感じてる。美宇を都内で安全に健やかに暮らさせることと引き換えにユーゴはここに住んでいる」

 ユーゴが美宇のこと妹みたいに思って大事にしていることも確かなんだけどね、と律は小さく言う。

「あぁ、それにしてもなんで家わかったんだろ…絶対住所なんて教えてない。電話番号だって教えてないもん。アドレスだけだよ、絶対」

「ぽろっとこぼしちゃったんじゃないの…渋谷からふた駅先なんだよーとかそんな感じで」

「住んでいるところについては話さなかったよ、アメリカの話ばかりしてたもん」

「アメリカ?」

 僕は尋ねる。

「あぁ、ユーリはアメリカ人なの。ボストン出身の。それで話が盛り上がったんだけど…」

「ボストンの話で盛り上がった?」

「わたし去年、三ヶ月ボストンに留学していたの。それでたまたま渋谷のクラブで誘ってきた人がボストン出身だっていうから嬉しくなっちゃって…方形広場にある教会のステンドグラスがひどく綺麗で好きだったんだよ、とか週末にホストファミリーが連れて行ってくれた魔女の街の話とか通じるんだもの。…あ、グーグルマップだ」

「え?」

わかった、と呟く律に僕は首を傾げる。

「ボストンのどこに行ったのかとか話している時にグーグルマップを二人で見ていたの。それに自宅を登録してあったんだよ、私」

 やっちゃった、と律は黒い髪をかきあげた。溜息をつく。

「自業自得だな」

 僕は言う。白くおもちゃみたいにぺたぺたする床に筋ばった僕の足と爪先が赤く塗られた律の小さな足が並ぶ。律の足は親指の付け根が少し出ていて痛そうだ。

「もう会おうとは思わないけどすごく楽しかったんだよ、ユーリと話しているの。留学生の目から見るのと地元の人の目から見るのじゃ全く異なっていて」

 律の表情が明るくなる。

「向こうの街をすごく学生街だなって思っていたから、ユーリから向こうで律はクラブにいった?って聞かれたときなんか驚いちゃって。ホームステイしているんだもの、夜遊びなんてしなかったよ。でも当たり前のことだろうけど、向こうでもこうやって夜遊びしたり肉体労働に従事したりっていろんな人がいるんだなって思って」

「新鮮だった?」

「うん、ユーリの話は私と育った環境が全然違うから新しい世界だった。私はユーリが今まで通ってきた人生を想像してそこにいてみたかったなって思った」

 楽しそうに律は言う。洗面所の小さい窓からは植木に邪魔をされて差さなかった日光が姿を見せ始めている。

「でもユーゴにばれたら相当怒られるぜ。もういい加減自重したほうがいいんじゃないの」

 僕は律をからかう。

「そうだなぁ…。でもさ、知らないことの話って魅力的なんだよ。すごく。この間仲良くなったサーファーの大学生は夏休みの間、まるまる一ヶ月グアムにいってサーフィンをしていたんだって。向こうの海のそこは白くて固い珊瑚礁だからサーフィンしていると、肌にたくさん傷がつくんだって。でも、楽しそうだった。私は肌とか気にする方だから絶対に彼みたいにはできないけれど、真夏の青い海と固くて白い珊瑚礁、煌びやかな日差しが想像できた」

 東京の冷たい洗面所で律は夏の南国の海に思いを馳せる。一生懸命に話す律の黒く大きい目を黙ったまま見つめる。

「あと、東京から島根まで自転車で二千円だけ持って行ったって人もいたよ。ヒッチハイクとか田舎の農家とかに頼んで泊めてもらったりするんだって。三軒に一軒は泊めてくれるんだって。優しい人たちだよねぇ…泊めてもらうかわりに力仕事とかお手伝いするんだって。びっくりしちゃった」

 床に目を落として小さく笑って楽しそうに話していた律は顔をあげる。僕の目を真っ直ぐ見つめる。

「みんな魅力的なんだよ、来栖。いつだってたくさんの人に私は魅せられているの。たくさんのいろんな考え方や物事、人生が、私の知らないたくさんのことが、私を魅了するんだよ」

 にっこりと笑って言う。僕のわからない何かに魅せられた律はひどく綺麗だった。


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