来訪者
玄関のチャイムがけたたましく鳴った。自分の部屋の小さなテーブルにパソコンを開いて、『都会文化と地方の文化の違いについて』の課題レポートと向き合っていた僕は思わず身をすくませる。僕がこのマンションに引っ越してきて三ヶ月。訪問客のいないこの共同生活の玄関のチャイムの音を聞いたのはこれが初めてだった。
自分に思い当たる人はいないし課題の締め切りが迫っていたので、誰かが出るだろうと僕は音を無視してキーボードを叩く。もう七年近くも使っているこのノートパソコンは、美宇がこれはノートパソコンって言わないよ、と笑うくらいに分厚く反応も遅い。応答なし、と繰り返される画面に苛々とする。耳障りなチャイムが再び鳴る。耳を澄ませてもリビングの方からは人の気配がしないことを確認して、僕は重い腰をあげた。
ベッドとローテーブルにソファー代わりのビーズクッションしかない僕の部屋で勉強をするには、木目調のローテーブルに荷物を広げるしか方法がなくて長時間座っていると腰にくる。痛む腰をさすりながら僕は今出ます、と声を張り上げて玄関の扉を開けた。
「どちら様ですか…?」
「Hello?」
玄関を開けた僕は呆然と立ち尽くした。
「えっと、誰…?」
目の前に立つ見知らぬ青年に僕は困惑する。彫りの深い顔に鳶色の巻き毛。どう考えても日本人には見えない、知らない人だ。
「Hey, I’m Urey. I’m looking for my friend. Here is…」
「ちょ、ちょっとまった!」
ぺらぺらと英語で何かを話す青年に僕は叫ぶ。英語が苦手な僕には彼の言っていることが全くわからない。欧米の、特に欧州の南の方の国の香りのする彼は明るい茶色と緑の混ざったような色の目を不思議そうにぱちくりさせる。
「ごめん、僕英語できないので…。えっと、あい、どんと、のう、いんぐりっしゅ?」
僕は途方にくれて、成り立っていない英語を口にしてみる。外国人の彼はんーん、と考えるように唸った。平穏なはずの土曜日の午後を沈黙が支配する。三階下の道路では小学生が遊ぶ声が遠く聞こえて僕と彼だけがとても場違いな存在のように思えた。
「アー、ルィツ、イル?」
「…るぃつ?」
僕は首を傾げる。るぃつ?もしかして律のことだろうか。この人は律の友達なのか、と疑問に思う。僕が律ならいるけど…と答えようとした時、廊下から美宇が歩いてきた。
「お客さん?来栖くんのお友達?」
困った顔をしている彼を見て美宇は訊く。僕は首を振った。彼は新しく現れた美宇を縋るように見る。
「ユーノゥルィツ?ルィツ、イル?」
美宇は訪問者を品定めするようにじっと見つめる。少し黙ったまま眉を寄せ、そして口を開いた。
「るぃつ、はいないよ?あい、どんと、のう、るぃつ。いっつ、わろんぐ」
首を振る美宇におぅ…そーりぃ、と彼は言い、少し困ったような顔をして躊躇った後背中を向けた。僕は彼の長い足が階段を下りていくのを確認してそっとドアを閉める。
「美宇は今の人知ってる?」
「ううん、初めて見た」
「るぃつって言っていたな、律の知り合いかな?」
「たぶん…。わからないけど」
何事もなかったかのように廊下に戻る美宇の小さい背中を僕は追う。自室のドアを開けて美宇は振り向く。
「知らないよって追い返しちゃったけど、知り合いならりっちゃんがまた連絡することできるだろうし」
珍しくドアを開いたままの美宇の部屋を覗く。ユーゴ以外は基本的に部屋のドアを閉めているのでよく話す律の部屋には何度も入ったことがあるが、美宇の部屋に入るのは初めてだった。
女の子らしい柔らかな桃色で統一されたカーテンとベットカバーのある部屋。質の良さそうな白い机の上に置かれたパソコンの横にペンタブレットと初めて会った時に美宇つけていたヘッドフォンが置かれている。壁には部屋の雰囲気とは不揃いな派手な、男の人のイラストのポスターが三枚ほど貼られていた。
「りっちゃんはいろんな人と仲がいいからね。私はあまりそこに干渉しようと思わないよ」
ベットに腰掛けて足をぶらぶらさせながら美宇は言う。りっちゃんは大人だからなぁ、と美宇は呟く。律への憧憬を含んだ眼差しで。
「でも、あの男の人可哀想だったな。律に後で聞いてみる」
僕は言った。美宇は僕を見上げてくすりと笑う。和やかな日差しの映るベットカバーを遊ぶように叩く。そうだ、と思い出したように美宇は言った。
「来栖くんにお願いがあるの」
「何?」
少し恥ずかしそうに言う美宇に僕は尋ねる。
「買い物に、付き合って欲しいの。もうすぐユーゴの誕生日だから。祝ってあげたいってずっと思っていたんだけれど、私ユーゴからいつも貰ってばかりで何にもしたことなくて。でも男の人へのプレゼントってよくわからないから手伝って欲しいの」
「いいよ、もちろん。美宇は今日暇だろ?行っちゃおうぜ」
僕の言葉に美宇は華が咲いたように顔を綻ばせた。
「ありがとう」
「あいつ、誕生日遅いんだな…てっきりもう終わっているのかと思っていた」
「ユーゴはあまりそういうこと言わないからね、おしゃべりなくせに」
お化粧してくるからちょっと待っていてね、と言われて部屋をでた僕は美宇の言葉を反芻して思った。なんだかんだユーゴのことを僕はあまり知らないのかもしれない。
急行電車に一駅のったところにあるショッピングモールはとても混んでいた。土日だから仕方がないな、と思いながら僕は少し憂鬱な面持ちで前を歩く家族連れを見つめた。
「ねぇねぇ、何がいいかなっ?ユーゴ何が好きかなあ」
嬉しさで弾んだように美宇が言う。白いスカートがひらひら揺れる。
「あいつの好きなものか」
「ユーゴは本とか映画とか好きだよね。じゃあやっぱり本かDVDかな」
頭を悩ませる美宇は楽しそうだ。
「いや、でもそういうもののあいつの趣味は僕達に理解できない気がする」
「それはそうかも」
苦笑いして言う僕に美宇は笑った。淡い桃色の唇が小さな手で隠される。
「あーもう服とかでいいんじゃん?意外とあいつ好きだろ、ファッション」
「たしかに。来栖くん冴えているねぇ」
最上階までエスカレーターで上りって僕と美宇は良さそうなお店を一つ一つ見ていく。あの洋服可愛い、と叫んで時々女性用ブランドの店に入っていこうとする美宇を、律のせいで女の子の買い物に付き合うのがいかに大変かを知っている僕は止めた。
「新作、マウンテンパーカーだって!これきっとユーゴ似合う」
自分の体よりもはるかに大きいパーカーを持ち上げて目を輝かせて美宇は言った。
「うん、いいんじゃない?」
「あ、でもこれ三色あるみたい。うぅ、迷うなぁ」
並べられた色とりどりの服の中から裏地が暖かそうなパーカーを三枚取り出して美宇は僕に見せる。黒と紺色とベージュ。
「うーん、ユーゴに紺は真面目すぎる」
「じゃあ黒かベージュ?」
真剣な顔で美宇は大きな2つの服を見比べる。美宇の小さな体には重そうで、持とうか?と尋ねる僕に美宇は大丈夫と微笑んだ。鏡の前に移動して美宇は自分の体と合わせるようにして真面目な顔で二つの色を見る。ユーゴは幸せなやつだな、と僕は思った。
「美宇に合わせても意味がないだろ」
「うん、そうなんだけど。こっちがいいな、ユーゴは明るい色の方が似合う」
買ってくるね、と言って美宇はベージュ色のマウンテンパーカーを持ってレジへ向かった。僕は美宇が棚に戻した黒と紺色の二枚の服の襟元を整えた。