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ユーゴ  作者: 蒼井 雨
3/12

水切り

不在着信、七件。未開封の留守番電話、三件。

穏やかな波のように定期的に押し寄せる怒りと、本当は自分が間違っているのではないかという懐疑心に混乱しながら僕は無機質な数字の並びを見つめていた。英文学の教授が言っていた。憤怒は一番恐ろしい感情だと。僕のしていることを、若い時はわからないけれど数十年後に後悔すると世間一般では言うらしい。後悔するのだろうなと僕も思う。しかし、僕のしたことがどんなに考えても間違っているようには思えなくて、液晶画面を開くと映る不在着信の通知を目にするたびに僕は蝕まれていく。許せない。操作した液晶画面はつるりとしていて無情だ。

少し前にユーゴが深夜に見ていた映画を僕は思い出した。恐怖政治をする権力者にドイツ人の男は『人を殺す正当な理由があるときに殺さないことがパワーだ』と言っていた。パワーは、力は慈悲である。許すことであると。強すぎる映画にソファーでユーゴの隣に座ることもラグに胡座をかくこともできず、冷たいキッチンの調理台に寄りかかって眺めていた僕はその時感情が飽和状態なのにも関わらず何も言えず、「また、美宇に怒られるよ」とだけ言った。ユーゴは「また悲鳴があがるな」と言って僕の顔を見ないまま「美宇は囲われすぎているよ」と呟いた。

僕はバルコニーで話をしていたドイツ人の男のことを思う。男に説かれて鏡に映った自分の顔を見ながら『許す』と呟いていた権力者のことも。でも許せないよ。心の中で僕はドイツ人の男に言う。お前はそう言うけれど、それでも許せないんだ。僕は力がない弱い馬鹿だね。僕は可哀想に聞かれることのなく消される彼女の声を想像し、冷たい怒りに囚われたまま未開封の留守番電話を削除する。

 「おじゃましまーす」

 顔をあげるとトレイを持ったユーゴが向かいの席に腰掛けた。

「真剣な顔でスマホを覗き込んでいるから、お取り込み中だと思って。」

「ユーゴ、席ならたくさん空いているけど?」

不機嫌な僕は冷たく言う。昼休みが終わって午後一番の授業が始まってからかなりの時間がたつ学生食堂はがらがらだった。

「いいじゃんいいじゃん。飯なんて人と食わなきゃ意味がないんだよ」

悠々と言ってユーゴは汁なし坦々うどんに手をつける。坦々うどんはこの大学で一番人気のメニューで、茹でてお湯をきったうどんに豆板醤や挽肉のたっぷり入った坦々麺風のタレと刻んだネギがのせられている。機嫌が悪い僕を気にすることなく美味しそうに箸を動かすユーゴに僕は呆れた。この男の自由人ぶりを見ていると冷たく燻っていた胸の中が少しずつ和らいでいるのを感じた。

人懐っこい自由人。ユーゴは相手がどんな人だろうが構わず絡んでいく。僕が避けていたこの男と仲良くなったのもこんな風に一人でいるときに友好的だとは口が裂けても言えない僕に構わずに何度も話しかけてきたからだ。

「お前って本当にマイペースだよな」

「そう?よく言われる」

くすりとユーゴは笑った。

「ボランティアが一緒だったとは言ってもさ、あんな大勢の中で一人一人の顔なんて全然わからないじゃん。食堂で急にお前来栖くんだよねー?ボランティア一緒のユーゴだよって同じテーブルに座られた時びっくりしたよ」

自己紹介を聞いて関わらないようにしようと思ったのに食事を一緒にしていいかと聞かれた僕の驚きは言葉に表せない。

「俺もあの大勢の中で顔がわかるのって話した数人とお前くらいだよ」

「あの時お前と話していないよな?」

「してない、してない」

ユーゴは苦笑いをする。

「あ、でも俺はお前と話しようって思っていたよ」

「なんだよそれ」

「さぁ?」

ふざけたように言う。僕は眉をしかめた。

「わけわかんねぇ」

汁なし坦々うどんを食べ終わってユーゴはプラスチック製のコップから水を飲んだ。土色をしたどんぶりの乗ったトレイを持って立ち上がり僕に聞く。

「三号館裏の池が出来上がったって聞いたから、覗きに行こうかと思っていたんだけど。お前行く?」

「なんだっけ、学びの泉ってやつ?」

「そう、どう考えても池なんだけれどね。俺はこの学校のネーミングセンスに異議ありだよ」

「行く」

憂鬱な液晶画面をカーゴパンツのポケットにぞんざいに入れて僕も立ち上がった。

 学校の敷地の隅にあるその池は半年間ほど改修工事のためにグレーのシートで覆われていた。校内で一番使われる頻度の少ない三号館の、しかも敷地の隅に位置するので学生が訪れることはあまりない。幾つか立ち並ぶ白い教室棟との間に木が多く植えられ、埋もれていることも都会にあるこのキャンパスの中でこの池だけが隔離されているように思える一因だった。

「へぇ、池の中に建物を造ったのか」

 隣を歩いていたユーゴが言った。岩に囲まれた緑色の池の中には、暗緑色の五角形の屋根をした打放しコンクリートの現代風の庵のような小屋があった。建物の裏側には斑模様をしたごつごつとした岩で小さな滝ができている。池の中の無骨な飛び石を渡る。

「ユーゴ、魚がいるよ」

水の中に銀と橙の色をした魚を見つけて僕は叫ぶ。隣の飛び石にいたユーゴが移ってきた。

「本当だ、錦鯉がいる」

午後の日差しが水面を反射する。眩しいなと、と僕は思った。ゆらゆらと光が泳いでいるその横を大きな錦鯉は穏やかに動いていた。水面に手を伸ばして僕は水を跳ねさせた。かがんでいる二人の足元の飛び石に濃い染みをつくる。冷たい。ぴちゃぴちゃと僕が手のひらでどんなに弄んでも錦鯉は悠然としている。

「来栖、こっちこいよ。石の庭がある」

呼ばれた僕は水から手を抜いてベージュ色のカッターシャツの背中を追いかける。池に浮かぶ小屋のすのこ状の床がスニーカーの裏で固い音をたてた。

「すごい。綺麗だ。日本庭園みたい」

庵のような小屋の裏側には二色のたくさんの石が敷かれていた。白い石を背景にして灰色の石で道ができている。小屋の影が細やかな幾百の石の地面に投影され、石は自分の色に加えて、影に侵されて変えた色の四色を織りなしていた。

 横を見ると同じように景色に見蕩れていたユーゴがふと思いついたかのように石を幾つか拾っていた。少し日に焼けた手が見定めるように石の形をなぞる。

「それ、どうするの」

「水切りしようぜ、来栖」

 敷かれた白い石の中から選んでいたユーゴに罪悪感にかられた僕は反対し、僕たちは飛び石を渡って戻った池の淵の中からなるべく平らな形をした石を選んだ。五つずつ握った石はひんやり冷たく苔と土のないまぜになった匂いがした。

「やっぱり、錦鯉がかわいそうじゃない?」

「錦鯉は人間なんかのこと気にしないさ。あっちの方向に投げよう、いないから」

 陽の光が恋しいのか鯉は日陰にいない。俺が先、と言ってユーゴはにっこりと笑った。

 シャツの袖を捲くってユーゴはひらべったい石を投げる。どぼん、と音をたてて石は水の中に沈んだ。

「うわ、無残」

「ユーゴ全然ダメじゃん」

 自分の下手さに爆笑しているユーゴの横に並んで僕は石を構える。僕は小さい頃にキャンプで教わったコツを思い出そうとした。当時の僕の小さな手に添えられていた白い手を思い出して僕は思考を振り切るように石を水面に投げつけた。

 水柱が上がる。僕の投げた石はユーゴのものと同じくらいの情けなさで沈んだ。

「下手くそ」

「うるっさい。今のは練習だから。もう一回やる」

 にやにや笑うユーゴを一蹴して僕は石を握りなおす。白い手に捕らわれないように、コツだけを思い出すように。指で石を回転させること。角度を合わせること。

 ぴちゃん、ぴちゃんと音を立て僕の放った石は水面に三回触れてなめらかに滑った。石の触れた跡が円形に波紋を残す。

「すげぇ。三回だ」

感嘆したようにユーゴが言った。僕は振り向いて満面の笑みを浮かべる。

「すごいな、お前。昔やっていたのか?」

荒いコンクリートの地面に腰を下ろしたユーゴが訊く。もう投げる気はないのか四つ残った石を僕に渡した。認められたような気がして僕は嬉しくなった。

「小さい頃から夏休みが来るたびに家族でキャンプに行っていたんだよ。そこの川で毎年毎年、練習していた」

「へぇ、すごいじゃん」

 ユーゴは目を細める。家族とキャンプか、と呟いて仰向けに寝そべった。授業中の学内は静かで僕が投げた石が水を掠る音だけが聞こえる。

「あー、このまま寝たら絶対気持ちいー」

「ユーゴは授業中大概寝ているだろ」

二回、三回と石が跳ねる。錦鯉はまだ日向で泳いでくれていて僕は安堵して続ける。

「来栖、見ろよ。もう秋だな。緑が秋の緑の色をしている」

日陰を作っている木々をさしてユーゴが言った。

「なんだよそれ。季節で緑が変わるの」

 僕は少し笑って水切りを続ける。

「そりゃ違うさ。少し前までもっと幼くてエネルギッシュな色をしていただろ。秋の緑はくすんで賢そうだ。」

「ふぅん。」

 僕が投げた最後の石は二回、水面を触って池の中に飲み込まれた。


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