シネマ上映会
僕が大学の研究室から帰って玄関を開けるとマンションの廊下が薄暗く光っていた。律は今日帰りが遅くなると行っていたしリビングの電気がついているにしては暗いと僕は不思議に思う。
「あれ?ユーゴ今日バイトじゃなかったの?」
明かりのついていないリビングの壁にはプロジェクターによって映画が投影され、その向かいの白いソファーに胡座をかいたユーゴが鎮座していた。部屋が暗いせいで映し出されているモノクロの映像の人物の影が揺らぐのが大きく見えた。
「バーテンのバイトが急遽休みになった」
「そうなんだ、じゃあカフェの方だけ行ってきたの」
「あぁ」
アルバイトの掛け持ちに忙しいユーゴは日中はカフェで、夕方から夜中にかけてはバーで働いている。同居している4人の中でいつも帰りが遅いのがユーゴだった。ちらりと僕の方を見たユーゴは真剣な表情で映画をみることに戻る。
ユーゴの映画上映会は一週間に一回あるかないかの頻度で行われる。ユーゴの私物である質の良いプロジェクターはもともとユーゴの部屋にあったものだが、やはり広い壁に映したほうが臨場感があるからという理由とユーゴの許可を得て各自好きなものを見ていいという条件でリビングに進出している。古い映画の鑑賞が趣味のユーゴは自分のコレクションの中から見たいものを引っ張り出してきて部屋の電気を消してソファーに座り込む。いつもは深夜に行われる上映会だからこんな夜が始まったばかりの時間に彼が映画を見ているのは珍しかった。
部屋に荷物を投げ入れて冷蔵庫から適当な食べ物をとってきた僕はユーゴの隣に座って映像を眺める。音のない白黒の世界の中で山高帽をかぶった小男がどたばたと奔走している。
「Tomorrow the birds will sing」
現れた字幕を追うようにユーゴが呟いた。僕は映画を見ている時くらいにしか見かけることのない笑顔を欠いたユーゴの表情を黙ったまま一瞥した。
巻き毛の魅惑的な女から花を買ったり乱痴気騒ぎとしか言い様のないパーティーに参加したりとくるくると映像は進んでいく。酔った小男はクラウンのような形の皿に乗ったケーキと王冠を乗せた禿げた男の頭を勘違いして禿げた男の頭にフォークを突きたて怒られる。僕は吹き出しそうになるのをこらえた。男二人が並んで音のない映画を黙々と見ている光景もなかなかにシュールだろうなと思ってこらえきれなくなった。
「今回は喜劇なんだね。珍しい」
「この間美宇の反感を買ったからな」
「あれはないよ」
前回の上映会でユーゴが選んだのは古いが奇妙な白黒映画でややグロテスクだった。一貫性のない奇妙映像に僕はキッチンに立ったまま圧倒されていたが、ちょうど手のひらに蟻が湧くように群がっている場面を通りがけに見てしまった美宇が悲鳴をあげて非難した。
確かに色調のはっきりとした白黒映画の白い手に黒い蟻がうようよと這いずり回っているのは背筋が凍るものがあったけれどまだ剃刀で眼球を裂くシーンでなかっただけマシだと思いたい。
「でももう一度見たくなるだろ?」
「それは認める」
嫌そうな顔をする僕にユーゴはにやりと笑った。奇妙なものは魅惑的だよなと言う。
「ユーゴが見るのは古いのばっかりだ」
「新しいのも見るぜ?X-メンとか」
「それシリーズの初期作なのか最新作なのか聞きたいね」
ネギと納豆とシーチキンと生卵をのせたご飯に僕は醤油をたらして口に運ぶ。
「古いものにはさ、」
ユーゴは映像をじっと見つめる。白と黒の世界では小男が『幸運のお守り』らしき兎の足で顔を摩られていた。
「時間を生き延びてきただけの魅力があるんだよ」
真剣な顔。プロジェクターの稼働している音だけが部屋を支配する。相槌をうって僕は食事を進める。
「ただいまー、ユーゴいるの?珍しい」
帰ってきた律が静けさを破った。
「おかえり、りっちゃん。あれ、今日の上映会は来栖くんも参加していたんだ」
続いて美宇も自室から出てきてリビングに入る。僕は器を流しに片付けに立ち、律が疲れたーとソファーに座って脚を伸ばした。『You?』巻き毛の魅惑的なすらりとした女がそう尋ねたところで舞台は幕を閉じる。ユーゴは部屋の明かりをつけてプロジェクターの電源を落とした。
「美宇こもっていたけれど飯食ったの?」
「食べていないけどあんまりお腹すいてないな」
「私軽く食べるけど一緒に食べる?」
頷いて美宇は微笑んだ。美宇の笑顔は周りの空気を柔らかにする。
「俺ビール飲む」
「ユーゴが飲むなら飲もうかな」
律は立ち上がったユーゴの後を追って紺色の冷蔵庫を開けた。
「あ、僕にも頂戴」
「おーいいね。じゃあ今晩は飲み会だな。来栖は氷結だろ?」
ユーゴがテーブルに冷えた缶を三つ並べた。
「私もお酒飲みたい」
美宇が言った。
「お前は駄目。未成年だろ」
きっぱりと言うユーゴを美宇は座り込んだまま下から睨めつける。
「ユーゴは高校生の時から飲んでたくせになんで私は駄目なの」
美宇は頬をぷっくりと膨らませる。年齢の割に幼いつくりをした顔の眉間に皺が寄る。見かねた律が声をかけた。
「別にいいじゃない。十九歳でも私と来栖と数ヶ月しか違わないんだし。美宇、甘いのあるよ。カシスオレンジとサングリアどっちがいい?」
俺は一応制止したからなとユーゴは言うものの美宇に向けてキッチンの方を顎でしゃくった。四本目の缶がテーブルに並んで美宇は嬉しそうだ。
「これは何に対しての乾杯なの?」
いたずらっぽい目をして律が聞く。
「僕らの残り少ない夏休みに」
「じゃあ来る大学二年生後期に向けて」
ユーゴが言い四人は缶をぶつける。アルミのぶつかる不揃いな音が鳴った。律はお好み焼きの上にかつお節をたっぷりとかけた。湯気にのってかつお節がゆらゆらと踊る。
「そういえば課題終わった?」
残り一週間をきった休みに僕は尋ねる。
「ないよ、そんなもん」
ユーゴが魚のすり身で挟まれているチーズをつまみ上げた。
「まさか現代ビジネス学科はあるの?」
「読書感想文と語学の課題が出てる。昨日終わったばかりだけど」
「え、ユーゴないの?私たち論文のレジュメ作りが出てるよ。終わっていないんだけど。りっちゃんどうしようー」
「五本でしょ?私先週に終わらせた」
「えぇ抜けがけ?」
美宇が悲鳴をあげた。
「抜けがけって。好きなテーマについてなんだから楽でしょ。美宇は趣味にのめりこまなければ時間あるんだから」
さらりといって律はビールを煽った。
「好きなテーマなんて大まかすぎるよ。決まんない」
「学科の専門なんだから学科選んだ時の趣旨でいいじゃない」
「だって大学選ぶときに入れるとこで選んだんだもん」
「そういう考えで大学選ぶから」
美宇はうなだれた。テーブルの上に突っ伏して細い腕を伸ばす。素早くユーゴがぬるくなった缶をどかし、僕はマヨネーズとソースで汚れた皿を取り上げた。
「課題終わらないし彼氏できないしやばいよう。もう二十歳になっちゃうのに」
顔を前に向けて美宇は言う。
「彼氏は女子大なんだもんしょうがないって。美宇のサークル学内なんだもの。バイトしてないんだし」
「だって同じ女子大でもりっちゃんは絶対もてるもん」
あぁ、酔っているな。あげた顔は上気していて僕はユーゴに目配せをする。ユーゴは制止はしたからなと言って二本目の缶ビールのプルタブに指をかけた。
「ユーゴなんて二十二歳だぜ?二十歳で彼氏がいなくたって。な?」
「ユーゴはいないんじゃなくて作らないの」
律が美宇の慰めるように美宇の柔らかな髪を撫でる。僕はまだ半分以上残っているカシスオレンジの缶を信じられない面持ちで見つめた。
「私なんてどうせ子供っぽいですよー男の子なんてやっぱりりっちゃんみたいな胸の大きい子が好きなんだ」
「そんなことないって」
「まぁ、大きいのを嫌いな男はいないよなぁ」
テーブルに肘をついてのんびりとユーゴは言う。
「そういうのって最低」
「だって女だって背が高い男が好きじゃん」
「確かにそうだねぇ」
納得した様子の律に美宇を放っておくなと思う。紅い顔で二人のやり取りを見ていた美宇は突然立ち上がった。小さな体がゆらりと揺れる。フローリングと椅子が擦れてひどい音を立てた。
「そうだ。豆乳だよ。お胸大きくする。豆乳飲む。りっちゃん、豆乳もらうね」
冷蔵庫の中の右上、律のスペースに手を伸ばした美宇は言う。
「だめ、それ最後の一本だから。明日の分がなくなっちゃう」
律はきっぱりと言い放った。