おいでよルームシェア
「じゃあ、私と一緒に住もっか?」
「はぁ?」
ふざけたように律は笑った。素っ頓狂な声を出した僕に律は紅い唇に人差し指をあててみせる。来栖ってばうるさーい。幼稚園から中学校までを一緒に過ごしたはずなのに律の考えていることはいつもわからない。
金曜日の喧騒に包まれる居酒屋で僕は幼馴染と酒を飲んでいた。東京の賃貸って高いんだなと人生で初めての一人暮らしのための物件を探していた僕が愚痴をこぼした事が話の始まりだ。引越しとは大変お金のかかるものらしい。敷金礼金、前家賃。運搬費用に最低限とはいえど幾つか必要な家具家電。
「あ、お兄さん。このキャベツおかわりくださーい。あと、山崎ハイボールと…何飲む?」
「柚蜜サワー」
「お願いしまーす」
忙しそうな店員ににっこりと微笑んで律は二人分の空いたグラスをテーブルの隅に寄せた。重いグラスが木目調の上を滑る。律は咀嚼していたぼんじりを飲み込んで言う。
「ふざけているわけじゃないんだよ?来栖は家賃とか困っているみたいだし、だったら私達のルームシェアに参加すればいいんじゃないって。私達も人数増えたほうが経済的だし。」
「待って。お前ルームシェアしてんの。聞いてない」
言ってなかったっけ、と律は首を傾げる。僕は首を振った。
「そもそも僕らの地元大学通えんじゃん」
「高校の最後の方で親が転勤したから引越ししたの。しかたなく一人暮らししようとしたら、高校の同級生で同じ大学に進学する子が、大学の最寄駅に親戚のマンションあるからそこで従兄弟とルームシェアするけど広いからよかったらって誘ってくれて。だから今三人で住んでいるんだよね」
「へー、初耳」
「そこ四部屋ある広いマンションでさ、もう一人いたらいいのにねーなんてちょうど話していたんだよね。来栖おいでよ」
「ルームシェアねぇ…」
ルームシェアを考えもしなかった僕は律の急すぎる話についていけない。柚蜜サワーを一口飲む。甘くて美味しい。焼き鳥とハイボールという組み合わせを食べている目の前の女子大生におっさんかよと思った。
ルームシェアいいよー。家賃安くあがるし、うちの場合家電とかもう揃ってるし。同居人もいい人達だし。紹介してくれた美宇は大人しいし、従兄弟のユーゴも頼りがいあるし」
「ちょっと待った。お前今ユーゴって言った?」
嫌な予感がする。僕にもユーゴと言われて思いあたる奴がいる。
身をのりだした僕に律はきょとんとして瞬きをする。急に下ろした手が水茄子の皿の端に当たり青い和皿がくるくると回転した。僕は慌てておさえる。
「う…ん?そうだよ。背が高くて、こう茶色の癖っ毛の大学生」
律は頭の周りで手を動かす。そのジェスチャーはわからないが、僕は律の同居人が僕の知っているユーゴと同一人物であることを確信した。そもそも、この狭い世間でユーゴなんて呼ばれている奴が何人もいてたまるかと思う。
ユーゴは同じ大学の、学科は違うがゼミで半ば強制的に参加させられたボランティアで出会った学生だ。地域活性型プロジェクトという曖昧な目的の集まりの初回の集会では一人一人自己紹介をしていった。テニスサークルに入ってますだの、あのバンドが好きですなどだらだらと続いていく挨拶の中彼はすくっと立ち上がって言い放った。
「史学科2年のユーゴです!古い映画と本が好きで愛読書はレ・ミゼラブルです!それでユーゴって呼ばれてます。みんなも呼んでねー!」
にこっと緊張した様子もなく笑う本人に対して周りは静まり返っていた。沈黙の中誰かが名前言ってない、と言うのが聞こえた。
「あ、名前か。名前はここに書いてあるから、よろしく!」
ユーゴは机の上に置いてあるネームプレートを持ち上げてみせる。横に座っていた友人らしき学生がお前なーと笑いながらユーゴを軽く叩く。その様子に会場が笑った。自己紹介後の話し合いで彼は完璧にうけいれられて好かれていた。変わってはいるが面白くて魅力的な奴だと。
「知ってるわ…そいつ」
声を低くして僕は言った。律は目を輝かせる。
「知り合いなの?じゃあ話は早いじゃん!」
「知り合いっちゃ知り合いなんだけど…」
言葉を濁す僕を知ってか知らずか律は続ける。
「マンションここから歩いて十分なの。じゃあ今日見に行こう。初ルームシェアだね」
「え?今から?」
「今から!」
嬉しそうな律の勢いに圧倒される。
「思い立ったが吉日っていうでしょ?だって物件探しで困っている時に、幼馴染とお酒飲んでいたらたまたまその幼馴染が知り合いとルームシェアしていたって言うんだよ?来栖も同居しなさいっていう神様の思し召しだよ!」
なんて偶然、と律は頬に手をあて目をつぶる。こういう時の律は言いだしたら聞かない事を僕はよく知っている。ほぼ空になっている幾つかの皿と結露したグラスと一緒に並べられているスマートフォンの液晶画面の数字は二十一時三十六分。盛り上がりの頂点にあるこの時間、周囲の声はどこから上がっているのかわからないほど賑やかだ。慌ただしく動き回る店員と眩しい裸電球の明かり。律の真っ直ぐな目が爛々と輝く。この雑然とした空間全部が彼女の味方をしているように思える。了承の印にぐいっとまだ半分ほど残っていた柚蜜サワーを飲み干した僕に律はにっこりと笑みを見せた。
居酒屋の階段を下りた先の大通りから一本奥へはいったこの通りはたくさんの飲食店や不動産屋や雑貨屋が並んでいる。昼間通る時には開いていた魚屋や雑貨屋や本屋がシャッターを閉め、静かだった韓国料理屋やラーメン屋が煌々と明かりを灯しているのを見ると違う一面を見せられた気になった。
「うー、涼しいね。夏ももう終わりか」
律は伸びをするように両手を広げて上をむく。僕もつられて空を仰いだ。濃紺に夏の大三角形が前に見たときよりもだいぶ傾いていて、アルコールですこしぼんやりとする頭で根拠のない焦燥感を覚える。
「もう九月も半分終わったからな」
「夏休みいつまで?」
「九月いっぱい」
一緒だ、と零した律に従って僕は路地を右に曲がる。駅前の雑踏から一転して静かな住宅街。前方にある四階建てのやや小ぶりなマンションをあれだよと指差した。
「お前、男の連れ込みは禁止だっつったろ律」
後ろから声が聞こえた。きょとんとした律と僕が振り向く。
「あれ?ユーゴ?」
点々と光る街灯に見慣れた男の顔がうつしだされた。
「女友達ならいいけど男友達の単独連れ込みは禁止。申し訳ないけど、彼氏さんだか行きずり相手さんだか知らないけど帰って」
背の高い切れ長の目をした男がにこりと笑って首を傾けた。女の子がやるならば可愛らしいその仕草も、この男がやると得体の知れなさと一種のあざとさを感じさせる。
「ユーゴそういうのじゃなくて、」
「ってお前来栖じゃん」
笑っていた目をユーゴは見開く。話を遮られて不服そうな顔をした律とつったている僕を交互に見る。
「え?お前って律とそういう関係だったの?」
「ちげーよ」
「というか知り合いだったんだ?」
「新しいルームメイト候補だってば」
しびれを切らした律が大きな声をあげた。あーなるほどねとユーゴは頷いた。
「ごめんごめん、酔っ払いりっちゃんが誰かを自宅に連れ込むとこだったのかと思って」
笑いながら言うその態度は全く悪びれた様子がない。
「もううっさいな。連れ込むわけがないでしょ。酔っぱらいじゃないし」
「いや酔っ払いはあっているから」
僕は言う。そういう僕も大概酔っているのかもしれない。でなきゃ深夜十時前に幼馴染がルームシェアしている家にアポイントもとらずに押しかけないだろう。
「でもお前ならルームシェア歓迎だよ。家探ししていたなら俺に言ってくれれば良かったのに」
もっと早く紹介したのにさ、とユーゴは言った。並んで歩く僕とユーゴを律は不思議そうに見つめる。
「なんか意外だな。さっきユーゴの名前が話にでたとき反応良くなかったから、来栖とユーゴ仲悪いのかと思ってた。もしくは顔はわかるけど…くらいの間柄とか」
律の暴挙は大抵確信犯だなと僕は思った。
「反応悪かったのかよ、ひど。そんなことないって。昼飯一緒に食う仲だよ」
「変な奴っぽいから近寄らないようにしていたんだけど、学食で顔を合わせるたびに近寄ってきて一緒に食べるから不可抗力で仲良くなった」
「お前俺のこと近寄らないようにしてたの?うわぁ」
ひでぇとユーゴは笑う。
「だって自己紹介で名前言わない奴だぜ?変人変人」
「自己紹介で名前言わないって逆に何をいったの?」
「ユーゴです。よろしくって言っといた」
「愛読書なんて久しぶりに聞いたよ」
「あーユーゴ読書家だもんねぇ…」
この男が読書家とは意外だなと思った。チャラチャラしているとまでは言わないが、話し上手で目立つユーゴに文学青年のイメージはない。そもそもこの男は掴みどころがないのだ。
オートロックマンションの格子状の玄関口の鍵を開けエレベーターに乗る。ユーゴが三階のボタンを押した。
「もう十時前なんだけど家上がっちゃっていいのかな。同居人もうひとりいるんだろ?」
「大丈夫だって。美宇なら宵っ張りだから起きているもん」
他の人の家にお邪魔するということに少し緊張する。ただいまーと大きな声をあげ律はヒールの高いパンプスを脱いでふらふらと廊下を進んでいった。幾つかあるドアを横目に突き当たりの部屋に入るとラグの上にぺたんと座った律が両手を広げた。
「ようこそ我が家へー」
意外と綺麗なんだなと僕は部屋を見渡す。共同スペースなのであろうその部屋は右手にキッチンとダイニングテーブルがあり、左手にはネイビーのラグと白いソファーが置かれていた。
「学生のルームシェアっていうからもっと汚いかと思っていた」
「共同スペースだからね。それぞれの部屋はもっとごちゃごちゃしていると思う」
「あれ。美宇いねぇの」
荷物を部屋に置いてきたユーゴが律に聞く。
「部屋にいるんじゃない?美宇、お客さんだよ」
律が叫ぶ。聞こえてこない返事にユーゴが呆れた顔をした。
「あいつまたヘッドフォンつけているな。呼んでくるわ」
「座りなよ。お茶いれようか?」
大丈夫、と僕は断り白い二人掛けのソファに座った。さっきまで飲んでいた酒で体の中の水分が飽和状態だった。
やがて姿をみせたユーゴは後ろに二の腕くらいまでしか身長のない女の子を連れてきていた。
「あの、こんばんは」
明るい灰色のワンピースを着た女の子はおどおどと挨拶をする。ふわふわとしたショートカットと肌の白さが可愛らしい女の子だ。僕は雰囲気がリスみたいだと思った。
「りっちゃん!帰ってきてたの?」
「うん、今ちょうど下でユーゴとあって一緒に帰ってきたの」
「お客さん、りっちゃんのお友達?」
ユーゴの後ろから出てきた彼女は律に駆け寄る。
「そうそう。これから一緒に住むの。ユーゴと同じ大学なんだって」
「一緒に住むのってまだ決まったわけじゃないし」
「そうなんだ。えっと、美宇です。これからよろしくね」
美宇ははにかんだように笑う。その様子を律は微笑ましそうに見ている。
「あ、うん。よろしく」
律に誘われるままついてきただけの僕を美宇は同居するものと思っているらしい。
「りっちゃんの向かい側の部屋余ってたもんねぇ」
「あそこ今ユーゴの私物が置かれてるだけでしょ」
二人はどんどん話を進めていく。
助けを求めてユーゴに視線を送ると奴はしれっとした表情をした。
一週間後、物件探しの間居候をしている叔父の家のポストに入った僕宛の封筒には綺麗な作りたてのように思える鍵が入っていた。