現代の切り裂きジャック
コロシヤンラプソディー一話目。
敵は現代の切り裂きジャックです。
『コロシヤンラプソディー~現代の切り裂きジャック~』
海辺に位置する晴空市。その中心にそびえる白い巨塔、晴空総合病院。
外科に勤める三十路前の医師、藍澤時雨は白衣を着たまま病院を後にしようとしていた。
「あら、藍澤先生、お帰りじゃないんですか?」
カルテを運んでいた看護師の女が問いかける。
時雨は長い黒髪をなびかせ、振り返った。
「いえ、帰りますが?」
「でも、白衣……」
「ああ、帰宅前に外で片付けなければならない仕事があるもので」
切れ長の瞳を細め、微笑む。
「そうなんですか。大変ですね」
「ええ、では」
長身で細い体が自動ドアの向こうに消えると、看護師は「ほう」と溜め息をついた。
「藍澤先生って若いのに優秀だし美人だし、素敵だなあ」
どこか中性的な魅力のある時雨に憧れる看護師は少なくない。
プライベートを明かさないミステリアスな所も彼女の魅力の一つと言えるだろう。
「病院の外の藍澤先生って、どんな感じなのかなあ……」
時雨はある事務所に足を踏み入れた。
「誰だ?」
デスクに足を乗せ、煙草を吸っていた男たちが一斉に彼女を見る。
「何だ、医者か。俺たちゃ怪我も病気もしてねえぜ」
ヤニで汚れた壁と靴跡の残る床。窓際に一脚のデスク、更に部屋の中心で向かい合った四脚のデスク。所謂暴力団事務所には、白衣姿の時雨は不似合いだった。
立ち込める煙草の匂いに顔を顰めた時雨に、一番近くのデスクに着いていた男が立ち上がり、「おい」と詰め寄る。
「失礼します」
時雨はそう言ってその横をすり抜けた。
ひと呼吸置いたところでその男の首から血が噴き出し、スローモーションのようにゆっくりと倒れ込んだ。
「な……」
男たちの間にざわめきが走る。
「てめえっ!」
事切れた男の向かい側に座っていた男が立ち上がると、時雨の白い手が動く。
「ぐあっ!」
叫び、椅子に倒れ込んだその男の左胸に刺さっていたのは医療用のメスだ。
「あと三人、ですか」
時雨は呟き、命知らずにも拳を固めて向かってくる二人の首を、右手に持ったメスで掻き切った。
「畜生! 何だってんだ!」
一人残ったリーダー格らしき男は、慌ててデスクの抽斗から拳銃を取り出す。
だが、矢のように飛んだメスがその手を掠め、拳銃は床に落ちた。
「殺し屋です」
薄い唇を動かしてそう告げた時、彼女はもう男の前に立っていた。
「ま、待……っ!」
男の叫びは喉を切り裂かれることによって、虚しく途絶えた。
「今日の仕事はこれで終わりですね」
その白衣は一滴の血も被ってはいない。
鞄から書類を取り出し確認する時雨の姿は、カルテを見る医師のものと何ら変わりはなかった。
「さて、これで帰宅できます」
床を染める血を踏まないように注意し、彼女はドアに手をかけた。
そこでふと思い出したように振り向き、五人の遺体を見つめて呟く。
「死はいつでも、貴方の隣に」
翌日、病院での仕事が休みだった時雨は仲介屋のマンションに向かった。
十階建てのごく普通のマンションに仲介屋、呉羽貴文が住んでいる。
時雨は赤い愛車を駐車場に停めると、エレベーターに乗り七階のボタンを押した。
目的の階で降り、廊下を真っ直ぐに進む。L字型になった廊下の角にある705号室のインターホンを押す。
「時雨です」
「ああ、開いてるから入れ」
そう言われてドアを開ける。短い廊下を抜けて殺風景なリビングに入ると、黒髪にサングラス、そしてダークスーツをだらしなく着崩した三十過ぎの男がデスクに向かっていた。彼が呉羽だ。
彼に向かって――つまり時雨に背を向けて――ショートカットの女が身を乗り出している。
「だからさあ、呉羽君。一人くらいいるでしょ、使えそうな子」
「いや、だからうちが仲介してんのは殺し屋だっつーの。殺しが仕事のやつ」
「その殺し屋が欲しいんだよ、私は」
物騒な会話だが、時雨自身殺し屋だ。驚くことはない。
とはいえ、用事を済ませたいので割って入ることにした。
「あの」
進み出て、女の横に立つ。
呉羽は頭を掻きながら時雨を見た。
「悪いな、ちょっと無茶な依頼をされてて」
「無茶って君ね、本来ならこの方が楽でしょ。――ん、お医者さん?」
女は白衣姿の時雨を目に留めると小首を傾げ、
「呉羽君、どこか悪い所あったっけ?」
と、呉羽に視線を戻す。
「いや、至って健康だ」
「だよね、君が悪いのは頭と顔だけだもんね」
「お前な、殺し屋けしかけるぞ」
「けしかけてよ、雇うからさ」
ポンポンと飛び交う軽口に、時雨は戸惑う。
「呉羽さん、この方は?」
「ああ、こいつは……」
呉羽が紹介する前に、女は体ごと時雨の方を向き微笑んだ。
「私は絆紗々。呉羽君の友人だよ、よろしく」
差し出された手を時雨はおずおずと握った。
紗々はノースリーブハイネックの黒いセーターに白いジーパンというシンプルな格好をしているが、肉付きが良いためかとても妖艶に見えた。年は呉羽と同じぐらいだろうが、雰囲気とでもいうものが若々しい。
――何を食べたらそんなに大きくなるんでしょうね。
時雨は自らの平らな胸と紗々の豊満な乳房を見比べ、溜め息をついた。
「で、彼女は殺し屋? それとも依頼人?」
その問いに時雨は返事を躊躇った。
どちらにしても他人に知られては困ることだ。
「殺し屋だ、こいつは」
だが、呉羽がさらりと答えてしまう。
「呉羽さん!」
焦る時雨を呉羽はまあまあと宥めた。
「大丈夫、ここに来てる時点でこいつだってまともな人間じゃねえから」
「私はただの心理学者だよ」
紗々はそう言って肩を竦める。
「ただの心理学者が殺し屋を雇うかよ。しかも殺し以外の目的で」
「殺し屋を、殺し以外の目的で?」
時雨は呉羽の言葉を繰り返した。
「だから、ちょっとした研究だってば。物騒な話じゃないよ」
「いや、お前の物騒の基準って何?」
「あの!」
二人の会話はいつまで経っても終わりそうにないと思った時雨はデスクに手を突いた。
「昨日の報酬を」
呉羽は思い出したように「ああ」と声を上げ、デスクの抽斗から封筒を取り出した。
「ほい、五人で250万」
「どうも」
受け取ったそれを時雨は鞄に仕舞った。
「では、私はこれで……」
背を向けようとした時雨の腕を、紗々が無遠慮に掴む。
「何ですか?」
時雨は眉間に皺を寄せ、振り返った。
「君、名前は?」
どこか人を喰ったような笑みで問いかける紗々。
時雨は悩んだが、呉羽が頷くのを見て、
「藍澤時雨です」
と、答えた。
「白衣は趣味?」
「仕事の時はこの格好と決めているので」
「報酬を受け取るのも仕事のうちってことか。こいつは表で医者をやっててな」
呉羽が余計なことまで答える。
「医者で殺し屋、か。興味深いな」
紗々は「ふむ」と息をつくと、ようやく時雨の腕から手を離した。
そして呉羽に向き直る。
「彼女を買いたい」
時雨は「はあ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「いや、買うとかそういうのじゃなくてだな、うちは一件いくらで雇うようになってんだよ」
呉羽も困ったようで、冷や汗をかいている。
「とりあえず前金で一千万。今度あと四千万持ってくるよ」
紗々はショルダーバッグから先程時雨が受け取ったものより四倍厚い封筒を取り出し、デスクに置いた。
「合計五千万で、彼女を引き抜きたい」
「ご……」
人の目の色が変わる瞬間を、時雨は初めて見た。
「時雨!」
「お断りします」
こちらを向いた呉羽を一喝する時雨。
「私は売り物ではありませんよ」
「便宜上売り買いという形になるだけだよ」
紗々は笑い、時雨の手を取った。
「な、何です……?」
更に、時雨の顔を見上げる。その表情はさっきまでの人を喰ったような笑みではなく、真剣なものだった。
「君が欲しい」
男が女を口説くように、女が男を誘うように、紗々は囁いた。
「な……」
絆紗々という女は真剣な顔をすると同性の目から見ても魅力的で、一瞬時雨は顔を赤らめた。
しかしすぐに我に返り、その手を払いのける。
「お断りします!」
そもそも何をさせられるか分からないのだ。この口ぶりでは性処理でもさせられかねない。
「えー、時雨さんって私の好みなんだけどなー。美人だし胸小さいし」
再び人を喰ったような笑みを貼り付け、紗々は時雨にとっての地雷を思い切り踏み付けた。
時雨は目にも留まらぬ速さで紗々の首筋にメスを突き付けると、
「貴女が私のターゲットでなかったことを、神に感謝するんですね」
そう言って、紗々の言葉にさりげなく吹き出した呉羽をひと睨みした。
「では、失礼します」
705号室を後にした時雨は、いつもより荒い運転で帰路に着いたのだった。
それから三日ほどが経っただろうか。
時雨は紗々の発言を忘れるように努め、殺し屋としての仕事が入らない間医師としての仕事に集中していた。
今日の外来患者はあと少し。
「良くなったようですね。もう来なくて結構ですよ」
「ありがとうございます」
足の怪我でやってきていたサラリーマン風の男は礼を言うと、診察室を後にする。
「あと一人ですか」
そう呟き、看護師が置いていったカルテに手を伸ばしたところで、次の患者が入ってくる。
「よろしくお願いしまーす、先生」
物凄く聞き覚えのあるその声に、時雨はカルテを取り落とした。
「どーも、時雨さん」
紗々がにっこりと微笑み、パイプ椅子に座る。
「どうして、貴女が……」
「医者が本業なら、ここに来た方が早いかなあと思って」
「勤め先まで教えた覚えはありませんが」
「友人が探偵でね」
事も無げに言うが、裏社会の仲介屋に探偵が友人の心理学者など、胡散臭いことこの上ない。
まあ、殺し屋の時雨が言えた義理ではないが。
――しかし、ここで動揺したらまたこの人のペースに乗せられてしまいますね。
時雨は咳払いを一つすると、医師として淡々と接することにした。
「カルテによると、動悸とふらつきがするそうですね。熱は測りましたか?」
「そうだね、君にお熱かも」
紗々はにっこりと笑って時雨の努力を打ち砕く。
看護師がいないのが幸いだった。時雨の顔は思い切り引き攣っていた。
「そ、それは……、いつ頃からですか?」
苛立ちで声を震わせつつ、時雨はなんとか医師であろうとする。
「うーん、初めて見た時から好みだと思ってたんだけど、決定的なのはメスを突き付けられた時かな。殺気がビンビン伝わってきてドキドキしちゃったよ」
紗々はどこまで本気か分からないオーバーな口調で答えた。
時雨の手元で、ボールペンが音を立てて折れた。
「分かりました、精神科を紹介します」
怒りも一定のラインを超えると冷静になれるらしい。時雨はペン立てから新しいボールペンを取り、紹介状を書き始めた。
「あれ、恋の病ですとか言わないの?」
「こちらの血圧が上がりそうなので、黙っていてもらえませんか」
こめかみに青筋が浮かぶのを感じながら、時雨はできる限り冷静に対応する。
「改めて、君を貰いに来た」
だが、紗々は笑顔で追い打ちをかけた。
二本目のボールペンをへし折った時雨は書きかけた紹介状を握り潰し、溜め息をついた。
「貴女は……、同性愛者なのですか?」
それならば、これはとてもデリケートな問題だ。時雨は差別や偏見といったものを好んでいない。
「いや、別に」
しかし、紗々はあっさりと否定する。
「友人曰くただの節操無しみたいだね。男も好きだよ、私は」
どうやらただの変人らしい。
「で、では、ビジネスの話をしたいのですよね。そこにユーモアを交えようとして……」
「うん、ビジネスというか、研究の話かな」
「ですよね」
ほっと息をついた時雨だったが、紗々は「ははは」と爽やかに笑い、両手を広げた。
「でも、できれば性的な意味でも君が欲しい」
ベタな喜劇のように、時雨は椅子から転がり落ちた。
「あらら、大丈夫?」
笑ったまま差し伸べられた手を、時雨は払いのける。
「せ、性的な、とは……?」
色事には疎いため顔が真っ赤になっている時雨に、紗々はニヤニヤとした笑みを浮かべる。どうも笑顔のレパートリーの広い人間だ。
「だから好みだって言ったじゃないか。長い黒髪に端正な顔立ち、細い腰に平たい胸」
「殺しますよ?」
またもや地雷を踏んだ紗々に対して、時雨の怒りは頂点に達した。
「その殺気もいいんだよなー。ほんと可愛いよ」
だが時雨が発する殺気など何のその、紗々はへらへらと笑って言葉を続ける。
「何度でも言うよ、君が欲しい。あらゆる意味でね」
「いい加減に……」
立ち上がろうとした時雨を見下ろし、紗々は
「知ってるよ」
と言って自らの唇を撫でた。
「何をですか」
床に腰を落としたまま、時雨は溜め息をつく。どうせ碌でもないことを言い放つのだろう、という溜め息だ。
「君の過去、かな」
馬鹿な、と言いかけた時雨を遮り紗々は言葉を紡ぐ。
「叢雲病院は、君の前の勤め先だね?」
叢雲病院――その名に時雨はピクリと反応する。
「三年前、そこで末期癌の患者が薬物を注射されて死亡する事件があった。解決はされてないけどね」
内容の重さとは裏腹に、その口調は軽い。
「それが、どうしたと言うんです……」
時雨は紗々を睨み付ける。
「ふふ、いいね、その目。いやあ、その事件の直後に君が叢雲病院を辞めたのは、果たして偶然なのかと思ってさ」
「は……」
喉をひゅう、と酸素が通り過ぎていく。
「何が、目的なんですか?」
諦めたように、時雨は問う。
「何度も言ってるじゃないか。君が欲しいって」
「風俗に行く金で手を打ちませんか?」
せめてもの抵抗とばかりに、時雨は初めて冗談を言った。
「商売女に興味はない」
紗々は時雨に馬乗りになると、あの真剣な眼差しで見下ろした。
「君が良いんだ」
「つ……」
求められるという優越感、それに高揚感、そんなもので一瞬ときめいてしまった自分を嫌悪する時雨。
「私の、どこが良いんですか」
その上まるで男の愛を疑うような言葉を吐いてしまったことを後悔する。
「見た目と殺気とプロ意識」
紗々はそう答えると、人差し指で時雨の胸をトンと突いた。
「ターゲット以外を殺さない辺り、プロの殺し屋だなあと思ってね。私が欲しいのはそういう人間だから」
「でも、殺すのが目的ではないのでしょう」
そう、呉羽の所で言っていた。殺し以外の目的で殺し屋を雇いたいのだ、と。
「うん、ただ戦ってほしい、殺人鬼と」
「殺人鬼?」
普通に生きていれば滅多に使わないであろう単語を復唱する。
「そう、例えば彼」
紗々は立ち上がると、バッグから一枚の写真を取り出した。
写っているのは髪を七三分けにした、真面目そうな男だ。
「彼の名前は木戸啓一、現代の切り裂きジャックだよ」
「現代の切り裂きジャックというと……」
ここ一ヶ月ほど何かと話題になっている事件を思い出す。
毎週金曜日の夜に女が惨殺される事件。その被害者三人が三人とも売春をしていたことを嗅ぎ付けたマスコミが、面白おかしく現代の切り裂きジャックなどと騒ぎ立てていた。
「しかし、あの事件は警察の捜査も難航しているはずでは……」
時雨はようやく起き上がり、椅子に座った。
紗々は自らの頭を指差して笑う。
「優秀な探偵が情報を集めてさえくれれば、私程度の頭でも犯人なんて割り出せる」
警察以上の捜査力を有する探偵と、謙虚だが高い分析力を誇る心理学者のタッグというわけか。
――それは、私の過去を探るのも簡単だったでしょうね……。
時雨は一応納得したものの、腑に落ちないことはまだあった。
「何故、警察に突き出さないのです?」
紗々は「はっ」と小馬鹿にしたように笑う。
「せっかくの研究対象をわざわざ警察にプレゼントしてどうするのさ。私はそんなに善人じゃあない」
「はあ……」
「とはいえ、終わったらちゃんと警察に引き渡すよ。悪人でもないからね」
殺し屋を脅す人間のどこが悪人ではないのか、と出かけた言葉を時雨は飲み込んだ。
「君は殺人鬼、木戸啓一と戦ってくれればいい。私の目の前で」
紗々はそう言うと、写真と茶封筒を時雨に渡した。
「木戸の情報と私の連絡先が入ってるから目を通しておいてよ。準備が整ったら連絡してね」
腹を括った時雨は「やれやれ」と肩を竦め、頷いた。
「じゃあ、また。時雨センセ」
「そうだ」
「ん?」
診察室を出ようとした紗々に、時雨は皮肉混じりに問いかけた。
「動悸とふらつきはどうなりました?」
「君と会ったらますます酷くなったよ、恋の病が、ね」
紗々はしれっとした顔で、薄っぺらい言葉を吐き出した。
自宅であるマンションに帰宅した時雨は、簡単な夕食を摂った後ソファで紗々から渡された資料に目を通すことにした。
時雨の住むマンションは二十階建てで、その1505号室のベランダからは晴空市が一望でき、海も見える。
いつもならそんな景色を見ながら晩酌などを楽しむのだが、今日はそんな気分ではない。
ターゲット――殺すわけではないので微妙に語弊があるかもしれない――は木戸啓一、25歳。市内にある中小企業の社員らしい。
「25歳には見えませんね」
写真を見ながら時雨はぽつりと呟く。
真面目そうな顔立ちとぴっちり分けた髪型のせいか、三十歳と言われても違和感はない。
彼は母子家庭で育ち、高校を卒業した後就職、二ヶ月前に母親を病気で亡くしたとのことだ。
三件とも使われたのは切れ味の鋭いナイフ。どの被害者も喉を切り裂かれた後、執拗に切り刻まれていた。
「警察の方も大変だったでしょうね」
惨殺体をみることになったのだ。警察はまだしも、第一発見者はトラウマになったことだろう。
書かれているのは木戸のプロフィール、経歴、殺害方法、生活習慣などで、上手くまとめられており把握しやすかった。
その分、時雨に必要なのはそれだけだと言われているような気がした。
「その研究とやらについて、もう少し書いてくれてもいいのでは?」
どれほど甘い言葉を弄したところで、紗々が結局自分を道具としてしか見ていないのだと思い知らされる。
「癪に障る方ですね、本当に」
これはビジネスだ。雇い主のことをあれこれ知る必要はない。だが、あの薄っぺらな愛の言葉に腹が立った。
「恋の病など、面白くもない冗談を織り混ぜて……」
ちょっとした意趣返しのつもりで、時雨は紗々について調べることにした。
ノートパソコンを膝に置き、検索ワードを打ち込む。
「絆紗々、心理学……、と」
もしある程度実績のある人間なら何か出てくるはずだ。出てこなければ、そのことで嫌味の一つでも言ってやろう。
検索結果の頭に出てきたのは、市内にある晴空大学のホームページだった。
「晴大ですか」
そこは時雨の出身大学で、偏差値もそれなりに高い。
クリックをすると、表示されたのは講師の一覧ページ。その中に、絆紗々の名は確かにあった。
「専門は犯罪心理学……、現在休職中?」
書かれている情報はその程度だったが、時雨は首を傾げた。
「休職の理由は体調不良でもないでしょうし」
紗々のことを思い出しても、至って健康そうな姿しか出てこない。
そこで時雨は我に返った。
――あの人の術中にはまっていますね……。
そう、あんな人間のことなど気にしないのが一番なのだ。
あくまで雇い主と殺し屋の関係を貫き通すなら、無関心でいることが大切。それをわざわざ調べてしまった自分に嫌気が差す。
このことを知れば、きっと紗々はこう言うだろう。
――そんなに私のことが知りたいとはね。嬉しいよ。
それをどんな表情で口にするか易々と想像できてしまい、時雨は溜め息をついた。
「仕事に、集中しましょう……」
時雨はパソコンの電源を切ると、もう一度木戸の情報に目を通すことに決めた。
「連絡ありがとう」
二日後の夜、紗々はにっこりと笑い時雨に向かって手を上げた。
「仕事ですから、当然です」
二人が今いるのは住宅地から離れた空き地だった。
ここは木戸が会社帰りに通る道に面している。丁度良いと言えるだろう。
「貴女はただ、見ているだけなのですね?」
念の為に確認しておく。もし予想外の動きをされ、人質にでも取られたら厄介だからだ。
「うん、観察させてもらうつもり」
「そうですか」
本当に、何が目的なのかと内心で首をひねる。
しかし、好奇心は猫をも殺すと言う。余計なことに首を突っ込むものではない。
そう自分に言い聞かせ、時雨は息をつく。
集中しなければいけない。殺さずに倒すとなると、致命傷にならない程度に重傷を負わせるか、戦意を喪失させるか……。
「来た」
紗々が小さな声で告げる。
写真で見た男が、夜道を歩いてくる。
時雨はすぐさま木戸の前に立ち塞がった。
「誰だ、君は」
木戸は訝しげに問いかける。
「現代の切り裂きジャックですね?」
質問に質問で返すと、木戸の顔が忌々しそうに歪んだ。
その反応は、イエスに等しい。
「私は、殺し屋ですよ」
時雨がやっと問いに答えると、木戸は歪んだ顔で笑った。
「君が誰であろうと、知られたからには殺さなければいけないな」
まるで手品のように、木戸の右手にナイフが握られていた。
時雨も白衣の裏から数本のメスを取り出す。
月の光で、互いの得物が光った。
それを見つめる紗々の目もキラリと光る。巻き込まれないように、しかし二人の戦いがよく見えるように、空き地の隅に立っていた。
木戸はそんな紗々にちらりと目をやった。
「彼女は?」
「ただの野次馬です。無視してくださって結構」
「じゃあ、君を殺したあとに始末する」
木戸は一気に時雨との距離を詰め、ナイフを突き出した。
時雨はメスでそれを弾く。
一瞬の隙ができた木戸の頬を、時雨の手元から飛んだメスが掠めた。
木戸は「ちっ」と舌打ちをすると、一歩退く。
「確かに強い」
時雨はぽつりと呟いた。
先手を取らせるつもりはなかったし、投げたメスも深手を負わせるつもりのものだった。
木戸はもう一度時雨に向かって踏み込む。
速い動き、ナイフ捌きも慣れている。
「しかし所詮、貴方はアマチュアなんですよ!」
時雨は木戸のナイフを右に避けると、両手に四本ずつ握ったメスを一斉に放った。
「くっ!」
木戸はとっさに目を瞑り、腕で顔を庇う。
その腕と膝を、メスが切り裂いていった。
「貴方の殺気は、恐れるに足りません」
時雨はそう言うと、木戸の胸にメスを突き付けた。
ほんの一瞬、木戸の目に怯えの色が宿った。
木戸は生まれてこの方、父親に会ったことがない。
母は女手一つで木戸を育てた。――そう言えば聞こえはいいが、ただ放っていただけだった。
木戸は必要とされ、愛されて生まれたわけではない。売春婦だった母は客の子供を身籠り、中絶する金が無いから木戸を産んだのだ。
そう本人から告げられたのは、物心がついてすぐのことだった。
母の愛情などという物は無い。無関心、それが全てだった。
狭いアパートの一室に男を連れ込む母が嫌で、木戸は子供の時から夜になると散歩をしていた、
そんな散歩中に、偶然拾ったナイフ。
その時、母を殺すという気持ちが生まれた。
しかしまだ殺意という程には育っておらず、ただナイフを所持するだけで満足していた。
そのまま木戸は成長していく。
もやもやとした気持ちが恐ろしく、木戸は高校を卒業すると共に家を出た。
それから数年の時が経ち、母のことなど忘れかけていたある日のことだった。
「金を貸してちょうだいよ」
訪れたのはやつれた母だった。
何でも男に病気をうつされたが、病院に行く金がないらしい。
「帰れ、死んでしまえ」
木戸はそう言って母を追い返した。
それから数か月後、母が死んだことを知った。
木戸は後悔した。
何故自分の手で母を殺しておかなかったのか、と。
行き場のない殺気は暴走し、悪霊のように木戸に憑いた。
そして生まれたのだ。母の面影を求め、売春婦ばかりを切り裂く殺人鬼が。
「何が、アマチュアだ……」
木戸の声が震える。
「僕には理由がある! お前らみたいに金で人間を殺すような俗物とは違うんだよ!」
叫び、一歩下がってナイフを握り直す。
しかし、時雨の動きの方が速かった。
放られたメスがナイフを持つ手に刺さり、凶器を取り落とさせる。
そして一陣の風のように木戸の眼前に踏み込み、メスを首筋に突き付けた。
「プロの殺気を舐めないことです」
時雨の瞳に闇が宿る。それは底無し沼のような殺気。
「う、あ……」
木戸の動きがピタリと止まる。時雨の殺気が蛇となり、彼に巻き付いたかのように。
「くそ……」
時雨がメスを仕舞っても、木戸は動けずにいた。
彼は時雨の殺気に圧倒され、殺意を削がれたのだ。
ナイフを拾うこともできずに、木戸はその場に座り込んだ。
「終わりですね、これで」
時雨はこちらに歩いてくる紗々に向けて言った。
「うん、彼は君の圧倒的な殺気を前にして萎縮し、飲み込まれてしまった。もう、木戸に人は殺せない」
紗々はそう言うとスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかけ始めた。
「ああ、うん、終わったよ。警察に連絡しといて」
それだけ通話口に告げると、紗々は時雨を見た。
「分かってるじゃないか、君。殺人鬼の倒し方」
「はあ?」
「殺人鬼は強い。肥大した殺意に飲まれ、人間を辞めた鬼だからね」
――人を殺す鬼、殺人鬼……。
紗々は魂でも抜けたように座り込んでいる木戸を見下ろした。
「彼らを人間に戻すにはどうすればいいか。――その殺意を削いでしまえばいいんだ。大きく、絶対的な殺気でね」
「その殺気を持つのが、プロの殺し屋というわけですか?」
時雨の問いに、紗々は頷く。
「殺気は殺意の表現。どれほどの殺意を内に持とうと、アマチュアがプロの放つ殺気に勝てるわけがない。君みたいに研ぎ澄まされた、絶対的な殺気を持つ殺し屋の前では、屈服するしかない」
「それが、貴女の研究ですか」
「うん、殺人鬼を人間に戻す研究。出だしはばっちりみたい」
紗々の笑顔はこの状況には似合わぬ爽やかなものだった。
「じゃあまたね。これからもよろしく」
そして軽く右手を上げ、去っていった。
「これからも、とは……?」
聞き返すのも嫌になり、少し考えた後時雨はスマートフォンで呉羽に電話をかけた。
数回のコールの後、「もしもし」と呉羽の気怠げな声がする。
「呉羽さん、貴方、私を売りましたね?」
時雨は怒りを隠さず問いかけた。それこそ、殺気立った声で。
「お、おう。すまねえな。断り切れなかったんだよ」
呉羽の声が焦りを帯びる。
「いくらですか?」
「ご、5500万……」
「五百万上乗せされたわけですね」
「悪い、これからはあいつから仕事を受けてくれ」
「私の取り分は何割ですか?」
「いつもどおり七三で」
「3850万ですか」
即座に計算し、時雨は唇を噛む。
「人生を売るには、安い金額ですね」
そう言って、一方的に電話を切った。
「まったく……」
時雨が溜め息をついたころ、パトカーのサイレンが響き始めた。
溜め息をつき、時雨は自宅に帰る。
今日は夜景を眺めながら晩酌でもしよう、そう考えながら。
1505室のドアノブを握ると、カチャリと開いた。
――何故、開いているんです……?
時雨は右手にメスを握り恐る恐るドアを開けた。
「やあ、おかえりなさい」
紗々が、出迎える。
「はい……?」
「いや、お帰りって」
「ここは1505室ですよね?」
「うん、そうだよ」
時雨は頭を振った。悪夢なら覚めろと言わんばかりに。
「どういう、ことですか……?」
「ああ、上乗せした500万は家賃代わりだから」
「それで私が納得するとでも? それに、私を性的な目で見ている方とは同居できません」
時雨がそう言うと紗々は首を傾げたが、すぐに笑った。
「大丈夫、私は手に入ったものには興味が薄れるタイプだから」
「それなら安心ですね……、ってなるわけないでしょう!」
しかし彼女もプロだ。金が支払われている以上、契約を守らねばならない。
「ああ、もう!」
時雨はらしくない荒い声を上げ、運命を受け入れた。