乱声・二拍──欲触愛慢明妃の蓮華(拾)
さて、そうやって敏平が悶々としていた頃。とうとう覚如が山階に現れた。
覚如は娘を見るなり、絶句した。
娘はすっかり髪が腰まで伸び、それをふっさりと垂らしながら、琴を膝にのせていた。
その琴は、軒に晒して風化していたものとは別物と見紛うばかりに美しく修復されていた。絃も新しく張り替えられ、指を絡めれば、そこからはなかなか綺麗な音色が出てくる。
娘は長いさがりばを琴の上にのせ、拙いながらもそれをかき鳴らし、首をやや傾げ、その音色の中に愛しい人の姿を見出したように、幸せそうな微笑みを浮かべていた。
「ななんとしたことか、その姿は……」
だが、次の瞬間である。父はもっと信じられないものを目撃する。
「お帰りなさい」
そう言った娘が膝の上の琴を退けると、何と腹が、水がたまった病人のように巨大化していたのだ。
「こ、こここ……」
父には目の前の光景が受け入れられない。
錫杖を振り回し、鉄火の如く怒るかと見れば、脱力しきってしまっている。髪を掴んで引きずり回し、その髪をそのまま切り落とし、腹を蹴って堕胎させるかと思ったが。
意外に父親というものは、いざという時何もできなくなる。ただおろおろと、獲物を奪われた獣のように、のそのそ歩き回った。
一体何がどうしてどうなって、何処の何者が押し入って、こんなことになってしまったのだ。穢れなき筈の娘が、どうしてこんな姿になってしまったのだ。
娘というものは清女なのに。
「私は還俗して子の母となりますから」
頭を殴られたみたいに茫然としている父へ、さらに娘はそんな破廉恥な言葉を浴びせかけたのだった。
丁度そこへ、一人の女が訪ねてきた。女は戸口に立つなり、いきなり、
「できてしまったものは仕方がない。ここまで腹を育ててしまったのだから、産むより他に道はない」
と、嘲るような口調で言った。
覚如がきっと振り返ると、煌びやかな装束を身に纏った女が、勝ち誇ったような顔をして立っていた。
「……あ?」
その女の顔を見て、覚如の様子がみるみる変わる。
女の眼光は実にいやらしい。じと、と覚如を見ている。
娘は、父がこの女に見殺されるのではないかと思った。
その粘着質な眼のままで、女は刺々しい声を出す。
「久し振りよのう、義晴。もう呪師は舞わぬのかえ?」
「こ、小右京の君……」
「ふんっ、よくも今日までぬけぬけと生きて来られたものだわ。探したぞ。こなたを殺しに来たのよ」
戸口の女は小右京。師道朝臣家の若水の伯母その人である。
覚如はぎょっとしたように、身を縮めた。娘もとっさに、父を庇うような格好となる。
「どなたかは存じませぬが、父を殺すなど、どうしてそんな穏やかならざることを口になされますのか」
そう言われて、小右京は自然、娘の面に注目する形となる。が、見た瞬間に愕然となり、そのまま呆れたように、娘の顔をただ見ていた。
「父が、あなたに何をしたというのです?」
重ねて言う娘の顔を、さらにまじまじと見つめ、小右京はやっと言った。
「義晴、いや、覚如を父とは……この娘は真に覚如の子なるかえ?」
「いかにも我が娘」
覚如がそう答えると、小右京はさらに怪訝そうな顔をした。
確かに目の前の娘の腹は大きい。孕み女へ問う。
「では、左大臣家の某という琴士の女というは、こなたか?」
「ええ、そうです」
「さてもあやしや。不思議なこともあるもの。双子というは、同じ顔をし、同じ声をし、性情も同じものにて、この世に同じ人間が二人いるようなもの。だというのに、こんなにも似ていないことがあるものか……」
「小右京の君っ!」
覚如が遮って窘める。
「何や?こなた、娘を生まれながらに畜生道を歩む者とて、無理矢理出家させたとかいう噂であったが、肝心の畜生である由縁を、未だ聞かせていなんだのかえ?」
小右京は睨みながら、未だ娘に双子であることを告げていないことを、嘲笑った。
「双子って何のことです?」
娘が聞き咎めるのを、
「おもとは知らんでよい」
と、覚如。
だが、
「教えてやろう」
と、小右京がよく動く舌を調子よく回転させてしまった。
「この男はかつて義晴というて、猿楽師だったのよ。我が姉と密通して、姉は身ごもってしもうた。姉の夫君はお怒り遊ばし、やがて生まれた罪の子を捨ててしまわれた」
ここまで言うと、自嘲するような表情になった。
その表情のまま、続けた。
「この罪の子というのが驚くなかれ、双子での。こなたが覚如の娘であるというならば、こなたにはいま一人、双子の姉か妹がいる筈よ」
「そんな……」
娘は仰天した。無理もない。
覚如、観念して、
「実は、いま一人の娘を探して、各地を巡り歩いていた。修行とは表向きのこと」
と告白した。
ところが、ここで小右京が変なことを言い出した。
「探すには及ばぬ。そのいま一人の娘は、私が赤子の時からこっそり育てておる故。姉の夫君が捨てておしまいになったのを、どうにか一方だけは見つけ出せたので、姉に代わってこの私が育てたのじゃ。福生と言うて、今も私の家にいる。ところが、双子ならば福生と生き写しでなければおかしいのに、どうしたわけか、こなたはちっとも似ておらぬの。まことに我が姪か?覚如の娘か?」
「何ですって。そんな馬鹿な!」
覚如は驚いた。我が子と信じてきた娘が他人かもしれぬということなのか、いま一方の娘を小右京が育てていたということなのか、どちらをして「馬鹿な!」と思ったのかは不明だが。
狼狽しつつも、覚如は反論する。
「……私は確かに、この子を引き取った時、双子だと聞いたのだ。この子を悪相御前から預かったと、その人は言っていた……おもとも覚えているだろう?おもとを私に預けた人のことを。私がおもとを引き取るまでの間、ずっとおもとを育ててくれた人だ」
覚如は途中から娘に話しかけた。娘は答える。
「ええ、勿論覚えています。懐かしいです。私をとても大事に育てて下さった方ですもの」
「しばし──」
そこで割って入って、小右京が話を整理する。
「つまり、我が姉・悪相御前から、ある人が童女を預かった。その人が姉に代わってその子を育てた。やがて、その人から覚如はこの子を渡された。双子だったと聞かされて。それで覚如は我が子だと思ったわけよの?」
「いかにも。悪相御前の手にあった女の赤子。それが双子ならば、間違いなくかの人と私の子だ」
「なんと!」
小右京はそう言うなり、娘の顔を穴のあくほど見つめた。とてつもない期待とともに。
「一つお尋ね致しますが……」
急に言葉も慇懃に、娘へ問う。
「御事を育てていたという人のことは、よく覚えておわしますのでしょう?」
「勿論です」
「どちらの何という方です?」
「さあ。そればかりは。聞こうとしても、逆に隠すようなご様子でしたから。でも、監とおっしゃる方でしたよ。私はいつも、監の君と呼んでおりました」
「ああ、それでは!」
小右京は天のご加護を思った。感謝してもしきれない。
「御事こそ、輪台青海波の御兄妹。輪台の君にておわします。監の君の主であらせられた忠兼朝臣の姫君。経王御前とは、まさしく御事にございます」
天に向かい、娘に向かい、幾度となく拝礼する。
「私はかつて、韶徳三位殿という琴の天才にお仕えしておりました。忠兼朝臣はその兄君。御事は三位殿の姪君でいらっしゃいます。青海波の若君は御事の兄君でございます」
そう言って、小右京はいつまでも面を上げようとしなかった。




