乱声・二拍──欲触愛慢明妃の蓮華(玖)
東国に大きな変化が訪れていた頃、都の山階の尼の腹は大分目立つようになっていた。
父になるという実感からか、覚悟からか。最近になって敏平は改心した。つまり、少しずつ琴に取り組み始めたのである。
新しい弟子を持った。
東の御方とて、和琴の名手の誉れ高き人である。今は仙洞の女房。和琴血脉にその名が記されている。
その演奏を耳にし、敏平は目が覚めた。一からやり直そうと思ったのだった。
東の御方の出現は、明星にとっても有り難いことであった。
東の御方は仙洞の女房。明星は太皇太后宮の半物。二人はもともと顔見知りだった。
師の敏平の改心はよいことだが、なお女に狂って、頻繁に山階に赴くのは困ったことであると、二人はしばしば言い合った。
とはいえ、東の御方の出現が敏平を改心させたのだから、敏平は彼女に感謝するべきである。明星はそう思っている。
音仏は敏平に女ができたことは察していたが、若君へのお勤めは果たしていたので、知らぬふりをしていた。よって、若君の母である兵衛の君にも右大将殿にも、女のことは知られていない。
だが、とうとうその日は訪れてしまうのである。
それは、東の御方と明星の稽古の日であった。
敏平はその日、朝まで山階にいた。彼女達の稽古の時間は午刻少し前からだった。敏平は急ぎ嵯峨に向かっていたが、彼女達の到着は約束の時間よりやや早かった。
東の御方、明星の二人は相乗りでやってきたが、師の不在を知り、
「また山階かしら」
「困ったこと。どんな女だというのでしょう。師は、恋というより、溺れているのですわ」
などと囁き合っていたのであった。後ろの引き戸の裏に、人がいるとも知らないで。
二人の話を、思いもかけず立ち聞きする羽目になってしまったのは、右大将殿の異母弟の権少将師道朝臣だった。師道朝臣は音仏の琵琶の稽古を受けにやってきていたのだった。だが、音仏のお勤めがまだ終わらないので、こちらに控えていたのである。
そうとも知らずに、彼女達二人はなおも噂し合ってしまった。
「聞けば、その女は懐妊しているとか。師はどうするつもりなのかしら」
「女の父は旅の僧で、師の君と女との仲は知らないとか。今のうちに女を盗んでこようと、画策しているそうです」
「でも、盗んで何処に匿うつもりなの?師の母堂にも、その女とのことは内密にしているのでしょう?」
「ええ、右大将の殿にも。ですから、こちらの御邸に匿うこともできませんね」
「大変」
「とにかく師の君は、母上に知られないよう努めるので精一杯」
「母堂は鬼みたいな人だものね」
「女の父も恐ろしい人だそうですよ。覚如とかいうそうです」
覚如というその名に聞き覚えがあった。
「やあ、おもと達。今のお話、もっと詳しくお聞かせ願えないかなあ」
ぬっと物陰から出て、師道朝臣は二人に陽気に話しかけた。
きゃっと女房どもは驚く。
「し、少将殿っ……」
「すみませんね。全部聞かせて頂いてしまいました」
「ま、まあ……どう致しましょう……。嫌ですわ、はしたなくも」
東の御方はあたふたした。
下世話な女だと呆れられたに違いない。恥ずかしいことよと、消えてしまいたい心地だった。
師道朝臣は花形の若公達。先の院七十賀では『青海波』の舞人もした、清らなる人である。女房達の憧れの的であるこの公達に聞かれるのは、余りに不都合な話題だった。
明星もすっかり顔を赤めてしまっている。
「驚かせてしまったようですね。申し訳ない」
一応師道朝臣は謝ったが、やはり二人の話には興味がある。
「その覚如というのは?」
と、重ねて尋ねた。
「……は、はあ……」
明星、答えるしかなく。
「……何でも、山階の辺りに住む法師だとか。一人娘があって、その娘が生まれながらに大罪を負っているとか申して、嫌がる娘の黒髪を無理矢理切ってしまったとか」
「随分むごい父親ですね。いったいその娘にどんな罪があるというのでしょう?」
「さあ、そこまではわらわも。ただ、その罪の業から少しでも救われむと、諸国行脚しているそうです。もとは楽人であったとかいうことですが、娘の母が全く不明なので、もしかすると娘の罪というのは、この父の俗世に何かがあったのではないかと」
「覚如の娘が身ごもっているというのは?」
「はい。事実でございます」
「腹の子の父が敏平なので?」
「はい……」
「それはまずい」
明星らの案じ顔とは異質の表情で、師道朝臣は眉を歪めた。
男にしては透き通り過ぎている白い顔が、くすんで見える。
「……覚如が、もとは楽人……」
「少将殿?」
もはや内密にはできぬと師道朝臣は思った。察して、東の御方、
「どうか右大将家にはご内密に。師が気の毒です」
と、自分の告げ口が原因で、敏平が叱られるのを恐れた。
「いや。何れは露見することです。その女はやがて子を産む。そうなれば敏平とて、それを隠し通せますまい。兄には申さねばなりません」
「そんな……」
「決しておもと達の落ち度にはしません。おもと達から聞いたとは申しませんから」
「……」
その日の夜。
余り睦まじいとは言えない右大将殿ではあるけれど、敏平という稀少な人間のためなのだと思って、師道朝臣はそっと異母兄に耳打ちした。
「なに!?」
未曽有の災難に遭った人でもあるかのような右大将殿の反応の仕方であった。だが、しばしの動揺の後は、いつもの冷静な彼に戻って、
「よいか、努々他言はすな。殊に讃岐の耳には入れるなよ。敏平のことは私に任せておけ。女はおことに任せよう」
と、口止めした。
その後、右大将殿が敏平を召して叱責したのは言うまでもない。
「その女とは手を切れ。子のことは私が何とかしてやる」
「殿……」
「何も言うなよ、何も聞かぬからな」
主君はそう言うが、従える話ではない。首斬られても、かの女を捨てることなどできない。
「恋人がならぬというなら、友でも妹でもいい。何としても彼女を救ってやりたい、助けてやりたい。ただの友でもいい、守ってやりたいのです」
「目を覚ませ。それは女ではない。尼だ。無限地獄に行く気か?おことは天下にただ一人の琴灌頂者だ。我が妹の遺言忘れたか?おことはただ人ではない。こんなくだらんことで、天よりの使命を台無しにするな。おことの人生はおことの自由にはならん。それが灌頂遂げし人の宿命ぞ。万人の幸福はおことの幸福ではない。恋をし、子を持つという、人並みの小さな幸福など、大業を成し遂げるべき偉人にとっては、露ほどの価値もなきことぞ」
敏平の思いを完全に認めぬ右大将殿である。いくら敏平に、天より使命が与えられているからとて、ここまで否定されなければならないことか?
一方の師道朝臣は帰宅すると、女房の若水を召し出した。
「おもとの伯母なる人が捜しているという宿敵の名は、覚如でよかったのだな?」
思いもかけぬ問いに、若水は驚く。
「いかにも覚如ではございまするが……我が殿にあらせられましては、何故……?」
「その覚如、もとは伶人か?」
「伶人という程の身分でもなく」
「さりとて、音楽に関わりのない者でもないわけだな?」
「はあ。もとは猿楽師であったとか聞いておりますが」
「それよ、間違いないわ。覚如の娘には、生まれながらに罪があるという」
それを聞いて、若水の顔色が明らかに変わった。
「心当たりあるな」
師道朝臣は顎をさする。
「伯母なる人は、今何方に?」
「都の外れの、宇治へ通じる道の途中のあばら屋におります」
「すぐ呼びにやれ」
「はい」
若水、恭しく頭を下げた。
右大将殿に何と言われようと、敏平には産み月間近になった女を捨てることなどできなかった。
だが、右大将殿に咎められ、余り頻繁に通うこともできない。また、琴を疎かにはできないという覚悟もある。
最近は山階よりも嵯峨にいることの方が多いかもしれない。
琴の練習量は多い。挫折を知らなかった頃と同じ位だ。熱心に毎日長時間取り組んでいる。しかし、どうしたことか、近頃はちっともうまくゆかなかった。
一つがうまく行かない時は、芸の道も滞る。私生活で力を使い果たし、芸道にまで能力が回らなくなってしまうのか。
女とは、恐ろしいものだ。
尼は妖婦でも悪女でもない。平均的な善良人だが、女だというだけで、こうも恐ろしい結果を齎している。凡婦も傾国になり得る力を持っているのだ。
英雄色を好むとは言うが、男という生物が女を好むことは、人間が生物である以上どうしようもないことだ。そうでない方が、人間ではないということにもなる。その人間の、いや生物の根本を突く策だから、美人計という最も効果的な策もあったわけで。歴史の動く時には、いつも女の妖香があった。
それは何も美人に限ったことでも、また、英雄だけの問題でもない。凡婦も匹夫も同じこと。
たとえ美女でなくとも、その男にとって最高の女であるならば、男はその女に溺れる。全てを見失い、果ては破滅する。
そういう恐ろしいものなのだ、女というものは。女に夢中になるということは。恋というものは。
この今の状況は、琴士としての敏平の危機だ。どうにかせねばなるまい。
恋をしたとて、練習を怠らなければ、芸の道には支障はない筈。しかし、この不調はどうしたことか。私生活の乱れは芸道の乱れにも繋がるというのか。
どうして、伝説の琴聖・政任朝臣が生涯独身を誓い、女を知らずにいたのか、今なら納得できる。美しかった師・清花の姫君も。
恋人や妻、夫ができると、気が分散して、琴だけに集中できなくなるからだろう。
恋とは煩わしき、芸道を妨げるものなのだ。
琴を弾くだけの生活、人生だった政任や亡き師には、不要なもの、悪いものだったのだ。琴を弾くためだけに生まれた人にとっては。




