乱声・二拍──欲触愛慢明妃の蓮華(参)
翌日は快晴。やはり朝のうちは風はなく、気温はかなり高くなった。春にしては暑い。
戦線離脱していた経実は、ようやく宿から出て、近くの川で体を浄めていた。
この辺りは少し内陸に入ると、渓谷になっており、滝もある。
気温は高めとはいえ、まだ春である。川に入るのはさすがに寒い。
吉祥は宿で沐浴を勧めたが、経実はそれでは物足りなく感じた。
これから戦に加わろうというのだ。川に入って、その冷たい水で気を引き締めたい。そんな気分で、吉祥に、
「お風邪を召したら、何となさいます」
と言われたのも聞かず、川に浸かっていた。
辺りを屏風等で囲わせ、外からは見えないようにしている。中に入れるのは吉祥だけ。他の近衆は少し離れた所に控えていた。
その理由は皆、暗黙のうちにもわかっている。わからぬのは、新参者の平五くらいだろう。
「おい、平五。殿のお脱ぎになった御衣を持ってこい」
古参の近衆に言われて、平五は水浴びする経実の近くまで行ったが、囲いの側までは近寄れない。どうしたものかと思っていると、丁度経実が川から上がるところであった。
水から出た経実の姿が一瞬見えた。
平五は我が目を疑った。何か間違っていやしないか。平五は一瞬のこと故、見間違ったに違いないと、目を擦った。
経実は単衣を着たまま水に浸かっていたのだが、衣が濡れたために、その肌が透けて見えたのだ。
平五の見たもの。それは眩しいばかりに美しい女の肌。体の線もまさしく女人のものであった。
まさか。経実が女体なわけがあるものか。平五は主の鮮烈な美しさを一笑した。幻を見たのだと、愚かな自分だと。
一方、平五がそこにいるとも知らない経実は、囲いの中で、悠然と濡れた単衣を脱いだ。全裸のその肌は真珠のように白く艶やかで、美女の妹に少しも劣らぬ。
すぐさま吉祥が、その薄い肩に五衣を掛ける。そして、その胸に丁寧にさらしを巻いていった。
己の体を吉祥の手に委ねながら、経実はさばさばしたように、
「ちと寒いが、さっぱりした。気持ちよい。しっかり巻いてくれ。益々気が引き締まる」
と鮮やかに笑った。
吉祥は無言で巻き続けていたが、ふと眉を寄せた。
「こんなにお綺麗でいらっしゃるのに。女人の姿に戻られたら、殿方に愛されたら……」
「おい。わしは男だぞ」
「……ええ。そうですね。でも、辛うございます」
「言うな」
経実は目を閉じた。
「でも……女人の衣をお召しになりたいことはありませぬか?化粧を、唇に紅をさしたいとは思いませぬか?綺麗に着飾る女どもを見て、羨ましくは……」
言いながら、涙が滲んできた。
「吉祥……すまぬ」
「おいたわしゅうございます……こんなにお美しい胸も潰して……殿方に愛されることもなく……」
「言うたであろう。わしは男だ。心から。……おもとは好い女だな。わしを気の毒に思って、おもとまで男を絶っておるとは。だが、そんな忠義はわしも苦しいぞ。おもとは早よう婿を貰うてくれ」
「いいえ……」
困ったように、経実は吐息した。
そうしている間に、男の体は出来上がり、経実は単衣まで羽織って、次に髪を梳いた。それも吉祥の手に委せる。
「……そうだな。いつかは女になりたいな。いや、改めて思い知ったわ。この身は男なりと信じても、体が言うことを聞いてはくれぬ。心を如何に男としても、体は女のままなのだ」
やがて、素直にそう言った。
吉祥は櫛を止めない。
「お心もお体も、本当は間違いなく希姫君でいらっしゃるのに……」
「そうだな。どんなに経実になったとて、真実は女であること、どうにもならぬ。かように不便を強いられて。だが、自分で決めたことだ。妹の希姫君は死んだ。経実は生きている」
「わらわには、そうやって生きておいでの殿が痛々しく存じます。男をやるのは辛いと泣き言を仰っていた頃よりも、女を捨て、希姫君を殺して、殿として生きられるようになった今の方が、弱々しい」
言われて、経実はふと一瞬、女の表情に戻った。
「……無茶なのかな。女だからな、わしは。……弱々しいか。だから、おもとは戦場にまでついて来てくれるようになったのか?」
「はい。でも、実際、今回のような時、男しかいないのはお辛いでしょう?」
「うむ。誰もわしの苦痛は理解できないからな。おもとがいてくれて、本当に助かっている。吉祥、おもとにだけ言う。正直、辛い。だから、これからもおもとに甘えてよいか?」
「嬉しゅうございます」
吉祥は心からそう答えた。
そうしているうちに、髪も整っていく。
経実は鎧下着を着始める。
「吉祥。一つ頼みがある。わしはそのことで苦しいのだ。わしを気の毒に思うなら、聞き分けてくれ」
「何事でございましょう?」
「他でもない、おもとのことだ。おもと、わしが気の毒で、女の幸せを捨てているだろう?それは有り難いが、正直辛い。おもとは女として生きられるのだから、婿を貰え。女として生きられぬわしの分まで、幸せになってくれ」
「……」
吉祥はいやだと言いたかったのだが、経実の気持ちがわかる故に、そうは言えず、わざとふざけた返答をした。
「三十路ですよ、わらわは既に。何を今更」
吉祥は本物の経実の乳母子であり、希姫君の乳母子ではない。故に、今の経実よりも年長である。
「まだ遅くはない。子も産めようぞ。四十過ぎて子を産む女もいる」
「でしたら、殿が娶って下さい。妾でけっこうですから」
「なんだ?」
経実は吹き出した。
「頭が痛い」
「年です」
「何だと?水に入ったからだ」
「いいえ。わらわも、二十歳を過ぎてから、障りの終わりに頭痛するようになりました」
「あ、そ」
からから笑った。吉祥も笑う。
「おもとみたいなのを妾にか……頭痛の種が増える」
そんな二人の戯れ言を、囲いの外で聞いていた平五は、あまりのことに泡を噴いていた。
正午過ぎには、経実は本陣に到着していた。
「すまぬ。迷惑をかけた」
先ず皆に頭を下げ、次いで雲門入道を労った。
早速軍議となった。
「教理は砦に籠もりきりです。奇襲もあまりうまく行きませぬ」
三郎がそう言った。次に雲門が。
「十二安を潜らせたるところ、教理は援軍を待っているようにございます。援軍が着き次第、砦から出てくるでしょう」
「総攻撃をかけてくるのは、ここか?」
「はっ。奴なら手前の城どもには目もくれず、こちらにやって参りましょう」
「援軍到着はいつになる?」
「明日かと」
「明日か……」
経実は外を見た。
「明日は雨だ。明後日にしろ。勿来近くの城にも陣を張れ。明日、奴が向かってきたら、阻止しろ。本陣に攻め込ませるのは明後日だ。そうだろ、禅円?」
傍らの入道に問う。
「御意」
禅円入道はそう答えた。
「よし。雲門、さっそく行け!」
翌日はやはり雨となった。はじめは湿り気もあったが、次第にからりとしていく。風もあった。
大乘党の援軍が到着したのは、午後早く。さっそく夕方には砦を出て、攻撃を開始した。
しかし、法化党の雲門らの軍勢に阻まれて、なかなか本陣へは近づけない。
経実は本陣の朱雲城から出ず、じっと構えている。
そのうちに、風雨も強くなった。戦い難い。
大乘党の援軍は長旅で疲れてもいるし、夜に入って間もなく、一旦戦は休みとなった。
大乘党は五浦からやや内へ入った所にある砦に本陣を置き、法化党はそこから半里もない所に陣を築いた。




