乱声・一拍──幽人敏平(漆)
雨はやんでいた。
山階へ向かう途中は、竜巻の被害により荒れた家々も散見したが、前右大臣殿の邸は幸いにも逸れたらしく、無傷だった。
右大臣殿は余程大物なのか、さもなくば老いが進んでいるとしか思えぬ、訪ねてきた敏平に、
「ほ、辻風?何のことかの?この山中にては、いつも風の音を聞き慣れて、野分の音と聞き違える程であったよ」
と、至極平然として言うのだ。
この邸が竜巻の通り道よりずっと遠かったことは確かだろう。
些か拍子抜けした敏平ではあったが、使いの役は果たさなければならない。二位殿よりの文を手渡し、右大臣殿の返事を待った。
昔はきりりと隙の見えぬ人であったが、入道してからというもの、随分丸くなり、近頃では呆け呆けとすらしている右大臣殿である。
文を受け取り、返事を書くため奥へ入ったが、いつまで待っても出て来ない。もしや、奥へ入ったはいいが、何をするのか忘れたのではあるまいか。所在なさに失礼なことを思っていると、やっと右大臣殿が出てきた。
「ほれ、返しよ」
渡された文を頂いて、敏平はこの邸を退出した。
門を出たところで、何やら急に目の前が真っ暗になった。
何だと思って眼を擦ると、すぐ闇は抜けた。が、すぐ前に縦目の人面が見えた。
「わっ!!」
驚いて叫ぶと、ぱっと消えた。
何だ?
心臓がばくばく速い。手の中の冷や汗に、文箱がするりと滑る。
今一瞬見えたあれは、燭龍か?
こんな幻想を見るなど、竜巻に遭っておかしくなってしまったのではないか。
冷静にそう思う反面、何故か縦目の行方を知りたくなった。それが消えた方向へ、それを追うように歩き出す。帰るべき六条西洞院とは、まるきり正反対の方向である。
「確か、向こうの藪の中に消えた……」
木々を掻き分け掻き分け、山野に入り込む。
やがて、草木の茂るところを抜けて、少し開けた所へ出た。
彼方に庵が一軒ある。
「燭龍はあそこか?」
敏平は庵を目指した。
庵の戸口に再び縦目を見た気がした。
「あっ?」
凝視すると、それは古びた一張の琴である。絃なんぞ一本も見当たらないし、所々剥げてもいるが、確かにあれは琴である。
「どうしてこんなところに」
名器とは程遠い平凡な代物だが、それとて楽器を思う者なら、こんな軒下に立て掛けておいたりしない。風雨に汚れてかわいそうな……
敏平は何故だか無性に腹が立って、大声を上げたくなった。と同時に先刻の院中での己の余りに酷すぎる演奏を思い出しもしていた。すっかり竜巻に忘れていたが、急に思い出した。
あれは生き恥。このまま消えてしまいたい。全ての人の記憶から、自分の名と姿とあの演奏を消し去ることはできないものか。
思い出したくもないことを思い出し、益々狂気じみてくるのを、抑えようとも思わない。
「ええいっ!どうにでもなってしまえ!」
目の前の琴に石を打ちつけてやらんとした時、がたと庵の戸が開いて、一人の女が姿を現した。
尼そぎのその娘を見た途端、敏平の中に残酷な衝動が芽生えた。めらめら燃えたぎって抑えられない。
尼僧は十六、七か、いつ尼になったのか、それとも尼そぎしか知らぬ、髪をのばした経験などないのではないかと思える程若い。
敏平はそれすら気に入らなかった。こんな若い娘が何を世を儚みぶって、尼なんぞになったというのか。
それに、尼ならば女ではない筈だ。だというのに。何だ、この娘は。初々しい中にも女の色香を湛え、まるで男を乞う汚れた遊女のようではないか。尼のくせに、小娘のくせに、男を知り尽くしたいやらしい年増女の如き、この雰囲気は何だ。
「……あ、どなた?」
それでも女は小動物のように怯えて見せ、だが、流し目を送っている。
「これは、おもとのか?」
ぎらぎらした若い男の眼光に、女は乙女らしい怯え方をした。
「……あ、あの……」
「この琴をこんな吹きさらしに放置しているのは、おもとなのかっ!?」
敏平は女の態度に苛立っていた。何なのだ、乙女ぶって怖がって。そのくせ、求めてやまぬようなその眼は。
「ええ!?問うているに、何故答えぬ?」
敏平はばっと琴をなぎ倒すと、女の体ごと戸口の中へ押し入って、庵の床板に女を押し倒した。文箱を傍らに置き、そのまま女に襲いかかる。
「いや……」
女は一度だけかすかに身を捩って、救いを乞うたが、あとは抵抗もせず、されるがままに従っている。
何て娘だ。
小娘のくせに、熟女の肌みたいに男の肌に吸いつく、しっとりとしたこの肌理は。腰は。尼のくせに、自ら求め、全部受け入れてもまだ足りぬと言わんばかりのこの貪欲さは。
敏平が怒れば怒る程、女には堪らないものらしい。執拗に男を乞う。
「ああ、もう許して」
体とは裏腹な言葉を喘ぐ。
敏平もさすがに一時の情欲が満たされると、頭の中は冷静になってきて、この女のしつこさに呆れた。
「おもと、いったい幾つなのだ?何故、尼なんかに?」
やがて、敏平が身を起こすと、女はまだ食い足りないみたいに、憎そうに睨んだが、敏平はもう身繕いを始めてしまった。女を起こしてやり、衣を羽織らせる。
「私、尼になんかなりたくなかった。普通の女として生きたかったのです。でも、父が無理矢理私の髪を切って、尼にしてしまったの。おまえは罪を負って生まれてきた者だと言って」
女はそう言うと、さめざめと泣いた。
敏平はすっかりいつもの冷静な彼に戻っている。何ということをしてしまったのかという、後悔の念でいっぱいになっていた。まさに魔が差したとしか言えない。信じられない自分の行動。こんなことをしでかす性情ではないのに。
尼相手にとんでもない恐ろしい罪を犯してしまった。だが、目の前で泣く女を見たら、つい慰めてしまう。
「人は誰でも、生まれながらに罪を持っている。罪を持たずに生まれてきた者などいない。父君は清廉の士、潔癖な性分でいらせられるのだろう。人間の最も清らかな正しい道であるのかもしれぬ、人間の最善の生き方は出家だと、みどもも思う」
さっきは憑かれていたのだ。そう、あの縦目だ。あの縦目のせいで、血迷ったのだ。
敏平の心中を知らぬ尼は、なお涙を眼にいっぱい浮かべて、
「ね、どうか見捨てないで下さい。私を助けて欲しいのです。私を、俗世に連れて行って下さい」
と、媚びるように瞳を潤ませた。
面倒なと敏平は思った。
「使いの途中だった。もう戻らねばならん」
立ちかけた敏平の袖を、女はぎゅっと握り締める。
「明日、またいらして。明日も明後日も。暫くは父は不在なのです」
「……」
「お願いです、どうか」
「……父君と二人で暮らしているのか?」
「父は修行すると言って、諸国行脚の旅に出ております。今は下女二人と私の三人で暮らしています」
女は必死の眼を向け、訴える。
「私を仏の牢獄から出して下さい」
「……また、来る……」
敏平は女の手を外し、文箱を持ってさっさと退散した。
六条西洞院に着いた時には、もう夜も遅くなっていた。
「遅い!」
二位殿はしびれを切らしていた。一言文句を言ったが、
「叔父上はご無事のようで、何より」
と、文を見ると満足した。大きく頷き、それ以上敏平に小言は賜らなかった。
敏平はその夜、そのまま六条西洞院の邸に泊まった。
床に入っても、なかなか眠ることができなかった。何度も寝返りを打っては頭を振り、女のことを忘れようとした。
だが、いくら忘れようとしても忘れられない。何故か気になる。どうして気になるのかは、全くもって不明だが、どうしても気になって仕方なかった。
一晩中女のことを考えて、結局一睡もできないまま朝となった。
無性に女が気になった。
で、結局またあの山中の庵に通ってしまった。
尼は涙を流して喜んだ。何故かこの女は敏平を慕っている。
不思議に今日は可愛く思え、かけがえのない存在であるように感じた。この人を自分が守らなければならないと思った。だから、昨日とはうって変わって、まるで慈父のように優しく接した。
「おもとはとても大事な人だ。昨日会ったばかりだが、何故かそう思う。大切な尼公よ。みどもが終生お守りする」
そして、後朝の別離を惜しみつつ、敏平は夜明け前に六条西洞院へ帰った。
邸に着くと、庭の池を前に暫し佇む。
夢心地の彼は、乱れた髪を撫でつけたものが風に吹かれて再び乱れているのを、直すことも忘れてなお余韻に浸っていた。
背後に人影があるのも知らず、うっとりと暁の庭の池水を眺めている。その水面に背後の人の面が映るのと、声をかけられるのとは同時だった。
「おい、敏平。随分早起きだな」
朝風が起こす池水のさざ波の間に映る面は、妖艶な中宮亮のものだった。
わっと慌てて振り返り、敏平は頭を下げた。
「何をそんなに慌てている?おことは本当に慌て者よな」
中宮亮は半ば呆れ顔にそう言ったが、俯いている敏平の、うるんだ瞳とうっすら染まった頬とを覗き見て、
「あ。はあん」
と、独り合点に頷いた。ほくそ笑んで、
「恋人の所にも大事な物を忘れて、それでそんなに慌てているのかな?」
と言う。
その言葉に反応して、ばっと顔を上げ、
「何を仰せられます!」
と、むきになって言い返してしまったのは、不覚であった。
中宮亮、ふふんと笑い、
「好色なる者として名高いこの身に、見抜けないとでも思うのか?その面は恋人通いで、後朝の涙を流した後の面だ。私の前で、そうでないと偽りを言うても無駄。私に見抜かれなくなるまでには、百年早いの」
と言って、からかう。
「……」
「なあに、案ずるな。あの生き霊みたいな恐ろしいおことの母上には、黙っていてやるから」
「……はあ……」
「いったい何処のどんな女なのかな。敏平の心を奪う女。興味が湧いてきたぞ。その女、私に献じよ」
「えっ!?」
あははははと、中宮亮はいつもの花の如き笑みも忘れて、大口開いて笑う。
「冗談冗談」
これが名うての好色家かと思う程に笑い崩れて、こんな姿、女君達にはとても見せられぬ。
「……思いきり本気でしょう」
敏平は口を尖らせた。
「いやいや」
ひとしきり笑った後、中宮亮は急に真面目腐った顔を繕う。
「だが、そんな新たな女の出現で、陰で泣いている者もあろうがの」
「は、誰がですか?」
「やれ、呆れたわ。まことに覚えがないのか。私の耳には、両日、恨み言が聞こえてくるがなあ」
何の話かさっぱり要領を得ない。敏平が首を傾げていると、中宮亮は本気で呆れた。
「私の背にすがって泣きよるぞ。よいのか?私が奪うてしもうても」
「え?」
「あれほど琴に夢中だったおことが。信じられぬ。琴以外の何にも興味のなかった敏平が。こはどうしたことぞ。琴を忘れさせる程、おことを夢中にさせるとは、その女、いったいどんな天女なのだろう。文王を打ち捨てて、捨てたことさえ忘れるほど、おことを夢中にさせるその女とは」
「文王っ!?」
言われて初めて気がついた。
「あっ!そうだ!文王!どうしよう!!」
取り乱して、凄い声を上げる。
「大丈夫か、おこと、声、ひっくり返っているぞ。少し落ち着け」
「落ち着けますか!仙洞に、仙洞に……」
院七十賀に、仙洞へ文王の琴を持参したのだ。だが、寨公を弾かされたから、文王は包みを解くことなく……
竜巻が起こって、何もかもわからなくなって、そのまま退出してきてしまったのを、今の今まで気づかなかった。
仙洞に文王を放置してきてしまった。
混乱極める敏平を、中宮亮、
「落ち着け。私の背を見てみい」
とくるりと背を向けた。
「へ?」
「文王がずっと私の背で泣きよるのよ」
「殿……」
へたとその場に座り込んでしまった。
中宮亮は文王を入れた袋を背負っていた。
「阿呆。こんな大切なものを置き忘れる奴があるか。辻風の後、仙洞へ急いだ私は、後の処理をしておったのだ。その時、庭の隅でこれを見つけて。文王だとわかったから拾ってきた。見つけたのがたまたま私だったからよかったが、他の人だったら一大事ぞ。おこと、命失うところぞ、この愚か者め。いくら辻風に驚いたからとて、命より大事な物を忘れるとは何事か。しかも今まで気づかぬとは。この両日、本当に一度も思い出さなんだのか?」
「は、い……」
「ほおお」
中宮亮、本当に呆れた。




