乱声・一拍──幽人敏平(陸)
この日。
巨大な竜巻が北の方から起きて、六条まで吹き抜けたのであった。洛内を疾走した後、小松谷の辺りに抜けて、どこへか失せた。
仙洞は丁度通り道だった。
左京の二条辺りは公卿の邸宅も多いが、そこら辺も通り道だった。故に、優雅を競う邸宅の数々も、見るも無残な有り様へと変貌していた。これでは家司どもや女房どもは勿論、公卿殿上人の中にも、多数の死者が出ているに違いない。
まして、庶民の無数のあばら屋たるや──。いったいどれだけの貧しい者の命が奪われたことだろう。
敏平は惨状の中を茫然と歩いた。
「あの名家も見る影もない……」
いや、それ以上に庶民の家は跡形もなく破壊され、中には、
「子供が吹き飛ばされた!そのままどこかへ飛んで行ってしまった。見つからぬ。どこへ行ったの?」
と、狂乱して我が子を探し回る母親の姿が、あちらにもこちらにも見られた。
泣き叫ぶ者。我が子を呼ばわる母。恋人の死骸にすがって泣く女。重体で動かない者。傷の痛みに呻くばかりの者。痛い痛いと泣きじゃくる子。壊れた家の瓦礫をせっせと退ける気丈者。家のあった場所が何もかも吹き飛ばされて、がらんと空き地になったのを、ただ唖然と眺めるばかりな老人。
そして、屍、屍、屍……。
もはや収拾のつかない街中。
その混乱の中を、瓦礫に行く手を阻まれながらも、駒を飛ばして主家に急ぐ武者や、家庭の惨状を後回しにしてまで役所に走る下級役人、もう職務を遂行している武官らが行き交うのも散見できる。
それらの馬上の人が巻き上げる砂埃に、うっと敏平は目を押さえた。それを、悲憤の感情から湧き出だす多量の涙が洗い流す。
目の中に入った塵はすぐ落ちたが、涙は止めどなく溢れ出し、止まらない。
「何てひどい現実だろう」
そう呟いた時、爪先にころと何かが当たった。何かなと下に眼をやると、人の腕のもぎ取られたものが落ちている。
「ひっ!!」
誰かの片腕を蹴ってしまったのだ。
返り血に、爪先が染まる。途端に頭の血がさっと引いて、意識が遠のく。
「ちょっと、あんた、大丈夫かい?」
ふらっと倒れかけた身体を、誰かお節介な人が抱きとめてくれたらしく、ぴしぴしやたらと頬を叩かれる。おかげで意識ははっきり戻った。
「あ」
「しっかりおしよ!大丈夫かい?」
「え、ええ。どうも……」
中年の恰幅のよい女だった。こんな時に、元気のよい──まるで、母のような女。
「あ、母?」
母という言葉を思い出すと、急に母のことが気になった。
母の讃岐は無事だろうか。
「わああん、母者。母者あ。母者が死んじゃったよおう」
すぐそこで、そんな叫びを上げて泣く子の姿があった。その子の傍らには、その母親らしき女の動かぬ体がある。
「あ、あ、母上っ!!」
敏平は急に走り出した。もし母の身に万が一のことが起きていたら。
その子が自分に重なり、その母親が讃岐の姿と重なって見え、敏平は六条西洞院へ急いだ。
「母上、母上。どうしよう。もし、母上が死んでたら……いやだっ、母上!」
韋駄天の舎利を追うが如く、敏平は走り抜けた。
さっきから雷鳴を聞いていたが、ついに雨が降り出した。それでも躊躇わず、走り続ける。
だが、途中まで来て、取り越し苦労と知る。
六条の辺りは、万里小路をぎりぎり掠めたらしく、その辺りの邸では、築地の崩れているところもあったが、高倉小路以西は被害がない。西洞院など、災害の気配すら感じなかったであろう。
雨に濡れる左大臣第の大屋根を目で確認した。雷光に照らされたそれは、傷一つない。
敏平はほっとしたのと同時に、全身脱力した。
兎も角も大北ノ方へ大臣の無事を報告せねばなるまい。
東中門より入るも、平生よりもばたばたしている。あちこちへ使者を出し、身内の安否確認に奔走している為であろう。
入ってきた敏平に、昨日、左大臣殿の前駈内殿上人の人数にも入っていた左大臣殿の妾腹の子・中宮亮が気付いて、にじり寄ってきた。
「仙洞は?ち、父上は!?何故おことだけ帰ってきたか?」
「仙洞も辻風にやられましたが、院帝はご無事であらせられます。大殿もご無事ですが、その場の指揮をとらねばならぬと仰せられて、なお仙洞に留まっておられます。ともかく、ご無事をお伝えするよう仰せつかって、私だけ先に帰されました」
「そうか。ご無事であったか。それならばよいのだ。私はすぐに院の庁へ参り、父上に家の無事をお伝えしてこよう」
中宮亮はそう言うと、院別当でもあるので、そのまま出て行った。
そこへ母の讃岐が姿を見せた。敏平は改めて胸撫でおろした。
「戻ってきたか。よかった。疾く北の対へ。大上(二位殿)に仙洞のご様子、お伝えせよ」
「はい」
敏平はすぐに上がって、母の後について北の対へ進む。
北の対の広廂まで行くと、そこまで大北ノ方の二位殿が出ていて、忙し気にあれこれ指示を出していた。
「中宮の御前へは、誰か参ったか?」
「中宮大夫の中納言家名卿(左大臣殿の弟)が向かわれました」
「宮中へは、さっき右大将殿(中納言頼周卿)が参ったから、院へは……」
「ただ今、中宮亮の君が向かわれました」
敏平、広廂の端に手をつかえ、そう言った。
「おお、敏平!」
大北ノ方は敏平の姿に感嘆した。
「よくぞ、無事で!」
「はい。大殿にはご無事であらせられますが、仙洞は辻風の直撃を被りましたる故、そのまま残られ、後の処理をなさっています。とりあえず、院上と大殿のご無事をお伝えする様、仰せつかりまして、一足先に戻って参りました」
「そうかえ。ご苦労」
二位殿は夫君の無事を知って、心底安堵したようだった。だが、なお安否不明な身内はいる。
「途中、女御の三条殿は見なんだかの?」
女御とは二位殿の妹で、先年仁和寺に入った、先帝の七の宮の御母たる昭子のことである。先帝の死後は三条殿に移って、落飾して静かに暮らしているのである。
「三条殿のことは気がかりでしたので、その脇を通って参りましたが、幸い辻風はそちらは通らなかったようで、いつもと変わらぬご様子でございました」
「ああ、よかった」
二位殿はそうは言ったが、なお不安なことは残っている。
「して、辻風はいずらへ向かったか?」
「五条大橋の南の方のどこへやら」
「もしや、山階の方へ抜けて行ったのではあるまいな」
二位殿は顔を蒼白にした。
山階の前右大臣殿といえば、亡き洞院中納言殿の弟、二位殿にとっては叔父にあたる人である。前右大臣殿は大分前に出家し、山階に移って隠居生活を送っていたのだ。
「敏平、戻ってきたばかりですまぬが、山階まで使いしてきてくれぬか?」
「はい。かしこまりました」
「しばし、お待ち」
二位殿はそう言うと、いったん御簾内に消えて、文などしたためている様子。
その間、敏平はその場で待っている。
ふと、傍らの母の讃岐がそっと手を伸ばしてきて、敏平の手に触れた。息子の手の体温を確かめるように、ぎゅっと握る。
「母上……」
思わず涙が零れそうになった。
口には出さなくとも、この母も息子の安否を身を切り裂かれる思いで案じていたのだ。母の手の熱さが、それを語っている。
「おことが死んだら、この身は生きてはいない。必ず自害する」
「……母上」
「よく、生きていてくれた」
母はそれだけ言うと、もう手を離していた。
すぐに二位殿が出てきた。蒔絵の文箱を敏平に差し出す。
「では、山階に」
「行って参ります」
敏平は受け取ると、両手をついて一礼し、すぐに使者として邸を出立した。




