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乱声・一拍──幽人敏平(伍)

 本番当日のこと。


 院の七十賀も恙無く終了し、一日おいて後宴。


 『青海波』の舞人を右馬頭公季(うまのかみきんすえ)、右大将殿の異母弟・権少将師道(ごんのしょうしょうもろみち)が務め、人垣にも有名なる名手達が立つなど、華やかな宴となった。


 そして、その翌日の午、敏平は左大臣殿にのみ伴われて、仙洞御所の庭の隅に参った。


 庭の前方、御簾と向かい、軒端の辺りに琴卓と椅子が置かれていた。琴卓の上には、琴が一張横たえられている。


 あの琴は何だろうと思っているうちに、出御となった。


 随分早い出御だ。


 頗る緊張している。まだ心の準備ができていない。


 左大臣殿は院の昇殿は勿論許されている身だが、敏平と共に庭の小石の上にひれ伏していた。


 左大臣殿が傍らにいてくれているから、心強い筈なのだが……


 院は御簾内より、等分に二人を見、何か頻りに頷いていたが、一人だけ伴ってきた院殿上人(てんじょうびと)へ、面を上げるよう言わせた。


 嗚呼、とうとうこの時が来たと、敏平の心に悲鳴が飛び交っていた。


 落ち着け落ち着けと、己に言い聞かせる程、焦り出す。


 心の臓が激しく脈打っている。吐き気に襲われているのは、きっと胃の腑のせいではなく、心拍数のせいであろう。十日程前からろくに食べていない。だから、胃の腑が消化不良を起こして、吐き気を催している筈がない。


 このまま時が止まって欲しい。永遠にこの瞬間から先に進むな。


 人生最悪の刻限に至ろうとしている。恐ろしい。


 敏平はすっかり冷静さを欠いている。


 だが、院も殿上人も、敏平の発狂寸前の精神など知る由もない。


「それは寨公(さいこう)と呼ばるる御琴なり。優曇華(うどんげ)とともに、かつて行実朝臣が帰朝した折、献上した御物。この度、その寨公を使うこと、院は御許し下されました」


 殿上人はそう言って、琴卓の上の琴を指差した。


 これは益々あってはならないことだ。もう敏平は完全に駄目だ。周囲がぐるぐる回って見える。


 行実が唐より持ち帰って宮中に献上したという寨公なる代物で。そんな大層な名器で弾かなければならないなんて。


 どうしようと、敏平は目眩を抑えることができない。精神極限。いや、それの飽和状態、いやいや、通り越しているか。


 そうだ、楽しいことを考えようと、思い直した。これさえ終わったら、帰ってゆっくり寝られる。美味いものを沢山食べて、音仏の琵琶をいっぱい聴いて。そうだ、母にも会いに行こう、これが終わったら。やりたいことが何でもやり放題だ。


 と思ったが、この最悪の時を乗り越えなければ、楽しい時は訪れないのだと、また負の方に考えが行く。


 院の御前で弾かなければならないのだと、現実に打ちのめされる。


 いや、時は必ず進むもの。このまま一生この状態なわけはない。明日は必ず訪れる。今一瞬だけ頑張れば、あとは楽しい時間が必ずくる。


 もう一度奮い立たせて椅子に座る。


 やれ。できる筈。


 いや、やらねばならぬ。いや、やれない筈がない。


 あれだけ練習したのだ。いつもうまく弾けていたではないか。不安に感じる所など、一ヶ所もない。どこも全て仕上がっている。


 弾ける。できる。不安になったら、できるものもできなくなるから、不安になるな。不安になったら、失敗するぞ。


 やれ。できないわけがないのだから。やるぞ。糞根性。


 あれだけ練習したのに、失敗したら、逆におかしいぞ。


 いや、笑ってやる。できなかったら、自分を笑ってやるよ。できないことなど有り得ないのだから。


 失敗するな。駄目だぞ、絶対に。やるのだ。根性だ!


 言い聞かせると、えいっと一気に最初の音を出す。最初の一音を弾いてしまったら、もう曲の終わりまで、止まることは許されない。失敗なく弾ききるしかない。もう止まれない。


 無我夢中で弾きまくった。


 だが、


「む?」


と左大臣殿は思った。いつもより物凄く速くないか?


 院の所望で、『高山』と『流水』を弾くことになったのだが……『高山』にしては、ひどく落ち着きのない。


 だが、問題は『流水』。技巧的な難曲を、こんな速度で弾いたりしたら、途中で崩壊する。


 しかし。


 敏平は、いつも通りの速さで弾いているつもりでいる。


 心拍数が上がっているために、とてつもない速さで弾いていることに気づかないのである。心拍数に、速度も比例して増す。


 そして、『流水』の超越的な早業の部分に至った。


 次、不安だ、うまくゆくかと一瞬考えた。頭が無でなくなった故に、余計に恐くなり、何かに追われるように、さらに速くなってしまった。


 走っている、走るな、落ち着けと、左大臣殿は必死に心で叫んでいた。左大臣殿の方が、どうなってしまうのだろうかと恐ろしい。


 指は空回りして、益々速度が上がる。


 何でうまく弾けないのだと、敏平は焦った。落ち着けば弾ける筈なのに、焦れば焦る程、失敗する。


 よく動く指を持つ者は、こういう時はよくない。人は危機的状況に追い込まれると、通常では働かない能力が発揮される。敏平の脳細胞も、普段使ったことのないものまで動いて、指をより速く回転させていた。失敗し、下手になりながらも、指だけは常にも増して回転している。


 もう絶望的だ。頭がはっきりと言葉にして思考してしまった。それで終わった。もはや、このどうしようもない演奏は修正不可能だった。


 それでも途中でやめるわけにもいかない。最後まで弾ききった。


 最悪だ。


 院は何と思ったか、


「いや素晴らしかった」


と言った。直接、敏平に声をかけた。


 何か労いの言葉をかけてやらねばという、慈悲か。失敗した敏平を哀れに思って、慰めたのか。まさか、本気で素晴らしいと思ったのか。


 それとも。失敗したには違いなく、敏平本人や、普段の彼を知る者には最悪の演奏でも、世間から見れば実力は並外れ、素晴らしく聴こえたのか。


 ともかくも、院はもう一曲所望した。院の好きな『離騒』である。


 これは南唐派だけの曲で、呉楚派には伝わらない。だが、敏平には心得があった。


 もう弾きたくなどなかった。すぐにも逃げ出したかったが、そういうわけにはいかない。


 仕方なく、『離騒』を弾き始めた。


 と、突然。


 遠方はるか北西から、ごおっという轟音がしてきたかと思うと、いきなり地面が突き上げられた。


 大きな重い庭石が、ぽんっと飛び出して、空中に投げ出され、ぐりぐると回り、空に上がって行く。


 猛進する悪鬼は天下り、ぐるぐる蜷局を巻き、加速し回転しながら、一本の太い柱となる。


 立っていることなどできない。体が地面ごと何十尺も飛ばされる。そして、その地面は砕けて、あなたこなたと吹き飛び散る。


 死ぬ!!


 阿鼻叫喚地獄。


 あちこち悲鳴が響く。


 大音声を上げ、猛烈な力で荒れ狂う、地獄の業風をも超越する風。その容赦の微塵もない襲撃。


 人も吹き飛ばされ、旋風の中に巻き取られる。築地も屋根も、いや建物ごと、大樹も根ごと、回転しながら風の中に取り込まれて、天空まで巻き上げられていく。


「辻風だ!!」


 院の御所を巨大な竜巻が直撃したのだ。


 竜巻の通ったあとは、跡形もなく全てが粉々。一瞬の出来事だったが、破壊し尽くされていた。


 瓦礫の破片に当たって死んだのか、動かない者がいる。傷だらけ。血まみれだ。


 院の御所は半壊状態。


 竜巻はなお吼えながら、南に向かって次々にあらゆるものを破壊して行く。


 何が起きたのかわからなかった。一瞬前と一変した庭の瓦礫の中で、敏平は何故か震えの止まらぬ体を地に這わせていた。


「院っ!院っ!!」


 大勢の人声。近寄ってくる人の足音。


 それらの声の中に、


「おいっ、大丈夫か、敏平?」


と、聞き覚えのあるものが混じっていた。


「敏平っ!!」


 両肩をがっと掴まれ、激しく揺り動かされて、ようやく正体を取り戻した。


「……あ、大殿(おとど)


 やっと焦点定まった両目が、左大臣殿の姿を認識した。


「大事ないか、敏平?」


「はい。大殿こそ、お怪我は?」


「わしは平気だ。物凄い辻風だったな。御所内の女房達の戦慄きが目に映るようだ。悲鳴とて出ず、腰を抜かしていよう。何より院の御身が大事。わしはここに残って、後の処理をするから、敏平は家に帰っておれ。我が六条の邸の様子を見てきてくれぬか」


 気丈な左大臣殿は平常心のまま、放心している敏平にそう言うと、もう敏平なんぞを見てはいなかった。


「院っ。院っ」


 崩壊した建物の中の人の身が最も危険だ。


 院のおましの辺りは全く壊れていないが、それとて心乱していることだろう。案じられてならず、左大臣殿は上へあがって、院の様子を窺った。


 侍どもが武者声を上げながら、ばらばらと庭を通り過ぎる。


 院司達も続々参じては、口々に院の安否を確認していた。


「ああ、大変なことになった」


 ようやく敏平にも、何が起きたか状況がわかるようになった。


 手慣れの太刀や長刀を手にした侍どもの一陣が、また通り過ぎる。


 それを見て、


「や、こうしてはいられぬ」


と、敏平はすぐさまそこを飛び出していた。

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