乱声・一拍──幽人敏平(壱)
長い年月が経過した。
しかし、東国の様子はあまり変化がない。
常陸の法化党は守りに入り、以前のように積極的に勢力を拡大させることはなかった。周辺勢力とは同盟関係を築く努力をし、戦はほとんどない。
たまにあると思えば、それは北方の大乘党との小競り合いだった。
大乘党とだけは、手を組むつもりはないらしい。当主・経実は頑固だ。
その経実には養子がいた。後継者に決まっている。
経実はまだ若いが、妻帯していなかった。周囲も妻帯しろとは言わない。他家から養子を貰ったことにも、反対する者ばかりではなかった。
養子は経実の妹の子・如意王である。経実の実の甥だ。だが、その実父は今、南殿と呼ばれる信時朝臣だった。
信時朝臣とその兄・時有朝臣は、烏丸左大臣殿の一族で、烏丸殿は法化党の宿敵である。現在は和睦しているが、法化党の中には、その和睦を快く思わない者もあった。
如意王は経実の甥には違いないが、烏丸殿の血を引いている。その如意王を法化党の主としてよいものか。
そう思う者もあった。
水軍の長・長行などは、そうした考えであった。だが、それは一部の人間で、だいたいは皆、如意王を後継者とすることを認めている。
さて、如意王が経実のもとに送られてきたのは、一昨年のことだった。
如意王が経実の養子となることは、予め決まっていたことだった。だが、幼い子を両親から引き離すことを良しとしない経実が、如意王が元服するまでは、両親のもとに置いておきたいと言ったのだった。
両親は経実の優しさに甘えて、我が子を手元で育てていた。そのまま元服まで側に置くつもりだった。
ところが。
上野殿こと時有朝臣の後継問題が持ち上がったのである。
上野殿には子が何人もあったが、それぞれが母が違う。都の名家の娘を母とする者もいれば、地方の大豪族や大武士団の当主の娘を母とする者もあった。
それぞれの後ろについている勢力が、色々と騒がしい。後継者争いがいつ起きても不思議はなかった。
そういう物騒な気配がちらほら出てくると、必ず昔のことを蒸し返す輩がいる。
すなわち、以前、上野殿と法化党が敵であった頃、法化党と和睦するため、経実の甥である如意王を上野殿の後継者とする話があった。
如意王も後継者候補であったことがあったのだ。いや、当時は如意王こそが後継者だった筈だ。
時も移り、情勢も変わって、上野殿の後継は上野殿の実子から選ぶのが当然とされる今。しかし、上野殿の子達で後継者が決められず、争いも起こるかもしれないならば、関係のない如意王を後継とすれば、案外円満に解決できるのではないか。
昔の話を持ち出して、如意王を立てようという輩はそう言うのである。
法化党の中には、その考えに同調する者も多くいて、後継問題はさらに複雑化しそうであった。
後継争いは家の弱体化を招く。衰退した所を敵に攻められれば、滅亡しないとも限らない。
南殿・信時朝臣はそれを避けんがため、予定より早く、如意王を養子に出すことを決意した。如意王が法化党の人間になってしまえば、後継者問題は幾分改善される。
それで一昨年、如意王は常陸に送られ、経実の子となったのだった。
来年は元服することも決まっている。
如意王の実父・信時朝臣は、現在従四位下であった。上野介の任期を終えて、今は南殿に住んでいる。
南殿とは、上野殿(時有朝臣)の本拠・牧邸の隣に建つ邸であった。元々は余り大きな邸ではなかったが、増築拡張して、今は創建時の二倍の広さはある。
この邸の主であるので、信時朝臣は南殿と呼ばれているのである。
邸には信時朝臣の母・春日の大上も住んでいる。
そして、信時朝臣の北ノ方にして、如意王の生母の貴姫君も住んでいた。
貴姫君はまだ若々しい。ただ、最近は虚弱な体質となっていた。時々、寝込んでしまうことがある。先年、娘を産んだ時からこうなってしまった。
懐妊中から色々あり、流産しかかったこともあった。どうにか出産に至ったものの、かなりの難産となった。それまで、男子二人を産んでいたが、何れも安産であったのに、三人目だけ難産になってしまったのだった。子は元気に産声を上げたが、貴姫君はかなり危険な状態となった。辛くも命を留めることはできたが、それ以来、ずっと体調が悪い。
そんな妻が信時朝臣は愛おしくてならず、日々彼女をいたわり、大切にしていた。
「やれ、見てはいられぬ。こちらの方が、こっぱずかしくなってしまうわえ」
上野殿に呆れられ、からかわれる程であった。
先日も信時朝臣は愛妻を感涙させていた。
次男の千手丸に学問をさせ、娘を乳母に預けていた、その午後。貴姫君がほっと一息ついていた時だった。
突然、肩にふわと小袿が一枚かけられた。振り返ると、信時朝臣がいた。
「風が冷たいですよ」
信時朝臣はそう言って、貴姫君の手をとった。が、途端に驚き、
「冷たくなっていますよ。大丈夫かな?」
と案じた。
心配性の夫君に、姫は苦笑のような微笑を見せる。
「平気です。私、子供の頃からいつも手は冷たかったですもの」
「でも、今は昔と違って体が弱い……あなたは命を削って娘を産んでくれた。すっかり弱くなってしまって…。大事にして下さい。今は少しの冷えも、あなたには害となるのですから」
そう言うと、彼は姫の真向かいに座った。
姫はその膝へ頭を下げる。
「申し訳ありませぬ。上野殿の御ため、領地のため、軍のために、寝食を忘れて日々暮らしていらっしゃるのに、私のことまで気にかけて、心労を重ねさせて。私が健やかであったら、余計な心配をさせずに済むものを」
「何を言うのですか。あなたが弱くなられたのは、娘を産んで下さったから。あの子はあなたの子であるばかりでなく、私の子でもあるのです。あなたは自分の命を削って、あの子に分け与えて下さった。おかげで、あの子は健やかなよい子です。でも、あなたはその分だけ弱くなってしまって……。あなたが頑張って下さったのに、私はこの通り、元気でぴんぴんしています。私の子でもあるのに。あなたにばかり、いつも痛い思いをさせて、申し訳ない」
「まあ、そんなこと……」
そんなふうに言われてしまうと、困ってしまう。姫はただ首を横に振った。
信時朝臣は懐に手をやった。何か探って取り出す。
懐紙に包まれた二粒の玉であった。
玉は紫の紐で結ばれている。
姫は思わず、それを見つめた。見覚えのある玉だったからである。
信時朝臣は姫の左手をとり、そっとその玉を握らせた。
「これは私が都を出る時、私の父が私にくれた数珠から作ったものです。数珠から玉を二つ取り出しました。私は赤子の頃、死にかけたことがあって。父は私のために、数珠に願かけしてくれました。その甲斐あって、私は回復しましたが、その後も毎日、父は数珠に私の健康を願ってくれました。数珠には父の思いが込められています。数珠は私の命。あなたが、娘に分け与えてしまった分の命は、私があげましょう。あなたの失った分の命、私の命で補って下さい。あなたが健やかになるようにと、いつも玉に祈りを込めていました。その玉には、私の思いが込められていて、魂が宿っています。必ずあなたの身を護りましょう」
「信時の君……」
左の掌の中の玉が、やさしい光を放っていた。
姫はぽろぽろと涙を落としていた。
信時朝臣とは、相変わらずこういう人であったのだった。




