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正声・十八拍──白芙蓉(拾弐)

 二日後、姫君はようやく意識を取り戻した。だが、二度と起き上がることはできなかった。


「最期の時に、琴を弾くこともできないなんて」


 声にはならず、掠れて息だけがもれる。


 声のなきままに言う。


「逝く時は琴を弾いていたかった。琴を弾きながら逝きたかった……無理ですね」


 悲嘆する娘以上に、母は悲しい。


 二位殿はずっと姫君の手を握り続けていて、僅かな時間すら、その手を離しはしない。


「母君」


 姫君は母に呼びかける。


「灌頂を授けた印に、文王の琴を菖蒲王丸にその場で与えるつもりでおりました。でも、そのまま気を失ってしまって。母君から渡して下さいませんか?」


「……わかりました……」


 泣くまいと思うのに、勝手に涙が溜まるのを、どうしたらよいのか、もう母君には自分でもわからない。


 姫君は母君を見て、悲しそうな表情を見せたが、謝ったりしたら、母君は声を立てて泣いてしまうだろうと思った。だから、あくまで甘える。


「それとね、母君」


「……はい?」


「松寿のことなのですが」


「松寿」


 松寿と聞いて、母君は急に身を引き締めた。


「あの子にはとても可哀想なことをしました。兄君のご命令で、寺に入れられてしまって。兄君には内緒で、わからないように、そっと寺から出してあげられないでしょうか?」


「松寿を?出家させないの?」


「今はまだ寺に預けておいてもよいですが、十四、五歳になりましたら、得度はさせず、理髪させて下さい。兄君は僧侶にするおつもりで山門に入れたのでしょうけれど、あの子には元服させて、官職を与え、どこか適当な良家に家司として仕えさせるべきです」


「わかりました。そうしましょう」


「ほっと致しました」


 姫君は安堵の色を見せた。瞼が重そうだ。


「少し眠りなさい」


 母君はそう言って、さらに強く手を握る。


 眠いのか。昏々としているのか。すぐに姫君は現の人ではなくなった。


 その閉じた両瞼を見ていると、母君はついに咽び泣いてしまう。


「ああ、あなたを諦めることなんて、どうしてできましょう。かわいそうに。代わってあげたい。叶うものなら、この身が病を全て引き受けたい」


 姫君にその声は届かない。


 昏睡から数日振りに覚めた姫君は、最期に菖蒲王丸を召した。


「話しておくことがあります」


 思いの外、しっかりしている。


 菖蒲王丸は御簾内にいる。姫君は臥せったまま、几帳の奥から言った。


「我が手元には、名器として名高き呉楚派の鳳勢、秋声、無銘秘琴があります。南唐派の威神と呉楚派の鳳勢は、宮中に献上しなければならないので無理ですが、秋声と無銘秘琴は、既に伝えた文王、雷氏琴と共にこなたに授けます。譜も楽書も、私が持っているものは全てこなたに譲ります。私が死んだ後は衰退した琴界を盛り立て、多くの弟子を育て、必ず昔の隆盛を取り戻して下さい。そして、必ず才人を見出し、その人を育て、灌頂を授けることができるよう、励んで下さい」


「……はい……」


 姫君は頼りなげな菖蒲王丸の返事に、いささか不安はあったが、叱責はせず、


「いま一つ」


と、今度は厳しい口調で、けれど淡々と語った。


「数年前のことです。四辻内大臣という御方が、主上を呪詛したという事件がありました」


 何を言い出すのかと焦ったのは、上局に控える讃岐と、姫君の枕辺の二位殿だ。


「姫君!」


 母君は窘めるように言ったが、姫君はそれを眼で拒んだ。


「私はそれが真実か否かは考えないようにしています。でも、内大臣(うちのおとど)の一族が皆処罰されていることは事実。その大臣の御甥は、呉楚派の名手として知られた御方でした。安房に遠流となったのですが、その途中で殺されました。その御方は直前まで琴を身より離さず、一曲弾じてから逝かれたそうです。それは『広陵止息』でした」


 罪人の『広陵止息』。反逆者の『広陵止息』である。


「どう思うかは自由です。でも、そういう御方がおわしましたことを覚えておいて下さい。我が国にも、そんな最期を遂げた御方がおわしたこと、努々お忘れなきように」


 菖蒲王丸は灌頂の日のことを思い出して、また恐ろしくなった。


 姫君が何を思っているのか、さっぱりわからない。


 姫君は常に秋声を枕元に置いて眺めていたが、今もそれをそっと撫でていた。


 母君はぎょっとした。


「……秋声。その御方の御琴。私が死んだら、菖蒲王丸のものです。大事にして下さい」


 姫君はもう一度それを撫で、名残を惜しんだ。





 そして。


 翌日。


 その日の朝は、何故か突然、庭の白い牡丹と木芙蓉が満開に開いてしまった。薔薇(しょうび)の花々も美しい。


 朝開いた花々が、素晴らしい香りを放っていると女房達から聞かされた姫君は、午後、珍しく廂まで出て、一人その花々を眺めていたという。


 側には誰もいなかった。姫君の願いで、皆遠ざけられていた。


 白地に紫などを中心にあしらった白撫子の小袿を肩に羽織った姫君は、一番大事にしていた扇を手にしながら、その花の香にくるまれていた。


 青空の中に、かの人の面影が浮かんだか、姫君は笑顔だった。





 夕刻、風が出てきた。


 そろそろ寝床に戻るようにと、告げようとやってきた中務が、すでに昇天している姫君を見つけた。


 姫君は脇息にもたれかかりながら、微笑むように穏やかな顔をしていた。それは、神か仙女が眠っているような、生きていた時のどの瞬間よりも、美しく高貴な姿だった。


 扇は廂の床の上に開いたまま落ちており、その上にはそよ風が運んできた庭の白い牡丹の花びらが何枚も載っていた。


 姫君は、沢山の花びらの中にいた。その周りからは芳香がしていた。


 見れば、庭の牡丹の花は全て散っていたという。


 廂の中と庭と、そよ風に吹かれて舞う花びらは、一枚一枚皆、神女の羽衣のように透き通っていた。

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