正声・十八拍──白芙蓉(拾)
すぐに夏になった。
姫君の病状は露ほどもよくならない。
姫君の望みは……夢は……
近頃、晩春から初夏にかけての花が咲き、そうかと思えば、初秋の花々まで咲き初めた。すっかり花の季節の調子がおかしくなってしまった。
ともあれ、庭一面百花咲き乱れる様は、まことに華やかで綺麗なもの。春と夏と秋の花が一斉に咲き誇る庭は圧巻だった。
だが、その派手派手しさが増せば増す程、それと反比例するように、姫君の姿はあるかなきかに儚く、かすかな光にさえ透けて、かき消えてしまいそうであった。
姫君は思うところあって、菖蒲王丸を召し、告げた。
「今度の端午に灌頂を授けます。五月三日から六日の夜明けにかけて行いますので、そのおつもりで」
「えっ?」
菖蒲王丸当人ばかりでなく、周囲も寝耳に水であったので、どの眼も丸くなっていた。
「何も不思議なことはありません。琵琶の道でも端午や七夕、重陽の日や、八月十五日、九月十三日といった、特別な日に灌頂を行うのをよしとしているそうではありませんか。琴の灌頂は『広陵止息』であり、一日、二日では伝えきれるものではありません。五月三日から始め、五日までを目安に伝授したいと考えています」
本当は、九月九日から九月十三日にかけて行うつもりでいた姫君だった。その下準備として、最近は菖蒲王丸に、殊にも難曲ばかりを与えていたのである。
しかし、姫君にはある予感があった。
体が。もう限界に近い。生きていたいと願った途端に、こうだ。どうしたわけか、人生とは、自分の望んだものとは逆に進む。
秋まで生きられるか。いや、夏を乗り越えられるのか。
思いの外、体力の衰えが進んでいる。
人に琴を聴かせたいと願ったが、それどころではない。菖蒲王丸に灌頂を授けることさえ危うくなってきた。
灌頂もせぬままに逝ってしまっては、心残りどころではない。大罪。魔道をさまよい続けるのは己の身一つだけだから構わないが、呉楚派の滅亡を招くことの恐ろしさ、罪深さは……。
それで、ひどいわらわ病みの高熱と激痛の中で、決断したのであった。予定より早く、灌頂を授けることを。
「──それ故、五月三日になったら、西の釣殿に入って灌頂を始めるつもりでおります。五月三日の昼から、六日の早暁までは、西の釣殿への立ち入りを一切禁じます。何人たりとも釣殿に近寄ってはなりません」
「しかし、それは──」
女房達は皆反対した。姫君の体調を思えば当然のことである。
わらわ病みは静かな時もあれば、必ず高熱に襲われれる時がある。必ず交互にやってくる。人によって様々だが、姫君の場合は隔日の間隔。
三日の昼から六日の早暁までとなれば、修羅の刻が巡ってくるのは確実だ。
「もっともなことです。自分でも無茶を言っているのは分かっております。けれど、これは灌頂の決まりごと。これを破れば、必ず天に背くことになり、死して後も、その罪業により、永遠に無限地獄を歩むことになるでしょう。灌頂とはただ事にはあらず。伝法灌頂どころか以心灌頂に等しきものにて、何があろうと禁を破るわけにはいきません。たといその最中に命絶えても、それは本望。きっと途中、高熱に襲われるでしょうが、それでも耐え抜かなければなりません。何があろうとも、日が西から昇ろうとも、灌頂を始めれば、余人と交わることはできません。よいですね。それが灌頂というもの。音楽の道というものです。私が途中でどんなに苦しんでも、息絶えてしまっても、何があっても、絶対に釣殿に近づくことはなりません。よいですね!」
いつになく厳しい口調に、皆息を呑んだ。それでも反対しなくてはならないのに、誰にも返す言葉が見つからない。
姫君は殊更菖蒲王丸の顔を見つめていた。
五月三日から、清花の姫君が十二歳の童に琴灌頂を行うらしいという話は、たちまち広がった。京童の噂になり、町の辻々でさえ話題になったのである。当然、南唐琴門の兼保も知っていた。
兼保は菖蒲王丸を可愛がっている。この少年は呉楚派を中心に学んでいるが、師の姫君が南唐派も教えているので、南唐派の月例会にはよく出席していた。姫君は欠席が目立つが、弟子の菖蒲王丸は南唐派の面々に混じって、様々なことを吸収していたのだ。
兼保はその例会で、いつも少年の演奏を耳にしている。才能に恵まれていると思う。成長も早く、もう『流水』まで弾くのだから、感心だ。
だが、灌頂はまだ早いように思われた。いつかは必ず灌頂を授けられるべき才子には違いないが、今は時期尚早であろう。
可愛く思う、また、琴楽界の希望の星でもある菖蒲王丸が灌頂を授けられ、血脉にその名が刻まれることは、この上なく嬉しいことだが、それ以上に姫君の身が案じられる。
少しでも間違ったことはせぬ人なのに、早い灌頂。姫君は焦っているのではあるまいか。
生き急いでいる。──そんなふうにも思われたが。もしや、相当悪いのではあるまいか。姫君はもう限界を感じて、その前に灌頂を済ませなければならないと、無茶をしているのではないか。
兼保は菖蒲王丸への祝いも兼ねて、姫君を見舞うことにした。
兼保が来た日。姫君は無理して起き出さなければならなかった。幸い、熱のない小康状態の日だった。
とはいえ、姫君は声を出すのもやっとだった。とてもまともに話などできそうにない。
御簾越しにそれと悟られては不覚。挨拶だけして、あとのことは全部女房の中務に代弁させた。
兼保は先ず灌頂についての喜びを述べ、そして姫君を案じた。
「お見舞いしたいとは思っていましたが、それもかえってご迷惑かと、遠慮しておりました。この度は菖蒲王丸の祝いを兼ねて推参したわけですが、やはりご無理させてしまったようで、誠に申し訳なきことです。すぐ帰ります。横になられて、お休み下さい。姫君が早くよくなられますよう、賀茂大明神に祈りましょう故、これにて」
姫君がかなり重病だということを察して、兼保は早々に立ち去ろうとした。が、姫君が自身、
「しばしお待ちを」
と呼び止めた。そして、佐保姫に塗籠の中から龍舌を持ってくるよう命じた。
すぐに佐保姫はこれを持って参り、兼保の前に差し出す。
兼保は何事かとそれを見て思った。
一瞬何だかわからなかったが、よくよくその琴を見て、
「これっ!?」
と、驚き動揺した。無理からぬことである。
中務、代弁して言う。
「これはお察しの通り、龍舌のおおん琴にございます。呉楚派のものですが、何老師から舜琴を贈られた政任朝臣が、その礼にと何老師へ贈られたもの。その後、何老師は広仲の君に返却遊ばし、広仲の君から韶徳三位殿へと受け継がれました。先年の大事により、この琴は消失しましたが、どういうわけか巡り巡って、今はこちらにあるのでございます。舜琴はなお不明のままですが、こうして龍舌はございます。南唐派の蔵にも入っていたことのあるこの龍舌を、何卒お受け下さいますよう──」
兼保、甚だ驚いて、問い返そうと息を吸ったが、その時、重ねて中務が、
「何もお聞きにならずに、ご領下さい」
と言ったので、息と共に言葉もそのまま吸い込んでしまった。
龍舌は散逸してしまったのである。帝は何としても見つけ出せと命じ、八方手を尽くして捜索したが、見つからないままであったのだ。それが清花の姫君の手元にあるとは。
とんでもない理由がありそうだと思った。かえって訊くのも恐ろしく、知らぬが仏、何も尋ねなかった。だが、そんなわけありの琴を、いかに南唐派にとっても重要なものだからとて、わけも知らずに受け取るわけにもゆかぬ。謀反人・韶徳三位殿所蔵であったものを持つのは、災いのもとである。
けれど、姫君が、
「これは我が形見の品。どうかお持ち下さい」
と、微かな声音で必死に言ったので、つい反射的に、
「拝領致しましょう。南唐派の宝が戻って嬉しうございます。我が蔵に秘して包みおきましょう」
と、答えてしまった。
かくして、龍舌の琴は密かに再び南唐派のもとに返ったのであった。
兼保は結局、姫君に、焦っているのではないかとは言えなかった。菖蒲王丸への灌頂が少し早いようにも思える、とも言えなかった。
悟られまいとして、姫君が苦患を必死に隠しているのが伝わってきて、兼保にはとても言えなかったのだ。最早、姫君の体はどうすることもできないのだと思った。
「ああ、これが今生の別れか」
二度と会えぬのに違いないと感じ、門を辞す際、言いようのない思いに胸が締めつけられた。親友の蔭元朝臣を失い、今また大切な人を失わなければならないのか。
姫君の母君・従二位通子も、姫君が無茶をしようとしていることに堪えられなかった。けれど、覚悟も決めなくてはならない。医師から言われているのだ。
諦めようにも諦めきれないが、今から心を決めておかねば。
心が壊れてしまう。
けれど、二位殿は己を奮い立たせた。
兼保が帰ると、横になった姫君の枕頭に腰を下ろして、
「早く眠ってしまいなさい。これから大変なことをするのだから。よく休んでおかないと」
と、素直にそう言った。
姫君はほっとしたような笑顔を見せて、こくりと頷いた。
「菖蒲王丸もとうとう灌頂ですか。夢であったでしょう。あの子の夢が叶う。そして、これは姫君の夢でもありましょう。やれ、嬉しや」
二位殿がそう言うと、姫君はそっと首を横に振った。
「夢は見るもの。叶えるものではありません。それほど簡単に叶ってしまうようなものが夢であってよい筈がない。夢は亡くなるその時に叶うのが、最も理想的です」
「でも、琴を弾く者にとって、灌頂は夢でしょう。血脉に名が載ることを夢見て、皆励むのではないの?」
「灌頂は夢であってはいけません。もし叶ってしまったら、その後はどうするのです。夢が叶ってしまった者のその後の人生は空蝉のよう。菖蒲王丸はこれから、四十年も五十年も生きなければならないのです。夢が叶ってしまったら、人生もう終わり。十二で人生を終えて、その後の数十年は息をしているだけだなんて、何と残酷なことでしょう。灌頂は目標であって欲しいです。夢実現への一つの段階。一つの目安です。夢は大きければ大きいほど、実現困難で、何度となく挫けそうになる。それを救う励みとして欲しい。……もし、灌頂を夢としているならば、あの子はそこで終わってしまいます。あとは燃え尽きた灰でしょう。上達したい、夢を叶えるために努力を惜しまない、その欲こそ尊いものです。いつか必ず到達しようという、夢の頂きを欲する心は清く美しいものです。その欲がある限り、灌頂は目標であっても夢ではなく、達成した後もさらなる飛躍を求めて幸せでしょう。あの子がそういう子であると信じております。いえ、そうでなければなりません」
「厳しい人ね、あなたは」
灌頂の三日前より菖蒲王丸は精進し、当日は行水までしなくてはならない。
灌頂の日が近づき、菖蒲王丸精進潔斎の間、伝授の場を設える。本当は嵯峨の琴堂で行いたいところだが、如何せん姫君が重篤であるため、それはできない。六条西洞院邸の西の釣殿を整備する。
昔は洛神図があったので、呉楚派の灌頂の儀には必ずこれを拝礼したものだった。だが、今はないので仕方ない。本尊として共に祀っていた鳳勢の琴だけを安置する。
廂に師と弟子の席を設ける。共に椅子。それぞれの席の前に琴卓を置く──本来そうすべきだが、椅子は姫君の体調を考えると楽ではあるまい。で、高麗半帖を敷き、その上に龍鬢、その上に唐錦一枚を敷いて、師のための席とすることにした。これ、琵琶の灌頂に准ずる。
同様に弟子の席にも高麗を敷く。
師弟それぞれの席の前に、特別に新調させた丈の低い琴卓を置き、その上に琴を置く。師の方には秋声、弟子の方には文王が置かれる予定である。
当日の流れとしては。
先ず師が陰陽師を呼んで、入場するべき吉時を問う。そして、その時刻になったら、会場に入って着座する。
家司が弟子へ、師の着座を告げる。
弟子、参上して着席する。
導師が諷を読んで退場。
師は家司に諸人を追い出すよう命じる。家司達、人を追い、伝授が行われる建物から完全に余人がいなくなってから、いよいよ灌頂が始まる。
師は立って正面に向かい、鳳勢の前に進む。弟子は簀子に下がって鳳勢と相対する。そして、師弟揃って鳳勢に三度拝礼する。
次に賀茂大明神、三皇五帝に。
師は菖蒲王丸という者に秘曲を授けることを啓白して席に戻る。弟子も席に戻る。
師が琴を弾き、弟子もこれに倣い、秘曲伝授が始まる。
三日の後、伝業完了。
師は様々奥書した譜を両手に捧げる。師、譜に三度拝礼。弟子は跪いて左右の手で譜を受け取り、師を三度拝礼して、右回りして席に戻る。
弟子、一度退出して贈物を取り、再び戻って、師の右前に跪いてそれを捧げる。
贈り物が終わると、弟子が先に退出し、その後、師も席を立って退場。
全ての儀式が完了となる。




