表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
76/85

正声・十八拍──白芙蓉(漆)

 それから、さらに月日は流れて──


 菖蒲王丸は十二歳の春を迎えていた。


 清花の姫君は、相変わらず寝たり起きたり。


 菖蒲王丸は琴が相当上達していた。


「そろそろ理論も学ばなければなりませんね。以前、嵯峨から持ってきてもらった書籍を使って、理論を勉強しましょう。昔、私もこれらの書籍を使って学んだものです」


 姫君がそう言ったので、近頃菖蒲王丸は琴弾く術ばかりでなく、楽全体を支配する理論までをも学ばなければならなくなった。


「幼少にては難しき事なれども、十を過ぎたる今、楽律を知るのも大事なことでしょう。楽の理を知らぬままに弾いていても、調子のことなど謎のままで不自由に違いない。難しいことではありませんから、よく学ぶように」


 姫君はそう言って、菖蒲王丸を向かい側に座らせると、先ず五声(ごせい)について説明を始めた。


「五声くらいは知っているでしょう?」


(きゅう)(しょう)(かく)()()。琴の一から五までの絃の名と同じですね」


「そうね。宮と商の音の幅は?」


「三律(長二度)です」


「では、宮と徴の幅は?」


「八律(完全五度)です」


「その通り。では、五声の求め方は知っていますか?どうやって、個々の音程を求めるのでしょう?」


「……純八逆六とかいうのを聞いたことがあるのですが……」


 自信なさそうに答える菖蒲王丸へ、姫君はにっこり笑って頷いてみせる。


「そうね。純八逆六というのは正しい答えです。ところで、三分損一(さんぶそんいつ)というのは知っていますか?」


「言葉だけは」


「三分損一とは、その言葉の通りで──」


と言って、傍らの切れた琴絃を見て、ちょうどよいと思ったらしく、それを菖蒲王丸に示しながら、小刀を出す。


 その絃の両端を菖蒲王丸に持たせ、指で弾いて音を鳴らす。


「この長さで鳴るこの音を、宮としましょう」


 小刀を絃にあてる。


「では、この絃を三つに分けてみましょう。等分に三つ。そのうちの一つを切り捨てれば、絃の長さは元の長さの三分の二になりますね。そうすると、純八が、八律上の音が出ます」


 そう言いながら、絃の三分の一を切り落とした。


「三分したうちの一つを取り除くので、三分損一というのです。三分損一すると、必ず八律上の音になる」


「では、宮を三分損一すると、徴が求められるわけですね」


「その通り」


 理解の早い子である。姫君は喜んで、三分の二の長さになった絃を弾く。長かった時より、高音。確かに八律上だ。


「では、次に行きましょう。宮を三分損一して求めた徴から、今度は商を求めます。今度は三分益一(さんぶえきいつ)します。今、絃は三分損一して、もとの長さの三分の二になっていますが、この短くなった絃をさらに三等分してみましょう」


 そう言うと、筆に墨をつけ、ちょんちょんと絃に印をつけた。


「この三等分した一つ分の長さ、これをもう一つ加えます。三分した一つ分を加えるので、三分益一といいます。三分益一とはつまり、三分の四にすることです。こうすると、六律(完全四度)下の音が求められます。つまり、逆六ですね。徴の六律下、これは商。徴から商が求められました」


「次はどうするのですか?」


「三分損一と三分益一は交互に行います。つまり、純八の次は逆六で、その次は純八です。商を三分損一します。八律上の音が求められるわけですから、商の八律上は何?」


「羽です」


「そう。羽が求められたら、今度は三分益一。三分益一は逆六ですから、羽を三分益一すると、角になります」


「宮、徴、商、羽、角の順に算出されるんですか。知らなかった」


「音の高さの低い順から並べ替えたものが、宮、商、角、徴、羽という順になるのです。宮と商の間は三律、商と角間も三律、角徴間は四律、徴羽間は三律、徴と上宮までは四律離れています。角徴間と、徴上宮間が離れているからでしょう、ここにそれぞれ変声(へんせい)を加えて、七声(しちせい)ができました」


 菖蒲王丸がすぐに五声を理解してしまったので、姫君は七声の話を始めた。


「徴の下、二律(短二度)離れた所を変徴と称し、宮の下、やはり二律離れた所を変宮と称します。宮から徴、徴から商、商から羽、羽から角が生じました。角を三分損一すれば、変宮が生まれ、変宮を三分益一すれば、変徴が生まれます。音高順に並べれば、変徴は角と徴の間、変宮は羽と上宮の間に置くことになります。角と変徴の音程は三律。羽と変宮の音程も三律。下音から順に、宮、商、角、変徴、徴、羽、変宮。これが七声です」


 ここまで話すと、姫君は文机の下に積んである書籍の中から一冊を探り出した。『律義』という草紙であった。かつて、七絃七賢の一人、伊賀守為長が記した十二律についての理論書である。以前、姫君はこれを自ら写して、上野の貴姫君に贈ったことがあった。その本である。


「三分損益の法を知った今は、律のことも理解できる筈です。(せい)と律を組み合わせて、初めて調が生じるのです。調の話をする前に、律について学ばなければなりません」


 そして、その『律義』を菖蒲王丸に差し出した。


「この『律義』はとてもわかりやすいですから、貸してあげましょう」


「おそれいります」


 拝領したが、菖蒲王丸は『律義』を手に持ったまま、首を傾げる。


「およそ楽律というものはわかりません。考えると頭がぐちゃぐちゃになる。人によって、呼び方も言うことも違うんですもの。黄鐘(こうしょう)と言うかと思えば、黄鐘(おうしき)と言うし、でも、この二つは全く別の音で……近頃、黄鐘(こうしょう)壱越(いちこつ)と言う人があったり、太簇こそが壱越だとか……太簇と黄鐘は楽の種類によって違いがあって、実は同じ音だとか……もう何が何だかさっぱりわからなです」


 だから、律なんか学びたくないとでも言いたそうな菖蒲王丸に、姫君は、


「確かに」


と言って、おかしそうにくすくす笑った。


「近頃の壱越とか黄鐘(おうしき)とか。これは唐土にはない我が国独自の律名です。唐土の楽律は改革が行われていて、唐の古い楽律は、玄宗の御時から、俗楽の間で高くなり、それまでの太簇が黄鐘(こうしょう)になったそうですよ」


「……やっぱり、太簇が黄鐘?」


「そう。新律の黄鐘は我が国の壱越と同じ。古律の黄鐘は我が国の神仙と同じ。つまり、古律の黄鐘は新律の無射、新律の黄鐘は古律の太簇と同じ音ね」


「……」


 すでに、頭がこんがらがった。菖蒲王丸にはやはり難解だ。


「二十八調というものがあります。古律から作られたものが我が国に伝わりました。ですが、その後すぐに、唐では新律ができ、二十八調も新律で、つまり、それまでのものより高くなった楽律で作られるようになったのです。我が国の人間は、留学(るがく)のために、幾度か唐に渡りましたね。その中の誰かが、新律を持ち帰ってきました。我が国では、古律による調を用いています。そこに新律が加わったものだから、混乱を招き、矛盾が生じることになってしまったのです。そこら辺の問題は、『律義』を読めば納得できますよ」


 姫君は妙ににこにこしている。


 菖蒲王丸は嫌な予感がしたのだったが、下がって自室に籠もったのだった。


 さっそく『律義』を開いてみる。灯火を文机に寄せ、必死になって読み始めた。


 明日までの宿題だというのだ。


「こんなもの、たった一晩で覚えられるのか?」


 すぐに弱音を吐く。


 無茶な姫君だと思った。姫君は簡単だから、平気だなぞと嘯いていたが。


 徹夜なんかしたくないのに。


 頑張って読み始めると、これには唐土の楽律のことばかりが書かれていた。


 一つの均(完全八度音程内)には、音は十二個存在する。国によって様々で、唐土の遥か西では、十七あるとする国もあれば、二十四もあるとする国もあり、九しかないとする国もあるのだ。唐土ではたまたま十二あると考えているのである。三分損益法で算出した結果、十二存在した。故に十二律というのである。


 十二律の第一律は黄鐘(こうしょう)という。「鐘」を「鍾」と記すこともある。夾鐘、林鐘、応鐘という音もあるが、黄鐘以外は「鍾」の字を用いることはない。


 黄鍾は基準である。十二律は(せい)と同様、三分損益法によって算出される。その基になるのが黄鍾である。


 黄鍾の長さは唐では九寸。唐の尺度で九寸の音高は、本朝の神仙(ハ音)に相当する。


 まず黄鍾を三分損一して、八律(完全五度)上の音を求める。黄鍾の八律上は林鐘(ト音)である。


 林鐘を三分益一すると、六律(完全四度)下の音・太簇(ニ音)が算出される。


 太簇を三分損一して、八律上の南呂を求める。南呂を三分益一して、六律下の姑洗を求める。姑洗を三分損一して応鐘を。応鐘を三分益一してスイ賓を。


 以下も、三分損一と三分益一を交互に行って、十二個全ての楽律を求める。


 これらを音の高さの低い順から並べ替えると……黄鍾、大呂、太簇、夾鐘、姑洗、仲呂、蕤賓、林鐘、夷則、南呂、無射、応鐘となる。


 これらの十二律を唐土では永く用いていた。礼楽でも宮廷俗楽でも。


 本朝にもこの楽律が伝わり、平城京の頃から暫くこれが使用されていた。


 これらの十二律(絶対音高)と、七声(音階)とを組み合わせると、調ができる。


 (きん)というものがあって、十二の音それぞれを基音とした八度音程内のことである。


 黄鍾均といえば、黄鍾から応鐘までの十二の音。


 林鐘均といえば、林鐘から蕤賓まで。


 無射均ならば、無射から南呂までの十二の律である。


 均は十二の律それぞれが基音となるので、全部で十二種ある。


 それぞれの均に七声を組み合わせて調を作る。


 例えば、黄鍾均に七声を組み合わせると、宮は黄鍾で、商は宮の三律(長ニ度)上であるから、黄鍾均では太簇である。角は商の三律上だから、黄鍾均の角は姑洗で、変徴は蕤賓、徴は林鐘、羽は南呂、変宮は応鐘である。


 太簇均ならば、宮は太簇、商は姑洗、角は蕤賓、変徴は夷則、徴は南呂、羽は応鐘、変宮は大呂となる。


 話を黄鍾均に戻す。黄鍾均の宮は黄鍾だが、これを主音とする調を、黄鍾均宮調という。


 黄鍾均宮調を構成する音階は、黄鍾、太簇、姑洗、蕤賓、林鐘、南呂、応鐘。


 黄鍾均で商を主音とする調は、黄鍾均商調。その音階は、太簇、姑洗、蕤賓、林鐘、南呂、応鐘、黄鍾。


 黄鍾均の角調の音階は、姑洗、蕤賓、林鐘、南呂、応鐘、黄鍾、太簇。主音は姑洗。


 黄鍾均の変徴調は蕤賓を主音とする調で、黄鍾均徴調ならば、林鐘を主音とし、黄鍾均羽調は南呂が主音、黄鍾均変宮調は応鐘が主音となる七音音階である。


 仲呂均宮調ならば、仲呂が主音。仲呂、林鐘、南呂、応鐘、黄鍾、太簇、姑洗という音階(第五旋法に同じ)。


 仲呂均商調の主音は林鐘、音階は、林鐘、南呂、応鐘、黄鍾、太簇、姑洗、仲呂となる。


 仲呂均角調は南呂が主音となる調。


 仲呂均変徴調は応鐘が主音。


 仲呂均徴調は黄鍾が主音。黄鍾、太簇、姑洗、仲呂、林鐘、南呂、応鐘という音階(ハ長調に同じ。徴調は長調と等しい音階)である。


 このように、均は十二あり、それぞれ七調ずつ生ずるので、理論上、調は八十四調存在する。


「……はあ?」


 ここまで読み進めてきて、菖蒲王丸は頬をひきつらせ、『律義』に文句をつけた。


「八十四もの調が、実際使われるか?」


 このことを七声十二律八十四調の理論というが、その理論は多分、理解できた気はする。


 だが、八十四の調というのが、余りに非現実的である。


 そこで、二十八調の理論というものが、唐の宮廷俗楽の中で生まれたと『律義』は述べている。


「あ、なんだ。そうか」


 菖蒲王丸はほっとした。


 もし、本当に八十四もの調が実用されているのならば、調の趣が八十四もあることになり、その八十四もの調の微かな雰囲気の違いを聴き分けなければならない。


 唐の俗楽二十八調の理論は、七つの均と四つの声からなる。


 唐の天宝頃に生まれた理論で、黄鍾均、太簇均、夾鐘均、仲呂均、林鐘均、南呂均、無射均の七均と、宮、商、角、羽の四声とを組み合わせる。


 すなわち、黄鍾均宮調、黄鍾均商調、黄鍾均角調、黄鍾均羽調、太簇均宮調、太簇均商調、太簇均角調……と、計二十八調が生じる。


 二十八調には固有名がある。


 黄鍾均宮調は「黄鍾宮」、黄鍾均商調は「伊越調」、黄鍾均角調は「越角」、黄鍾均羽調は「黄鐘調」と称す。


 しかし、理論上は二十八調あっても、実用されていたものは半数に過ぎず、やはり音楽的理由から、二十八調も必要ない。


 実用されていた調。


 黄鍾宮(黄鍾均宮調)、伊越調(黄鍾均商調)、黄鐘調(黄鍾均羽調)、沙陀調(太簇均宮調)、大食調(太簇均商調)、大食角(太簇均角調)、般渉調(太簇均羽調)、双調(仲呂均商調)、道調(林鐘均宮調)、小食調(林鐘均商調)、平調(林鐘均羽調)、水調(南呂均商調)、林鐘角(無射均角調)。


 ところで、これら、調、均のもととなる十二律(絶対音高)は、礼楽のものと等しいものを使っていた。しかし、二十八調の理論は、宮廷俗楽から生まれたものである。


 二十八調は本朝にももたらされた。だが、その後間もなく、唐土の宮廷俗楽にては、楽律改革が行われた。


 礼楽と等しいそれまでの楽律を改め、宮廷俗楽では各々の律を高くすることにしたのである。それまでのものとは、各々三律(長二度)離れている。


 すなわち、新しい楽律は、黄鍾の音がそれまでの太簇と等しくなり、新大呂は旧仲呂と等しく、新太簇は旧姑洗と等しくなった。


 それにより、二十八調の理論も改められた。


 それまでの黄鍾均は無射均だ。それまでの太簇均が黄鍾均となった。


 本朝にもたらされた二十八調の理論は、古い楽律によっている。


 例えば、黄鍾宮を無射均宮調とは言わず、相変わらず黄鍾均宮調としていた。


 しかし、その後も渡唐する人々がいた。彼等は新しい楽律を持って帰朝した。


 で、彼等に持ち帰られた新しい楽律が、それまでのものと混じり合ってしまったのだった。そして、今日のように、理論に食い違いが生じる結果となってしまったのである。


 楽制は理論にかなった正しい形に整えられなければならない。


 菖蒲王丸、ここまでくると、頭はこんがらがってきた。図でも書かねばわからない。


 一覧表を作った。


 夜はどんどん更けゆく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ