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正声・十八拍──白芙蓉(陸)

 さて。初めは安友──音仏を嫌っていた菖蒲王丸であったが、才外記の子でもとは宮中の楽人、六位の将曹であったと知ると、彼に対する負の感情は消えた。六年前に行方不明になった人のなれの果て。なんだか気の毒な人のようにも思える。


 そして、音仏は琵琶に長ける。声明(しょうみょう)にも優れ、(ばい)の美声に、菖蒲王丸は寧ろ憧れさえ抱くようになっていた。


 音仏の方も、菖蒲王丸の素直さ、可憐さを愛で、その音楽の才には舌を巻いた。


 いつしか(てて)なし子の菖蒲王丸にとって、この盲僧は、父とも兄とも思える存在になっていた。


 だが、讃岐は菖蒲王丸が音仏と親しくするのを、あまり好ましく思っていないようだった。


 菖蒲王丸は友達もいないので、何となく淋しいような気がするのであろう。同年代の友ができれば、音仏なんかと遊びたいとは思わなくなるだろう。


 だが、間もなく彼にも幼い友ができるのである。


 松寿(しょうじゅ)というその子と知り合ったのは、その子の父のことが理由だった。


 松寿の父は兵衛尉有時(ひょうえのじょうありとき)という。以前は六条右大臣家政所令でもあった。だが、今は病中なので出仕は控えて、自宅療養中だった。


 清花の姫君には兵衛という女房が仕えているが、彼女は有時の実の娘である。


 有時には、娘一人しか子がなかった。男子が必要だったので、養子をもらった。それが松寿である。


 つまり、松寿は有時の実子ではなく、女房の兵衛とは義姉弟だった。


 松寿は養父の家にいて、主家に参ることはなかった。


 ところが、ある時、有時の家に夜盗(やとう)が入った。物は持って行かれるし、家の者達で何人か斬られたのもいる。幸い死者は出なかったが、主の有時自身が太刀傷を負った。


「大変だ。どうしよう」


 松寿は夜盗が入った時、どさくさの中に逃げ出して、義姉に急を知らせなければと、主家までよろめき走り、兵衛に助けを求めたのである。


 それは一大事と、すぐ六条右大臣殿が動いて、適切な対応をしたので、事件は解決した。


「松寿は幼いのに、恐ろしいのをこらえて、よく知らせに来てくれた」


と、主家の覚えめでたくなり、将来楽しみだと評された。


 それで、右大臣殿の子息の宰相の右大将殿が、度々松寿を召しては、何かと目をかけるようになったのである。


 松寿が右大臣邸に参るようになって間もなく、菖蒲王丸と知り合った。二人がいつどこで出会ったのかは不明だが、子供だ。知らない子同士が遊んで、そのまま友達になるというのは、よくあること。いや、友達とは、そうやってなるものだ。


 讃岐が気づいた時には、二人はすでに大の仲良しとなっていた。讃岐はそれもあまりよい顔していない。


「遊んでばかりいて、困った奴」


と、松寿と遊びたがる菖蒲王丸を睨み、遊ぶことは勉学の妨げとなるというので、遊び相手の松寿を悪い仲間のように言った。そして、


「琴の練習はどうした?」


と叱って、息子にさぼり癖がつかぬよう、努めた。


 姫君もちょっと気の毒に思ったが、次代の琴界を背負って立つ才子なのだからと、厳しく躾けた。練習を一日たりとも休んではならないと命じた。


 だから、菖蒲王丸はあまり頻繁には松寿と遊べなかった。だが、この二人は、不思議と惹かれ合うものがあり、会わない日でも、互いを思い遣らないことはなかったのである。





 さて、大納言局が内裏を退出して、里下がりすることになった。


 彼女は帝の寵愛を得て懐妊していた。里下がりは出産のためである。


 彼女の母は家女房で、身分卑しく、適当な邸もない。それで、暫く六条西洞院第に住まうことになった。


 かつて中宮も、東宮を出産した折は、六条西洞院第でしたのである。大納言局は以前中宮が住んでいた東の対に入った。


 清花の姫君は、もしかしたら未来の万乗の君が、ここの声をあげるのかもしれないのに、病みがちの身がいては不吉であろうと遠慮して、西二の対の住まいを出た。暫く嵯峨の山荘に移っているというのである。


 菖蒲王丸も音仏も引き連れて、姫君は山荘に移った。


 そこへ、朝廷よりの勅使が来たのは、山荘に来て三日目のことである。


 勅使はまたしても、母君の二位殿だった。


 この日はたまたま父君・右大臣殿も、兄君右大将殿も山荘に来ていたので、勅使の二位殿を入れて、久々の家族水入らずとなった。


 こういう気遣いを示す帝は、やはりなおも姫君に対して特別に思うところあるようである。


 しかも、二位殿の告げた内容が、実に驚くべきものだった。


「主上はこの度、音声を失いし鳳勢の御琴を、修理なさりたいとのご意向です。その修理を右大臣の姫君に命ずるとの仰せごとでした。故に、わらわは使者として、暫く鳳勢の御琴を預け下さる由、沙汰しに来ました」


「えっ!?」


 三人が目を点にしている中、二位殿は鳳勢を姫君の前に置いた。


 額づき、琴に拝礼する姫君だったが、確かに紛れもない、本物の鳳勢である。


 鳳勢という名については、そういう琴式もあるが、この名器は鳳勢という銘なのであり、琴式は仲尼式である。


 いったいどうした風の吹き回しか、帝はあれほど手放すのを惜しんだ鳳勢を、突然、姫君に預けたのであった。


「いかがあろうか?修復できそうですか?」


 二位殿が尋ねる。


 姫君、手の震えを必死に抑えつつ、鳳勢に触れてみた。


 昔、師の政任が、少しも出し惜しみせず、度々姫君に触らせていた琴である。幼少期の姫君は、この琴で政任に、森羅万象の楽を聴かせていたのだ。


 懐かしくも悲しい思い出の詰まった琴。


 政任の後は広仲に、その後は韶徳三位殿に受け継がれた。


 主を選ぶというこの琴は、三位殿をこそ生涯の主とし、いかなる者の手にも触れられることを拒んだ。三位殿の死が鳳勢の死でもあった。三位殿が死んだ時、この琴も音を失ってしまった。


 天下第一の琴が音無しでは困る。帝は何とかして音声を取り戻したいと思い、あれこれ手を尽くしたがならず、今回こうして姫君に修復を命じたのであった。


 主を思って、音を失った琴。


 何だか自分と重なって見えて(かな)しく、鳳勢が例えようもい程いじらしく思える。


 姫君はそっとやさしく撫で、抱き上げ、膝の上に置いた。


 何気なく絃に触れると──この世のものならぬ天上の楽音が鳴った。


「えっ?」


 家族揃って驚愕する。


「音が、鳴った……」


 だが、姫君自身が一番驚いた。


 再度、別な絃を弾いてみる。


 やはり、神秘に満ちた、たとえようもないほど美しい音色が響き渡った。


「ああ、姫君……」


 兄君の右大将殿が感涙に咽び、思わず姫君を抱きしめる。


「鳳勢はあなたを選んだ。あなたを主と認めた」


 韶徳三位殿のご意志にや、三位殿を恋うる人なる故に、とこの兄君は確信した。


 姫君は懐かしい音色が、昔よりも一層深みを増して美しく響いたことに感激して、やはり三位殿を思わずにはいられなかった。


 思い出深い『烏夜啼』を弾く。


 恐ろしく甘やかな、けれど一途な曲。


 姫君は、こんな音色を奏でるようになったのかと、両親もちょっと意外に思った。


 鳳勢の音は、少しも色褪せてはいない。実に美しい、まさに天下第一の音勢だった。


 ところが、この日の夜から再び、姫君は高熱を出すようになり、日に日に衰弱していったのだった。





 大納言局がついに姫宮を出産した。


 姫宮とて有り難きこと。右大臣殿は大いに喜び、帝も喜んだ。


 この姫宮には、暫く後に内親王宣下があった。のちに賀茂斎院に卜占される瓏子(あきこ)内親王である。


 大納言局はしばらく里にいたが、その後、姫宮とともに後宮に戻った。


 大納言局がいなくなると、右大臣殿はすぐに病の清花の姫君を山荘から六条西洞院の本宅に移した。手元に置く方が安心できる。よい医師をつけて、ひたすら看病した。


 二位殿も宮中を辞して戻ってきていた。


 菖蒲王丸は姫君が戻ったために、ともに戻ることができた。で、再び松寿と遊べるようになった。


 と、喜んでいたのだったが、それも束の間。


「兵衛。すまぬが松寿は寺に入れるぞ。出家させる」


 ある時、右大将殿が兵衛を召してそう言った。


「何故に?」


 兵衛は唐突過ぎる話に驚いたが、それも当然だ。義弟を出家させよとの理不尽な主命に嘆いた。


「いや。気持ちはわかるが……。さる陰陽師が言うのだ。松寿は寺に入れた方がよいと。さもなくば、養父の身に災い起こると。有時の健康を願う故のことだ。曲げても聞き入れてもらいたい」


「……陰陽師の言うことであるならば……」


 兵衛とて、父の身は気にかかる。災い生じると聞かされれば、承諾するほかない。


 かくして、将来は出家するという前提で、松寿は山門に入ったのであった。稚児名は薬師とか云々。


 せっかく養子にもらった子だが、仏門に帰依することは悪いことではあるまい。何より主命である。泣く泣くだが、有時も承服した。


 それから程なくして。


 どうしてそういうことになったのか、兵衛は右大将殿の寵愛を得て、嵯峨の山荘に住まわされることになった。


 それまで、兵衛は清花の姫君の女房だったのだが、そちらは辞して、愛妾として生きることになったのであった。


 その山荘には、盲僧・音仏がいた。


 音仏は大納言局の里下がりの折、清花の姫君と共に山荘に移っていたのであった。姫君はその後、洛中に戻ったが、音仏はそのままここに留まっていたのである。


 この山荘の管理は、姫君の祖父君・洞院中納言殿の乳父が行ってきた。音仏はその手伝い役という形で、ここにいる。


 音仏はもと楽所の琵琶弾。吹き物も勿論するし、弾き物だって、琵琶ばかりではない。


 琵琶に心を寄せてはいたが、箏や龍笛もよくした。


 しかし、今ではすっかり法師数寄者になってしまっていた。


 比叡山に入ってからは専ら声明(しょうみょう)を修行していた。


 この頃の天台声明にては、絶対音高をもって声明を唱えるようになっており、調子を定め、各曲の基音を導いてくれる楽器がないと、ほとんどの人は正しい音高で唱えることができない。普通、人間は相対音感しか持ち合わせてはいないからだ。


 だが、音仏はごく稀な質で、十二律の絶対音高を全て感覚で所持していたのだった。故に、楽器で音を取らなくても、楽器なしで基音を歌うことができた。


 比叡山広しといえども、そんな人は音仏の他には二人しかいなかったので、比叡山では大層重宝されたものだった。


 だが、疱瘡を病み、盲いてしまうと、博士(声明の楽譜)を読むこともできない。


 読譜できないことに苛立ち、音仏はついに声明を投げ出し、再び琵琶の道に戻って比叡山を飛び出したのだった。今となっては、声明の日々も懐かしいが。


 根本中堂。大勢の衆僧達。導師の朗々たる声。引声阿弥陀経……


 衆僧の声。低い声。そして、天から降ってくる鳥の囀り。


 音仏には、それ等の荘厳さが懐かしい。一度、天台声明だけでなく、真言声明も体感したいと東寺を訪れたことがあった。その折も、理趣経法会そのままに、堂内に宇宙が広がっていた。この世はまさしく清浄。妙適清浄もまた菩薩。この世の全てが清らかだ。


 音仏は山荘の、特に琴堂の管理を任されている。その堂内に入って、一人声明を唱えると、そこには宇宙が広がる。


 今の音仏には琵琶もない。声明もない。妬みも怨みもない。


 韶徳三位殿も病姫君も。友も。


 ただ清らかなこの世と仏の声だけである。


 音仏は変わったのだ。





 六条西洞院の姫君は、そういえばと急に思い出し、


「昔よく読んだ楽の理論書が、山荘に置いてあることをすっかり忘れていました」


と言った。そして、菖蒲王丸に命じた。


「琴堂の中に置いてあるので、持って来て下さいますか?」


「はい。かしこまりました」


 急に松寿が山門に入ってしまったので、この頃少し元気がなかった菖蒲王丸である。山荘に行けると知って、とても嬉しそうだった。山荘に行けば、音仏に会える。


 姫君から書籍名を記した紙を手渡され、それを持って嵯峨に赴くその足取りは、とても軽やかだった。


 山荘の観嫦娥殿には、今は兵衛が住んでいる。その脇をすり抜け、琴堂の中に入った。


 姫君からは三冊持ってくるよう命じられていた。紙に書かれた文献を探す。


 あれこれ探って、ようやく目当ての三冊を揃えて、さて帰ろうと、堂を出た。


 すると。


 邸の南の方から、琵琶の撥音が響き抜けた。


「あ。音仏法師の音だ」


 菖蒲王丸は音の主を音仏と認識して、音の源へ近づいて行った。


 湯谷の井の傍らで、音仏が一心に琵琶を弾いていた。


 菖蒲王丸はじっとそれに聴き入った。だが、


「あれっ?」


とすぐに思って、小首を傾げた。


 とても珍しい曲を弾いている。聴いたこともないような曲だ。もしかしたら、秘曲の中の一曲かもしれない。でも、どこかで耳にしたことがあるように思った。


「この曲。もしかしたら、知っているかもしれない……」


 でも、どうして知っているのだろう。どこで聴いたというのだろう。


 何だか無性に気になった。心の臓が異常を知らせ、激しく鳴っている。胸騒ぎ。


 何か恐ろしいことが起きている。


 菖蒲王丸は一目散にその場から逃げ出した。一気に山をかけ下りる。


 こわい。こわい。何だろう。


 菖蒲王丸はぎゅっと目を瞑って、強く強く頭を振った。全速力で走り抜けた。

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