正声・十八拍──白芙蓉(伍)
同じ年の秋。
清花の姫君は、双の岡の琴庵へ赴こうとしていた。
何参の死後、久しく絶えていた月毎の例会が復活して、既に四年。
病人の清花の姫君は、この四年で五回しか出席できていない。
だがこの頃は、たまの一日くらい出掛けても問題ないような状態が増えていた。
姫君は菖蒲王丸を連れて、その母・讃岐ら数人の女房と共に、琴庵へ向かっていた。
牛車をゆっくりとやり。その途中のことだったのである。
もう間もなく琴庵という所まで来た時。
最初に発見したのは菖蒲王丸だった。
菖蒲王丸、牛飼と並んで、何やら楽しげに話をしながら歩いていたが、突然、
「わ、すっごく汚い襤褸法師。琵琶法師」
と、行く手の道端に力尽きて座り込んでいる、乞つ食の琵琶法師を見つけた。
だが、法師は貴人が通るらしいと知っても、物乞いする様子はない。視力を失っているらしく、牛車の一行の通り過ぎる気配を全身で感じ取って、各々の人物像まで聞き定めるように、その身を研ぎ澄ましている。
菖蒲王丸の声に、牛飼が意外な反応をした。
何か幽霊でも見たかのような、急な慌て方と驚愕とを共にして、牛まで止めてしまった。
車が急停止したので、中の人達は驚いて、
「何事かっ!」
と、物見窓から讃岐が顔を出し、牛飼を叱りつけた。
安静にしていなければならない姫君の身に、害となるではないか。
だが、讃岐に叱咤されれば、普通誰でも縮みあがってしまうものなのに、今日の牛飼はいつもと反応が違う。法師の破れ袈裟を指差し、ただぱくぱくと口を動かすばかり。
「む?」
讃岐もそちらを見たが、途端に彼女も牛飼よろしく過呼吸起こして、噎せ込んだ。
「どうしたんですか、母上?」
外の菖蒲王丸は首を傾げた。
そんなに道端に琵琶を抱えた法師が座り込んでいるのが、珍しいだろうか。
確かに汚いし、衣も破れて穴だらけだが、その割には品のある顔立ちをしている。煤けて黒くなっているが、その顔は相当色白であろう。そして、まだうら若き人でもあるようだ。盲人ではあるが、容は悪くあるまい。
人々が自分を見て卒倒していると感じ取った法師は、ちょっと困ったような顔をしている。
姫君と讃岐の乗っているものとは別の車には、佐保姫と竜田姫の姉妹が乗っていたが、前行く姫君の車が突然止まったので、こちらも停車するしかなく、
「何なの、いったい?」
と、姉妹揃って窓から外を見やった。が、
「やっ安友っ!?」
と、竜田姫が驚きの声をあげた。すぐ、車から外へ飛び出す。
「安友!安友ではないの!」
竜田姫は履き物も履かずに、法師の前に跳んで、その襤褸の袖を引っ張った。
「え、竜田姫?」
法師はついそう答えてしまった。
「やっぱり、やっぱり安友!」
竜田姫が法師に抱きついた。
しまったと法師が気づいた時には、もう遅かった。
「姫君、姫君!」
と、もう竜田姫は歓喜し、車内の姫君を大声で呼ばわった。
気づいて、
「何事ですか?」
と、姫君も物見窓を覗こうとする。魂の抜けた、殻のようになって突っ立っている讃岐のすぐ横から外を見ると。
はっと姫君は我が目を疑った。
「安友……」
だが、すぐに姫君は、変な顔して周囲の大人達を観察している菖蒲王丸に気づいて、
「讃岐。琴を持って、菖蒲王丸を連れて、先に琴庵に行って」
と、脇の讃岐に注意した。
讃岐もはっと我に返り、
「あ、は、はい。かしこまりました」
と、開元無銘雷氏琴を持って、下車する。
「菖蒲王丸、先に行けとの仰せ言じゃ」
と、好奇心に溢れる菖蒲王丸の手を引いて、有無も言わせず、その場から連れ出した。
讃岐母子の姿が見えなくなると、姫君は乞つ食僧に向かい、
「安友。いったい今まで何をしていたの?」
と叱りつけて、よよと泣いた。
「姫、君……」
ここでの遭遇は、法師にとっても想定外のことであったらしい。非常に不都合そうな顔をして、俯いてしまった。
「何とか言ってよ!」
そう責めるのは竜田姫である。
「中務」
姫君は泣きながらも冷静に、傍らの中務に命じていた。
「すぐに邸に使いを出し、才外記に安友が見つかったと伝えるように。そして、すぐに迎えの車を寄越すように。安友を拾って連れて帰ります」
中務、かしこまりましたと、外の従者にかくかく告げ、駒の従者一人、洛中へ急ぎ帰った。
「何か言うことはないの?」
竜田姫が法師に言う。
盲いた人はただ地面に両手をつき、牛車に向かって平伏するのみであった。
才外記の子・前将曹安友見つかるの報に、六条右大臣家は鼎が沸くような騒ぎとなった。
安友の母なる人は、こは夢かと俄かには信じられず、姫君が連れ帰るまで半信半疑であった。だが、やがて竜田姫に手を引かれてやって来た安友の襤褸な姿を見るなり、
「ばかっ!!」
と大声で怒鳴って、いきなりばちんと平手打ちにした。
「すみません、母上……」
安友、そう言うしかなく──。
才外記は涙に咽んだ。汚らしい我が子を、ぎゅっと強く抱きしめた。
だが、息子が盲いていると知ると、嬉し涙も別なものに変わる。
安友の従妹である竜田姫も、安友が乞つ食であることよりも、出家の身であることよりも、何よりも盲いていることに驚くばかりなのであった。
姫君も琴庵に行くのをやめて、そのまま帰宅してしまった程、安友の変貌ぶりに衝撃を受けていた。まったくもって、昔の管絃者安友の面影はない。
夜になって、琴庵に行った菖蒲王丸も帰って来た。菖蒲王丸は姫君が来なかったことを気にしていた。
だが、超難曲の『流水』をうまく弾くこつを兼保などから聞くことができ、その喜びに、昼間の出来事も忘れていた。
邸に戻ってからも、『流水』の練習に励んでいた。何となく掴みかけている。これは多分、二、三日中にかなり弾けるようになるに違いない。
菖蒲王丸は難しい『流水』が弾けたことが嬉しくて、早く姫君に伝えようと思い、その病室へ急いだ。まだ宵の口。いくら病人でも、まだ寝てはいない筈。
おまし所の辺りには、女房達はいないようである。御簾の前から中へ向かって、来たことを告げようとした時、おやと思った。
中から人の声がぼそぼそと聞こえてくる。誰がいるのか。何と話しているのか、その内容まではここからでは聞きとれない。
菖蒲王丸は少し右に寄って、そこの柱の陰から中の様子を窺った。丁度そこから、姫君の病床が見える。
そこには、姫君ともう一人の影があった。
「あ、昼間の法師」
安友──今は音仏という──が、姫君の病床のすぐ脇に座っていた。
二人きりで何を話しているのか。とても親密そうだ。
菖蒲王丸は全身を耳にした。
沐浴して、真新しい法衣を身につけた音仏は、随分さっぱりとし、昼間菖蒲王丸が見た時とは別人にさえ見える。
だが、綺麗に洗い流された音仏の顔には、昼間の黒ずんだ顔の時には見られなかった痘痕が幾つか確認できる。
その音仏の顔を見つめる姫君の眼の色は、実に哀しい。
「疱瘡を病んだのですね?」
姫君はそう言った。
疱瘡の故に、盲いてしまったのだった。
「私を哀れとは思わないで下さい。自ら望んだことです。もう何も見たくないとみ仏に強くお願いすると、このようになりました。見たくないもの、醜いもの、我が罪、全て見えなくなりました」
音仏はそう言った。微笑んで。
「いったい、今まで何をしていたのです?若くして楽所に召し出されたその名誉も、将曹の職も打ち捨てて」
「各地を転々とした後、山門にたどり着きました。そこで出家、結縁して修行も始めました。唄の上手ともてはやされもしたのですが……疱瘡で目が見えなくなってしまいました。そんな私は琵琶を弾くくらいしかなく。何の役にも立ちません。山門を出て、その後は乞つ食暮らし。今日までどうにか生きて参りました」
音仏は言ううちに、次第に顔が曇っていった。ふうっと一つ、大きく溜め息した。
「おやつれになりましたね。随分と青白い顔をしていらっしゃる。ええ、わかりますとも。盲いていても、姫君のお顔の色とて感じとれる」
「……」
「ご病気されましたか?」
「……ええ。少し」
「少し?」
音仏は聞き咎めるようにそう言った。再び溜め息を一つ。そして、やや間をおいてから言った。
「姫君にはとてもお辛いことがあったから──そうでしょう?辛くて、苦しくて、悲しくて。悔しくて寂しい。遣る方ない悲しさ。その心が病を呼んだ。悲しみ過ぎたから、病になってしまわれたのです」
「……」
「姫君。私は姫君を見ていたくなかった。だから出奔したのです。それ程、あの頃の御事は恋渡ってひどかった。目を覆いたかった。いえ、この目が潰れてしまえばいいとさえ……かの呪詛事件のことは知っています。無念の死を遂げられたる方のこと……姫君のお悲しみはいかばかりかと、案じておりました。あの方を思って、こんなに痩せ細って。病み渡って。おかわいそうに。ええ、とてもおかわいそうな姫君よ」
音仏の光を失った目から、涙がぽろぽろとこぼれた。頬を伝うその玉は清らかである。
姫君、つい涙声になるのをこらえて。
「浄化されて。澄んで、すっかり透明になったのですね。こなたは洗い清められて、私とは大違い」
「姫君はもとから透明であらせられる故」
涙の顔に、音仏は笑みを浮かべた。
「病は早く治しましょう。治らなくてもよいとか、もっとひどくなればよいとか、思ってはいけませんよ。昔の姫君に戻って下さい。早く元気になられませんと。案じて、つねならぬ身の方も、いつまでも閻浮にさまよい続けられるしかないでしょう。安心させて差し上げなくては」
どの口がそう言うのか。音仏は我ながらそう思った。
盲いたのは天罰。そうでなくて、何だというのか。
今は心から懺悔している。だから、出家したのでもある。
彼の涙の清らかさは、まことのもの。
しかし、しでかした罪は、永劫消えることはない。
外の菖蒲王丸は二人を見て、何だか腹が立った。何故あの法師は姫君の病床にまで上がり込んで、親しげに話などしているというのか。
菖蒲王丸は『流水』のことなど忘れて、怒って出て行ってしまった。
夜もすがら、姫君と音仏は話をした。
音仏は、放浪中のことをあまり詳しく話したりはしなかった。信時という親友ができたことも、時有と会ったことさえ言わない。ましてや、信時と共に韶徳三位殿をどうしたとは、どうして言うだろうか。
ただ、伊賀守為長の姪君の消息だけは話した。
「伊賀守の姪君ですって!?」
当然、姫君は驚いた。
「はい。私が会ったのは、乙姫君(貴姫君)だけですが。大姫君(希姫君)もお元気なようですね。乙姫君は琴を少し嗜まれるようです。伊賀守殿の法化の琴をお持ちですよ」
「生きて……生きていたの。伊賀で消息不明になって。その時、亡くなってしまわれたのかと思っていたけれど。今、どちらに?」
「上野です」
「上野?……安友、そんな所まで行ったの!?」
姫君はさらに驚愕していた。
ともあれ、清花の姫君は貴姫君の存在を知って、とても嬉しかったのである。
伊賀守にゆかりの品々は全てなくなり、法化だけを持っているというので、清花の姫君は、貴姫君の役に立てたらと願った。
伊賀守は数々の楽書を執筆している。その写本は姫君の手元に幾つもあった。
姫君はこの伊賀守の著書や、様々な楽譜を貴姫君に贈ろうと思った。
余り無理はよくないが、それでも兄君や才外記などに手伝ってもらいながら、それ等を写して、草紙や巻物にした。
それに琴三張をつけて、上野の貴姫君に届けさせた。
使者は上野じゅうを探し歩いて、ついに貴姫君が信時の北ノ方であることを突き止めた。そして、無事、それ等を届けたのである。
貴姫君はこは夢かと驚き、感動した。
やがて、貴姫君からの感謝の文と、礼物を持って使者は帰ってきたが、清花の姫君は、貴姫君が信時の北ノ方であるということに、強い衝撃を受けた。
世の中とは、縁とは、不思議なものにして恐ろしいもの。
しかし、清花の姫君は、礼物に貰った常棣の山桜の苗木を庭に植えさせた。何であれ。貴姫君とは心の交流をしたいと思う。
清花の姫君は山桜の礼を文にして、再び貴姫君に届けさせる。勿論、貴姫君はそれを喜んだ。
以降、清花の姫君と貴姫君は、しばしば文を交わすようになり、いつしか大切な友人となって行くのである。




