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正声・十八拍──白芙蓉(参)

 希姫君は下野に陣を構えていた。下野の一部も法化党領である。


 出陣は、兄・経実の命令であった。


 希姫君は陣中でひたすら待っていた。時が来るのを。


 房清が。その友らが。信時や如意王を担ぎ上げ、挙兵するのを。内紛の勃発を。


 房清が挙兵する気配を見せたら、すかさず上野に向けて出発することになっている。そして、いよいよ内紛勃発となったら、希姫君は時有を攻撃するつもりでいた。


 時有を討ち果たした後は、いよいよ信時を……


 経実は、内紛が勃発したら、大乘党と手を組んで、どさくさに時有も信時も、一門全て死滅させようと言った。だが、希姫君はそれとは少し違う見解だった。


 大乘党と協力した方が手っ取り早いが、それだと終戦後が面倒だ。奪った領地を大乘党と分け合わなければならない。それがうまく分配できるのか。今度は、こちらと大乘党との間で戦になりはしないか。


 希姫君の意見に、経実も頷いた。


「では。実際に戦になってみて、その時の状況で決めればよい。だが儂は後のことより、今のことが気になる。今すぐに時有を滅ぼしたい。支離滅裂な戦でも」


 死に直面している経実なればこその思いだった。希姫君にもわかる。


 だが、希姫君は経実ではなかった。女だった。希姫君には希姫君の思いがある。


 彼女は大乘教理という男が嫌だった。その男と手を結びたくなどなかった。


 そして、やはり彼女は肉親の情を捨てられなかった。


 兄には、状況によっては大乘に頼らず、こちらだけで実行する場合、時有を滅ぼした後、信時も滅ぼすと約束した。


 でも。彼女には、どこか躊躇いが残っている。


 いや、やる。確かにやる。やって、貴姫君を救出する。だが、もし。その妹の夫が善良な人間だったとしたら……?


 いや、それでも必ずやるが!


 陣中の希姫君は、まだ正安の失敗も逃亡も知らない。


 理安が逃亡した翌日の宵。正安が逃亡して、まだ丸一日までは経過していない、下野の陣中であった。


 その夜更けのことだった。


「一大事です!」


 軍議の最中、中間が走り入ってきた。


「何事だ?」


「はっ!大乘小太郎教理が、手勢数騎を引き連れただけで、乗り込んで参りました。殿に会いたいなぞと抜かしておりまする」


「何だと?教理自らがか?」


 雲門入道が訊いた。


「はっ」


「何と!」


 場は色めき立った。希姫君とて色を失っている。


「何と致しましょうぞ?」


 寂意が希姫君の様子を伺う。


 姫は青ざめたまま、しばし何も言えない。


「いったい何しに来たんだっぺ!」


「和睦をしに直に会いにきたか?」


「腹を割って話したいということか?」


 家臣達は口々に言った。


「お会いになりますか?」


 寂意が重ねて問う。


 姫はようやく迷い迷い言った。


「会えば、声で女だということがわかってしまうではないか」


「では、お会いになりませぬので?」


「大乘教理が自ら敵陣に乗り込んできたというに……その大胆不敵な挑みに法化の経実が会わないでは、小心よと笑われよう」


「では、いかがなさいまする?」


「いかにすれば……」


 珍しく希姫君は判断できずにいた。


「殿!」


「殿!」


 皆が答えを待っている。


 困った。


 その時、不意に寂意が咳き込んだ。


「風邪ひいたのけ?」


「申し訳ござらぬ……」


「それだ!」


 雲門が叫んだ。


「殿!殿は風邪で喉を悪くしていることになされませい」


 暫くして大乘党の頭・教理が、手下三人だけを連れて陣中にやってきた。


 教理は大股に歩いて来て、希姫君と真っ正面の席の前に立つ。大柄で、風格さえある。その顔には自信が漲っている。これほど立派な姿の大将があろうか。


 彼は手下に持たせていた瓶子を一つ、右手に取り上げ、それを高く翳しながら大声で言った。


「これはこれは経実殿におわすか。近く、共に上野に攻め込む身。親しく杯を交わさんと、参りましたぞ。いつぞやの戦の帰り以来でござるの。いや、あの時と変わらず、お美しいことじゃ」


 わはははと豪快に笑った。


 希姫君は手で、着席するよう合図した。教理は素直に着席する。


 法化の家臣達は、立って彼を迎えたが、彼が着席すると、皆揃って腰を下ろした。


 希姫君の挨拶の番だ。だが、何も言わずに澄ましている。


 傍らの雲門が口を開いた。


「実は、我が主は昨日からひどい熱で。悪い風邪であろうか。喉を痛めておる。昨日は喉の痛みに悩み、今日は声まで出なくなってしまわれた」


 雲門の言葉を受けて、希姫君は教理に何か言おうと口を開けた。だが、少し空気を吸い込んだ拍子に咳き込んでしまう。


 慌てて雲門が背をさすり、


「お水は?」


と、問うている。


 姫は手を横に振り、咳と戦いながら、何か必死に言っている。雲門には通じたのか、彼は頷くと席を立ち、あなたから白湯を運んできた。


 それを一口、二口飲んで、少し落ち着いたか、もう一口飲むと、咳は止まった。そして、姫は教理を見て何か言った。声は掠れて、空気だけがもれる。


「申し訳ない」


と、口の形からそう言ったことがわかる。


「これはお気の毒に。悪い時に来てしまったようじゃの。許されよ」


 教理は眉を寄せてそう言った。


 本当に騙されてくれたのだろうか。


 教理はこうも言った。


「しかし、ご病弱は妹君であると聞いておるが。ご兄妹故、似ておわすのか」


 雲門は心底申し訳なさそうに詫びた上で、


「されば筆談にて、許されよ」


と請うた。


「おうおう、宜しうござる。勿論じゃ。したが、我が友・経実殿とは、二人きりで杯を交わしたいなあ」


 教理にそう言われて、皆は肝を冷やした。二人きりで酒なぞ、女と知られてしまうことよりも、もっと危険だ。この盗賊が、希姫君を殺さないとも限らない。


「それは……」


 雲門が反対しかけた。だが、希姫君は右手を前に出し、掌を広げて制止する。そして、教理を真っ直ぐ見据えて一つ大きく頷いた。


 改めて場を設え、希姫君は一対一で、教理と酒を飲むことになってしまった。


 陣中の床に円座を敷き、酒と肴を膳に置く。姫の右膝辺りの床に硯と筆、紙が置かれている。


 教理は姫と向かい合って座った。


「やっと会えたな」


 教理はにやりと笑った。ぞっと姫は鳥肌立てた。


「戦場で一度会って。あれ以来、貴殿が忘れられなくなってしまった。再会できて嬉しいぞ。なあ、経実殿。これからは毎晩、こうして二人で過ごしたいものだなあ」


 教理が直接出向いてきた理由はそれだ。和議。


「どうじゃ、経実殿。貴殿も儂と一つになりたかろう?」


 希姫君は瓶子を持った。教理の杯に注ごうとする。まだ、この盗賊と今すぐ手を組むとは決めていない。しかし、戦局によっては、手を組む可能性は大いにある。愛想を見せておいた方がよい相手だ。


 教理は素直に杯を持ち、酒を受けた。そして、一気に飲み干す。


 もう一杯注いでやろうと、姫は一度膳に置いた瓶子を再び持つべく、手を伸ばす。


 と、いきなり教理が姫の手首を掴んで、ぐいと引き寄せた。


 姫は魂を失い、身動きできなくなってしまった。


 にやと教理が笑った気がした。


 だが、教理は姫の手に自分の杯を握らせると、すぐ手を離した。


 姫は手が震える。その杯へ、教理が酒を注ぐ。片手では支えきれず、姫は両手でそれを持ち、一気に飲み干した。


「ほう。いい飲みっぷりよ。惚れたわえ!」


 教理が手を打って大喜びする。姫は生きた心地がしない。すぐ杯を置いて、手を引っ込めた。


「なあ、経実殿。儂と手を携えて行こうよ」


 改めて教理が言ったので、姫は一つ大きく息を吸った。そして、筆を取ると、何やら紙にさらさら書き始めた。


 書き終えると、紙を教理の方へ押しやる。


 妹が上野介の室だという旨書いてある。


「今からその妹君を攻めるのでおわそうが?もしや、肉親の情に負けて、攻め倦ねておわすのか?そこまで大事な妹君なのに、あっちと和睦せぬのは何故じゃ?」


 教理の言葉は尤もなれど、姫はとても腹が立った。


 教理は、けれど、全く意に介さない様子で、手酌で飲み始めた。猩猩大酒飲みのようだ。そういえば、赤ら顔だ。愛嬌の欠片もない面構えだが。


「ま、もっとも貴殿も頑固なら、妹君も頑固なのでおわそうの。貴殿が和睦したいと言っても、聞く耳持たぬのでおわそうよ。女というのはそういうものよ。恋なんてものは、女にはないのよ。女の頼みは肉体の記憶だけ。抱かれた男が全て。好きも嫌いもないわさ。抱かれたら、その快楽が忘れられず、その悦びをもたらした男の肉体に溺れる。その男の体でないと、もう駄目なんだわ。たとい嫌いな男だったとしても、もう虜よ。恋しい男より、自分を貪る男。女とはそういうもの、そうでござろう?妹君も、もう兄も姉も関係ないのではないか?夫が全て。そうだろ?」


 何と醜い下世話か。姫は憤慨した。思わず怒鳴り返しそうになったが、必死に堪えて、紙に書く。


 和睦に応じなかったのは、こちらだ、妹は和睦を望んでいたと。


「ふうん?」


 教理は興味もなさそうにそれをちらと見て、あとは酒を飲むばかりである。


 暫くそうしていたが、ややあって、また教理が言った。


 それにしても、よくしゃべる盗賊である。


「人間というものは悲しいものだな。犬猫同様、子孫を生み出すことが生涯の最も大切なる仕事であるけれども……子というものは自分の子であるというのに、自分ではないのだ。自分に似た別の生き物だ。自分そのものであったらよいのにな。自分が自分を生み出し、子々孫々、永遠に自分が続いて行けばよいのに……子は自分が半分だけ。儂は半分しかいない。残りの半分は、子を産んだ女。何で半分は母親を受け継いでしまうのだ?」


 この男。いったい何を言っているのだ。つくづく自分が好きな男だ。


「女というものは。か弱くて頭が悪い。そして、心だけで生きている。鬱陶しい生き物だ。美しくありたい、若くありたいと、化粧を塗りたくり、派手な衣で飾り立てる。戦にも出られず、武術もこなせず、学問もないのに、くだらないことにばかりに力を発揮する。そんな女が半分入ってしまうんだぞ、儂の子に」


 姫は呆れて、怒りもどこかに行った。


 紙に書く。才能ある女を選べばよかろうと。


 教理はにやっと笑った。


「いい女はなかなかいないよなあ。儂の子を産むに相応しい女。軍神の如き子を、間違いなく産む女は。なあ。我等は手を組まねばならぬぞ。儂の妻は希姫君じゃ!」


 教理の目。姫は生涯忘れられないだろう。


「欲しいぞ、希姫君。希姫君の子が。儂の子が半分は希姫君であったとしても、いや、希姫君の血が流れているからこそ、儂の子は軍神となるに違いない。希姫君の子しか欲しうない。儂が今夜来たわけは。儂は希姫君をもらいに来たのよ」


 気づかれていた。初めから。この男は、以前、桜町館で会ったあの時から、気づいていた。


 恐ろしい予感に、姫は身構えた。この男と二人きりだなんて。


 だが、何とも幸運なことに、この時、正安が帰ってきたとの報告が入った。


 姫は報告にきた中間をそのまま側に留めて、重要な用ができたから、もう相手はできぬという旨を教理へ、なおも紙に書いた。


「それは残念」


 意外に素直に教理は諦めた。


「では、そろそろお暇しよう。だが、次に会う時には必ずもらう」


 舌なめずりすると、教理は帰って行った。


 教理と入れ替わりに、正安がやってくる。


 希姫君はもう経実の顔に戻っていた。


「如何であった。信時の乳父は?」


「……申し訳ございませぬ。露見致しました」


 がばとひれ伏した。


「腹切る覚悟にございまする」


「待て。貴姫君か?貴姫君が言わねば、露見するまい」


「……」


 正安は黙ってしまった。まことに言い難い。


 希姫君はふうと一つ息を吐き出した。


「貴姫君はどうやら真実、夫に忠実であるようだ」


 急に先程の教理の言葉が蘇った。教理の言ったことは、本当なのだろうか。女の体と心というものは……


 それから、奥へ入って暫し眠ることにした。といっても、とても眠れたものではない。


 正安は失敗した。今後の対策をどうしたものか。


 大乘の手を借りなければならぬか。内紛なくとも、教理と協力すれば。


 いや、それは、あの男のものになるということだ。


 姫の膝元には、赤子が眠っている。


 妹の子。烏丸殿一門の子だ。


 この子をやると妹は言った。


 そう言づかって預かってきたと、この宵、理安が帰って来て言った。


 そうして今、初めて目にする甥と共にいる。


 妹は言った。養子にするもよし。殺して首を手土産に、大乘党と手を組むもよし。


 欲しい──と教理は言った。


 この子の首を手土産にと、妹は……


 この子の首を、欲しいと言ったあの男のもとに持参して、あの男のものとなる……


 いや、しかし。


 腹だ。女は……


 あの男は、希姫君を女と知っていた。そして、その身を欲した。それは、女としてか?


 いや。腹として。そうではないのか?


 この女に我が子を産ませたい──愛する女に対する男の愛。それとは違う、あの男のは。


 小太刀を抜いた。眠る赤子を睨めつけて。


 翌日。報せがあった。


 経実が昨夕、亡くなったと。


 予め決めていた。


 経実は死んでも、その死は隠すことを。


 死んだのは経実ではない。


「私は死んだ。希姫君は死んだ。女はもうどこにもいない。男だ。男経実は今後も生きていく!」


 希姫君は女を捨てることを決意した。


 死んだのは希姫君。経実は生きている。


 だから、二度と女に戻ることはない。姿も。心も。

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