正声・十八拍──白芙蓉(弐)
理安が突然、時有の子の藤若を襲った。
理安は十二安の中では最も俊敏であり、刺客の適任者であった。今まで仕損じたことはなく、そして必ず逃げ切ってきたのに、今回は藤若を殺すことはできなかった。
いや、かすり傷さえ負わせることもできずに、その場で捕らえられてしまったのだった。
捕らえられた理安が、厳しく締め上げられたのは、当然のことだった。
だが、なかなか自分の名前は言わない。素性を頑なに口にせず、また、藤若を狙った理由も目的も白状しなかった。
だが、拷問を続けること二日。苦痛には勝てなかったか、遂に彼は白状したのだった。
「何故、藤若君を狙ったか。それはこの身にもわかり申さず。この身は藤若君を殺すよう、さる人から依頼されただけなので」
あくまでも、彼は雇われ刺客に過ぎないというのだ。
では、彼に藤若を殺せと依頼したのは誰なのか。
理安は躊躇いつつも、さらに締め上げられて、ついに言ってしまった。
「ご家中におわそう。房清とて、上野介殿が御乳父が」
その話を聞いて、貴姫君は理安の目的を知った。
理安の目的は、藤若を殺すことではあるまい。そして、わざと捕まったのだ。
そして、貴姫君はこの時はまだ知らなかった。十二安はもう一人潜入していたことを。
理安が白状したことにより、房清の謀反が疑われた。
房清は、
「身に覚えのないことでございます!濡れ衣です!でっち上げです!陰謀です!!」
当然、そうひたすら訴えた。
氏素性の知れない坊主の言ったことだ。信用してよいものかどうか、わからない。ただ、房清が無実かどうかも確かではない。
時有は調査する間、房清に蟄居謹慎を命じた。
房清は不承不承、それに従い、暫く自宅で謹慎していたのだった。
だが。家臣達は意地の悪いものである。特に、時有に心酔する者は言った。
「房清は上野介殿の乳父。藤若君を殺し、殿の跡目を上野介殿の御子の如意王君に継がせむと考えるも、不思議はない」
「そういえば、近頃、殿にご隠居頂き、上野介殿を跡に据えむと望む輩がおるな。それを言い出したのは、房清辺りではなかったか?」
そう。確かに最近、時有では駄目だ、信時をこそ主君にという声がある。そして、それを最初に口にしたのは房清であったかもしれない。
しかし、これも実は法化の罠だったことを、貴姫君さえ知らない。
少し前から、房清宅に仕えるようになった侍がいる。平五とかいう、学者のように博学な男で、都言葉を操る。聞けば、昔、大学寮の学生だったのだという。
房清は平五を重用していたのだったが、この平五は、厚かましいばかりに献策してくる男だった。房清はすっかり信頼していたから、厚かましいとも思わなかったが、思えば、この男が言い出した事ではなかったか。
すなわち。
法化と和睦する必要がある。和睦しなければ、法化と大乘に挟み撃たれ続け、いつかは滅ぶ。法化と和睦したければ、法化との約束を果たすべきだ。如意王を主に。
時有では駄目だ。時有ではいつか滅ぶ。如意王こそ、その実父の信時こそ、主に相応しい。
そう言い続け、信時に特別な思いのある房清を、その気にさせなかったか。さらに、房清と親しい家臣達にも、何やら言って……
信時を主に。
思えば、それは自然現象的に起きたことではなかったかもしれない。
その運動は作為的に起こった。それを起こしたのは、平五だった。
平五。
彼こそ、法化十二安の一人、正安である。
そうなのだ。
十二安は、理安と正安の二人が入り込んでいたのだ。
正安が房清を誑し込んで、家臣達を二派に分裂させる。つまり、時有・藤若派と、信時・如意王派に分ける。
そして、信時派に謀反を起こさせる。房清に雇われたと言って、理安が藤若を襲うのだ。
房清らに謀反の動きがあることを示すのが目的であるから、藤若は殺せなくとも構わない。そして、房清に謀反の疑いをかけなければならないため、理安はわざと捕らえられ、房清がやったと言った。
全て法化党の陰謀だった。
経実の目的は、家臣団を離間させ、内紛を起こさせること。故に、甥の如意王を主に据えるという計画はない。
果たして、身に覚えのない疑いをかけられ、謹慎中の房清が、法化党の狙い通り、反乱の兵を挙げてくれるかどうか。信時派の家臣達が同調してくれるかどうか。
今こそ正安の腕の見せ所である。
理安の役目は終わった。あとは正安に任せればよい。長居して襤褸が出ては一大事。
身軽な理安が、隙をついて逃亡するなど、容易いことだった。
白昼堂々、彼は脱獄した。
「坊主がいない!!」
思いのほか、監視役が気付くのは早かったが、理安は逃げ延びた。そして、最後の役目を果たすべく、貴姫君のもとに忍び込む。
貴姫君はこの時、廂に座り、庭を眺めながら琴を弾いていた。傍らには、まだ赤子としか言いようのない、幼い如意王がすやすや眠っている。
今日は乳母の腕に抱かれず、母の隣でその琴を子守歌に、幸せな昼寝の夢を見ていた。
貴姫君は、決して琴の達者ではない。だが、子にとって、実母の奏でる音楽に勝るものはない。
母と子だけの、ゆるやかな昼下がり。
その庭に、理安は飛び込んできた。
姫は琴を奏でていて、理安に気づかない。しばらくそのまま弾き続けていた。
その姫のなおまだ初々しい姿と、幸せそうな如意王とを見て、つい理安は涙ぐんだ。
久しぶりに見る姫の姿は、やはり美しく愛らしい。若くして母となったが、こうして見ると、如意王の母というよりは姉に見える。
懐かしい貴姫君。
少女の頃からよくそうやって、昼寝の経実に琴を聴かせていた。
あの日、姫が桜町館に遊びに行っていなかったら。生け捕られなかったら。今でもあの頃のようにこの姫は、経実に琴を聴かせていたのだろうか。
「姫君」
涙のままに、理安は姫を呼んだ。はっと姫は手を止め、顔を庭に向けた。
満身創痍の理安が松の木の前に立っていた。
「……理安!」
「しっ!どうか私の話を聞いて下さい。どうか人は呼ばないで」
「理安。どうして……逃げてきたの?何をしにきたの?」
「姫君。お懐かしゅうございます」
理安はゆっくり近づいてきて、簀子の前で跪いた。
「姫君」
「どういうつもりなの?どうして、このようなこと……」
「姫君!御兄君がご危篤でございます」
「っ!?」
姫はやはり動揺した。
「いえ、もしかしたら、もうお亡くなりかもしれませぬ」
「……嘘でしょう?」
「いいえ。もし亡くなられても、希姫君がそのまま殿として生きられます。殿の死が知らしめられることはございませぬ……殿はご自分の死期を悟られ、最後の戦を仕掛けられたのでございます」
理安の涙は、感動から悲しみに変わっていた。
「殿は何があっても、烏丸殿もその一族も許さないと。その怨念は凄まじいものでした。何としても、ご自身の手で時有を殺すのだと、都に上るのだと……でも、もはやお命が……このままでは死んでも死にきれないと仰せられ……時有を滅ぼすために、家臣達に謀反を起こさせようと、私を送り込みました。内紛が起きたら、すかさず法化は大乘と手を組み、分裂して弱体化した……」
「やめて!兄上を止めて!!」
「姫君。殿には時間がないのです。焦っておられるのです。今すぐ、時有を滅ぼさねば……っ」
そこで理安は言葉を詰まらせた。
生きている間に、時有の滅亡を見たい。烏丸殿一族の崩壊を見る事は、もはや叶わないだろうが、せめて時有を自らの手で滅ぼしてから逝きたい。
その経実の思いの強さが、理安には辛い。
理安は全てを姫に打ち明けた。正安が房清を操っていることから、何もかも。そして、
「今頃法化は、大乘との和議を進めている所でございましょう」
と言った。
あとは正安が房清に挙兵させるだけだ。
「ですから、姫君も信時に謀反を!」
その時だった。
「向こうに逃げたぞ!追えっ!!」
彼方からそんな怒鳴り声が聞こえてきた。
「ちっ、見つかったか!」
理安は早くも逃げる体制だ。だが、その姿態のまま、
「どうか御兄君の思い、お汲み取り下さい。姫君は法化党の姫君。御兄君の妹君にございます。御兄君の御為、信時に挙兵を促して下さい。どうかお願い申し上げます」
と言って、飛び去ろうとした。
が。
「待ちなさい!」
姫が金石も裂けるような声で呼び止めた。姫は彼を睨む。
たじろぐ理安は、つい立ち尽くす。
多数の足音が聞こえてくる。
姫は鬼の形相で、理安を睨んだまま、傍らに両手を伸ばすと、如意王を抱え上げた。
如意王はまだすやすや眠っている。
姫は立ち上がり、それを理安の胸へ押しやった。その泥眼の凄さに、理安は何も考えられず、ただ無意識にその子を両腕に抱え込む。
「理安っ!帰ったら、姉上にこの子を渡しなさい!」
姫の赤い眼には、涙が滲んでいた。
「その子は法化に、姉上に差し上げます。その子を養子にするもよし。殺して首を手土産に、大乘教理に従うもよし。姉上の好きになさるがよい。そう姉上に伝えよ」
その時、向こうから、
「いたぞ!あっちだ!」
という声がした。
見つかったか。逃げなければならないが。
「さ、早く行きなさい」
「しかし……」
「ここじゃ!待て、坊主め」
その声とともに、彼方からばらばらと大勢が走ってきた。
「あれ、早う来て!」
突然、姫が彼等にそう言った。
人々が理安との間合いを詰める。
「ちっ!」
もう、立ち往生できない。
如意王を抱いたまま、理安はばっと跳び上がった。木から木へと飛び移り、どんどん遠ざかっていく。
「待ていっ!」
人々は追いかけた。
騒ぎを聞きつけた侍女達が走ってきた。
「ご無事ですか?」
「お怪我は?」
口々に貴姫君を気にかける。
しかし、姫は何も答えられない。ぼろぼろと涙をこぼし、遂にその場にしゃがみ込んだ。そのまま突っ伏して慟哭する。
はっと侍女の一人が気付いた。
「わ、若君!如意王君は!?」
その者の言葉に、皆慌てふためく。
「今の賊が連れ去ったに違いない。追え、追え!武者ども、あの者を追えいっ!」
怒号が飛び交う。
皆、命をかけて理安を追った。
間もなく、騒ぎを聞いた信時が血相変えて飛んできた。
「如意王が連れ去られたと!?」
信時が狼狽して、何を尋ねても、姫は大声で泣くばかり。ようやくしゃくりあげながら、何か言ったかと思いきや、
「全て法化の兄の仕業です!御乳父は無実。彼に挙兵させてはなりませぬ。かの家に法化の者が潜り込んでいます!早く捕らえて!」
と言うばかり。
結局、如意王を連れた理安は捕まらず、その日のうちに、房清宅の平五──正安も行方不明となった。




