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正声・十七拍──鳳勢(拾)

 三日夜は恙無く過ぎた。露顕も終わり。


 翌日。


 信時は東殿を出て、新居に移る。貴姫君もそれについて行った。


 信時は上野介である。実質的な受領であるが、これまで、国府の仕事は在庁に任せてきた。しかし、これからは国府に移って、政務に勤しむことにしたのである。


 国府は今いる牧邸からあまり遠くはなく、馬を走らせれば、直ぐの距離であった。


 貴姫君は春日の大上や三亥御前に挨拶して、信時と共に東殿を出た。


 予め引っ越しは進めてあったので、新居は整っている。


 新居に移ったからといって、特にすることもなかった。


 翌結婚五日目。


 新居に移って二日目の午後。姫はぼんやりと庭を眺めていた。


 新居の庭は花であふれている。


 姫はその百花をぼんやり見ていたが、実際姫の瞳には花の形はぼやけて映るばかりだった。涙に遮られて、花の形がはっきり見えないのだ。


 姫は松枝のことを思って泣いていた。その思い出に。


 ごめんなさいと詫びて。


 そうしている所へ、信時が幾人もの侍女を連れてやって来た。


 姫は慌てて涙を拭い、面を整えてから会った。


 艶やかな笑顔で信時を見つめる。


 信時は何か言いたげだったが、敢えてさりげなく、侍女達を紹介した。


「東殿から誰も連れてこなかったそうですね、桜町館からずっと付き従ってきた者達を。心細いでしょうに。でも、まあ、この者達は皆気の利く者ばかりですから。あなたに尽くしてくれるでしょう」


 信時が姫のために新しく用意した侍女達は、皆小綺麗だった。


 敵の中に、ただ一人で嫁いできた新しい女主人に、侍女達は人のよさそうな笑顔を見せる。


 一通り紹介が終わると、


「下がってよい」


と、信時が言った。


 侍女達は速やかに去って行った。


 二人だけになると、信時は姫の手を取った。


「皆、三亥御前に預けてきて、松枝にまで暇を出してしまったそうですね。何故です?」


 姫は信時を見上げた。その目は、恋する女が恋しい男に向けるもの。


「私はもう御身の妻。嫁入りしたわけですから、世の妻というものとは違って、この家の人間でございます」


 艶やかに笑う。溜め息は藤の花だが、笑顔は桜だ。


「私はこの家の人間ですから、法化の敵となりました。松枝は私の乳母ですが、かの者は法化の者でございます。私には忠義の者ですから、今の私にも忠実でございましょう。私に命じられれば、信時の君にも尽くすでしょう。けれど、心は法化のまま。法化の者である松枝が、あなたの近くで仕えていたら、どうなりますか。松枝だけではありませぬ。他の侍女達も皆、法化の者。その者達をあなたの近くに置いたら、御身のこと、御兄君のこと、重臣達のことから、領地領民のことまで全て調べ尽くして、常陸の兄に報告するでしょう。そればかりか、重臣に調略をしかけたりするかもしれませぬ。そのような危険な者達を、あなたの側に置きたくありませぬ。故に、法化の侍女は皆、置いてきました」


「姫君……」


「信時の君の周囲には、心から忠実である者だけを置きます。口先だけ忠義ぶる者は、近づけさせませぬ」


 信時は姫の手を一層強く握り締める。


「あなたの心は、よくわかりました」


 彼は胸を熱くした。


 その夜の情の熱さは、これまでで最も強いものであった。熱病に憑かれたような。


 やがて深い眠りに墜ちたが、深更、姫はふと目覚めた。


 衣の海の中、姫は巻物を見つけた。信時がそんなものを持っていたことを、初めて知ったが。


 何だかどきりとした。


 胸騒ぎのようにそれがどんどん強くなる。


 何故かその巻物から目が離せない。引っ掛かる。いや、確かに見覚えがある。


 見覚え……


 まさか。


 何度も何度も見た。確認した。


 いや、そうだ。間違いない。


 姫は信時の寝顔を見つめた。


 笑みながら、その頬に感涙を載せて──。


 翌朝、目覚めた信時は、そっと彼の宝物を抱きしめた。


 姫はその腕の中、


「この温もりは同じ。気は失っていたけれど、覚えています、この温もりは」


と言った。


 姫の数奇な運命。その天の巡り合わせに感謝した。


 あの日。あの一昨年の夏の日。父・羽林殿の命日だった。


 かの名水は羽林殿の好物であった。


 生前、羽林殿はよくあの水を欲していたものだった。遠くて、なかなか飲むことは叶わなかったけれど。


 貴姫君はそんな故人のために、その命日にその好物を墓前に供えたいと思った。


 その頃、兄の経実は、烏丸殿の一族が兵を率いて関東にいるというので、そのことを気にしていた。


 時有がどのような人物であるのか、陣中にはいかなる人物が集っているのか、軍の組織、数、様子など、様々調べなければならない。


 ちょうどそんな時に、貴姫君が名水に行きたいと言ったのだった。


 都合のよいことに、時有の軍勢が同じ頃同じ辺りを通るらしい。経実はこれはよい機会かもしれないと考えた。


 経実は貴姫君に、名水に出かけることを許可した。


 その一方で、十二安に時有軍の様子を探るよう命じた。


 貴姫君は伝令用の小舟に松枝と十二安の豊安、中間(ちゅうげん)一人と水夫(かこ)とを乗せて、名水のすぐ側まで出掛けた。


 そして陸に上がると、水夫をそこに待たせ、姫は中間と二人で名水に向かった。


 松枝と豊安は時有軍を探らんと、藪の中に消えて行った。


 予め姫と松枝は刻限を決めて、落ち合う場所も決めていた。


 あの名水の近くのあの庵。そこが落ち合う予定の場所だった。


 姫は名水に向かうと、中間に命じた。


「水は帰り際にしましょう。松枝が来てから。先ずは庵で休んでいましょう。しばらくご厄介になるのです。先に行って、庵主にご挨拶してきなさい」


 中間はそれに従い、先に庵に向かった。


 待つ間、姫は庵の中で飲む分の水を掬ったりしていたが、ふと向こうに美しい花が咲いていることに気付いた。惹かれて、そこに向かった。


 だが、酷暑だった。余り体調がよくなかった。船旅で疲れていた。色々な原因が重なってしまったらしい。


 姫はそこで倒れてしまったのだった。


 そして、たまたまそこを通りかかった人に助けられた。


 姫は恩人によって庵に運ばれたが、中間とは入れ違いになってしまったのだった。


 庵は小さいとはいえ、棟が幾つかあったし、尼僧も数人住んでいた。


 中間が庵主の所にいる間に、姫は恩人によって助けられ、別棟に運び込まれていたのだった。


 中間は、まさか貴姫君が庵の中にいるとは知らない。庵主への挨拶を済ませると、そのまま門を出て名水に戻った。だが、姫はいないではないか!


 中間は焦った。そこかしこ探し回った。小舟にまで戻った。でも、いない。中間は遥か遠くの方まで、探しに出掛けてしまった。


 その間に、姫と松枝の落ち合う時刻となった。


 何も知らない松枝は、当然のように庵に向かい、気絶している姫と再会した。


 姫は夜中に目覚めたが、中間は結局朝まで戻ってこなかった。


 一晩中探して探して。もう一度、庵に戻ってみようと思い当たったのが朝だった。


 庵にほうほうの体でやってきた中間を、松枝が怒鳴り散らしたのは、言うまでもない。気の毒な中間を姫は庇ってやったが、


「頭が働かない馬鹿な奴」


と、松枝の怒りはなかなか鎮まらなかった。


 ともかく、姫はすぐに帰れる状態ではなかった。数日庵で養生することになった。


 松枝と豊安は、経実への報告があるから、一度常陸へ戻り、再び姫を迎えに戻ることになった。


 庵で姫は回復して行った。


 尼に、自分を助けてくれた人のことを尋ねた。


 だが、尼は申し訳なさそうに、


「お名前を聞きそびれました……でもあの時、この辺りをあらぬ様で歩いていた方ですから……」


 時有軍の武将に違いない。


 尼はその人となりを説明した。


 かなりの身分の人らしいこと。やはり身分あるらしい老将を連れていたこと。上品な若い人で、口が小さかったこと。美しい水晶の数珠を持っていたことなど。


 姫はその恩人の名を知りたいとは思った。だが、烏丸殿に縁の、つまり敵の中の敵であるように思えて、名を知りたくないとも思った。


 ただ、助けられた御礼はしたかった。で、感謝の心を文字に込めて写経したわけだ。その経の巻物を尼に託した。


「名も知らぬ恩人が、もし、再びこちらに来られるようなことがあったら、これを渡して下さい」


 そして、姫は迎えに来た松枝と帰って行った。






 あの人は。


 姫の恩人は、姫の夫たる人であったのか。


 信時は姫の言葉の意味がわかった。


 巻物を手に取ると、


「これを私に下さったのは、あなたですね」


と言った。


 姫は笑顔で頷いた。





 貴姫君が、信時との本当の出会いは、桜町館ではなかったことを知った時。信時が貴姫君に初めて恋したのが、桜町館ではなかったことを知った時、松枝はようやく常陸の希姫君に会うことができていた。


 希姫君は馬でどこかに出掛けていたらしい。水干姿に、黒髪を束ねていた。


 こういう男も、探せばどこかにはいるだろうと松枝は思った。


 希姫君は男装のまま、円座に腰を下ろした。


「待たせた。すまぬ」


 声は紛れもなく高い。女性らしい美しい声だ。話し方は異なるが、声の質は貴姫君によく似ている。


 松枝はさっそく貴姫君の文を差し出した。


「貴姫君はとうとう上野介の内室となられました。姫君よりの御文にございます」


「汚らわしきこと!!貴姫君、かわいそうに……」


 希姫君は不快感を露わにした。そして妹を思って悔し涙を流しながら、文を受け取って読んだ。


「……!」


「……あの……?」


「……」


 読み進めるうちに、希姫君の顔がどんどん変わって行く。


 松枝はそこに何が書かれてあるのか知らない。


 何が書いてあるのかと訊くこともできないような希姫君の顔であった。


 恐る恐る、松枝は言った。


「何ぞお言伝は?それともお文で?もし、ございましたら、貴姫君にお渡し……」


「松枝!」


「は……」


「こなたはこのままここに留まれ」


 言いながら文を閉じ、ばっと立ち上がった。


「は?」


「こなたはこれより私に仕えよ。この文には、そのことが書いてある。こなたの行く末を案じて、貴姫君が私にこなたを頼むと言うてきておる」


「まさか!」


「誠だ」


 そのままずかずかと廂の方に歩いて来た。松枝の真横で立ち止まり、文をぐしゃっと握った。


 希姫君は庭に目をやりながら、


「これは、兄上と私と、法化党への決別の文だ」


と言った。


 希姫君は握り締めた文を、松枝の鼻先に突き出す。


「貴姫君は、これよりは信時の妻として生きるそうだ。故に、法化党とは敵になると。だが、もしも、今でもこの私に、妹を愛する心があるのなら、妹を哀れに思うなら、妹に免じて時有と和睦してくれと。兄上に、私から和睦を説いてくれと言うてきておる。そして、松枝は法化の者故、夫の側には置けぬとも言うておる。大事な乳母の松枝なればこそ、この姉に託したいとのことじゃ。松枝、その文読んでみよ」


「……」


 松枝は突きつけられている文を、恭しく両手で拝領した。震える手で、それを開く。


 希姫君の言った通りのことが書かれてあった。


「姫君!」


 何故、何も言わずに。


 松枝は泣いた。


「よいな。もう上野には戻るな。私に仕えよ」


 庭を見たままもう一度言った希姫君の声も、震えていた。


「……なあ、貴姫君は幸せそうであったか?信時がために穢れて……辛くはなさそうであったか?」


「……」


「……松枝よ……かわいそうだな……」

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