正声・十七拍──鳳勢(玖)
幸いにも、一命はとりとめた。
都の清花の姫君である。
だが、一時はもはや琴は再起不能かと思われた程、深刻な病状であったのだ。
姫君は名医の治療にじっと堪え続けた。
両親は驚き悲しんで、高僧らをかき集めて、ひたすら加持祈祷を続けさせた。
病平癒のためならばよからむとて、姫君の受戒も許した。
出家は姫君の望みだった。しかし、まだ初々しい娘が出家することなど、自分が死ぬことよりも堪えきれないと、両親は思っていた。とはいえ、授戒くらいなら認められる。
幾分よくなったとはいえ、このような病では、到底入内などできそうにない。
帝も大変心配して、
「しばらく養生するがよい。二年、三年はゆっくりして、入内はそれからでもよい」
と言った。
だが、六条内大臣殿は何としても自分の実の娘を后にしたい。その執着を、自分でもどうすることもできなかった。
姫君の病が癒えるには、それこそ一年も二年もかかりそうである。もうそんなに待てない。
内大臣殿は、遂に清花の姫君の入内を諦めることも考えはじめていた。
常陸法化党の経実は激怒した。
「汚らわしきことだっ!」
よりによって、あの烏丸殿の一族の者なんぞに天女の妹を汚されることになろうとは。
時有が、貴姫君を信時の妻とする由、伝えてきた。口先だけの、あてにならない奴だと思っていたのに、本当に貴姫君は汚されるらしい。
経実は病床に立ち上がって、そこら辺にあった太刀を抜いて怒り狂った。
傍らにいた希姫君も不快感を露わにしていた。ただ、
「おのれ!斯くなる上は、大乘党に組みしてくれる!」
と、経実が決意した時、
「それは、無理矢理とはいえ、烏丸の犬の妻たる身の貴姫君が、板挟みになって気の毒です。奴らと和議はせずとも、大乘党と手を組むのだけは、見合わせて頂きたい!」
と、姫は反対した。
妹を助けてやることもしなかった兄姉であるのに、これ以上妹を苦しめることなど。
「今すぐ大乘党と手を組まなくとも……しばらく静観していても……」
「やはり、こなたは女だ。女は甘い。主たる者には非情さが必要だ」
「戦場では、その主は私ですが。全て私の判断で物事を決定しています」
「ち、仕様のない」
法化党はなお時有と和睦してくれない。だが、大乘党と手を結ぶという最悪の事態だけは、回避できた。
信時と貴姫君の婚礼は法化党の許可のないまま、すぐに執り行われた。
信時も時有の時と同様、嫁とり婚である。
ただ、通常の婚姻と同じように、三日夜通いの形式ではある。そして、露顕も行われる。本来、露顕は妻側の親族が集うものだが、それは叶わぬことだし、嫁迎えでもあるので、婿側の親族、臣下によって行われる。
信時は自分の住まう邸の中を、庭伝いに貴姫君の許へ通って行く。
信時の来訪を自室で待つ貴姫君の体は、やや小刻みに震えていた。この後、我が身に起きる事を考えると、恐怖と緊張に襲われるのに違いない。
相手は時有ではない、信時だ。信時なれば、嫌悪感はないどころか、その腕に抱きしめられても素直に受け入れられる筈である。なのにこわい。
もし、これが信時でなかったならば、さらに、生理的に受けつけられない相手だったら……どうなってしまっただろうと思う。
信時が相手であるのだという幸運を己に言い聞かせて、落ち着こうと深呼吸した。
しかし、うまく息ができない。
呼吸をするなど、人間誰でも自然にできることである。いや、息ができなければ死んでしまう。息をするのは、生身の人間であることの証だというのに。
それができないとは。
我知らず、溜め息を吐き出していた。とその時、背後に人の気配を感じて、刹那、
「その溜め息……私はその溜め息に負けたのか……」
という声がした。
いつの間に、信時が来ていたのか。
信時の足音は一度、姫のすぐ後ろで止まった。
「姫君はいつも溜め息をついていらした。まるで藤の花が零れ落ちるような。御簾越しで御姿は見えなくとも、いつもそう感じた。その度に、私はあなたに惹かれて行きました」
そう言うと、そこにそのまま腰を下ろした。
姫はゆっくり振り返った。信時の唇にどきりとする。
その美しい唇から、
「いや、初めて会った時に、恋に落ちたのですが……」
という言葉が紡ぎ出される。
姫はその唇から視線を逸らし、どぎまぎと目を伏せる。
信時はいつも通りの真面目な表情だ。緊張している様子はない。
彼はじっと姫を見つめ続けている。
「姫君と私の婚姻は、政略的なものです。しかし私は、あなたと夫婦になり、家庭を築く上では、人と人として共に過ごしたい。たとえ政略的なものであれ、夫と妻として過ごすことになるのですから、人として、男として、あなたを愛したいと思います。あなたとは政略結婚とは思いません。あなたを男として恋した私は、その気持ちのまま死ぬる日まで、あなたのお側にいると誓います。終生」
そして、信時は手を伸ばし、姫の肩に触れた。その手を一度離し、今度は姫の唇に触れる。
この唇の感触は、ずっと忘れられなかった。目を閉じて、そう思った。やっと手に入れた。
その頃、隣の牧邸では重臣達が集まって、酒盛りしていた。
今夜はまだ露顕ではない。だが、すでにそんな気分の彼等なのだった。まさか三日三晩飲み明かすつもりだろうか。
その席には主君の時有もいたが、すでに酔いつぶれてその場に眠っていた。皆打ち揃っていたが、一人、俊幸の姿だけがなかった。
「はて、ご老体はどちらへ行かれたかな?」
俊幸の姿がないことに最初に気付いたのは、源四郎だった。
「源四郎、気にするな。老人は朝が早い。それや則ち夜も早いからじゃ。宵のうちから、もうこっくりこっくり。その辺で寝ておわすのだろうよ」
あやしい呂律で政氏が言った。
「それや随分な言い種よの」
「何で何で。何を言っても怒らぬご老体じゃあ」
「だからって、失敬じゃろう」
そこへ、ひょこひょこ俊幸が戻ってきたのだった。
「やよ、ご老体。いったいどちらへおいでであったか」
「いやあ、はやあ……」
俊幸は落ち着かなく、席に着いた。
「なんじゃあ?」
隣の席の房清が、粘り気のある眼を向けている。
「どうしたんじゃあ?」
と、しつこい。
「……いやあ……若君が……心配で……」
「はあ?」
信時が貴姫君に殺されるとか?
「いやその……なに……」
ごにょごにょと老人は口ごもった。
「……!」
ぐわっはははと、不意に房清が大笑いする。
「なんじゃあ!?ご老体、若君のご様子を見に行っておったのか?悪趣味じゃなあ」
「だって……」
若君はうまくやれたのだろうか。
真面目な信時を心配してしまう爺であった。
「なんだなんだ、東殿の様子はどうなんだ?」
興味津々な酔っ払いどもに、老人は、
「わからんわい!」
と喚いた。
本当にわからなかった。
翌朝、貴姫君は東雲頃から目覚めていた。
目覚めた時、姫の顔は信時の胸に抱かれていた。体には信時の腕が絡まっている。しかし、眠っている信時のその腕には、昨夜のような力強さはなかった。
姫はそっと起き上がった。とてもだるい。体調のせいばかりではあるまい。なお夢の中にあるように、とろんと全てが気だるかった。
姫が身支度を整えた頃、信時も起き出してきた。
信時はてきぱきと狩衣を身に付けてゆく。
姫もそれを手伝わんと彼の傍らに寄ると、どうにも息苦しくなった。
信時の息がかかる度、頬の熱も増して行くような。信時の首筋は生々しく、その色香に昨夜のことが蘇る。
姫が顔を赤めて俯いていると、信時がどこに忍ばせておいたのか、数珠を引っ張り出してきて、それを懐中に仕舞い入れた。
姫はその数珠に目をとめた。妙に気になるのだ。
「それ……その数珠……」
言われて、信時は仕舞った数珠をまた引き出す。
水晶の数珠。
「これですか?」
怪訝そうな信時に、姫は、
「あ、いえ。美しい数珠ですね」
と言った。
「父のものです。私にくれました」
笑顔である。
姫も笑顔になる。
「それは大事ですね」
「ええ。いつも身より離さずにいます」
「戦の時も?」
「はい」
「そうなのですか」
そう言う姫の笑顔を、信時は眩しげに見つめていた。
後朝のあと。
辰の刻、新妻は乳母の松枝に来るよう言いつけた。
松枝が来るまでの間、貴姫君は昨夜の余韻からなおまだ抜け出せずにいる我が身を律していた。こんな現なき顔を、どうして松枝に見せられようか。
しかし、昨夜の甘やかな余韻はどうやっても消えてくれない。目を閉じなくてもなお鮮やかに──今もなお、頬や耳の根辺りに信時の美しい唇やその息吹を感じる。
姫は強く頭を振った。両の腕で自分の身を握りしめるようにして、その肌に絡みつく夢を、削ぎとるようにした。
だが、身悶えると体が重く、余計に信時を感じてしまう。
貴姫君は大きく溜め息した。
もう諦めた。世の新妻達も、きっと皆こうなのだろう。
もう松枝に何と思われようと、構うものか。そう思ってみたところ、意外や、心に平静が戻ってくる。
それから程なくして、松枝がやって来た。廂の床に恭しく両手をついている。
「松枝」
「姫君」
松枝は面を上げた。姫を見つめ、感慨深げに、
「おめでとうございまする」
と、祝いを述べた。
「ありがとう」
姫はそう答えて、ゆっくり立ち上がった。そして、一歩、そろりと踏み出す。一息ついて、あとは二歩三歩と優雅な足取りで、松枝のすぐ前まで近づいてきた。
姫はそこに腰を下ろすと、言う。
「松枝。幼くして母を亡くしたこの私を、これまで育ててくれたこと、心から感謝しています。礼は言い尽くせません。色々迷惑をかけた。色々勝手を言った。でも、もう言うまい。これで最後にします」
姫は懐に手をやった。そこには一通の文がある。それを取り出し、松枝に差し出す。
「こなた、これより常陸へ行き、この文を姉上に渡してきて」
松枝はかの雲門入道の一族。十二安同様身軽である。密かに常陸まで行けるだろう。
「かしこまりました」
松枝は両手に文を捧げ持った。
「まことは、明後日まで御供致しとうございましたが」
そう言い残して、去った。




