正声・十七拍──鳳勢(捌)
宵のうち。
どこの局にも灯りがある。
信時も、灯の側で書籍を読んでいた。
静かな春の宵だ。その庭に、突然人の気配がした。同時に、
「上野介殿、上野介殿」
と呼ぶ、若い女の声がする。
信時はぎょっとして、書籍を文机に置くと、慌てて妻戸を開けた。貴姫君の姿がその目に飛び込んでくる。
「貴姫君!?」
息を切らして涙をぼろぼろこぼした貴姫君が、庭にいる。その取り乱し様は、気のふれた人が一晩中すずろ歩いた果てのようだ。
貴姫君が庭を走って、ここまでやって来たのだ。
「姫君、いったい、どうし……」
「信時の君、私を!」
姫は叫ぶ。
「私を殺して下さい。どうかお願いです。私を殺して、武蔵殿にこの首を差し出して下さい。どうか、どうか。そうでないと……」
「姫君、落ち着いて下さい」
何かあったのだ。だが、信時は強いて冷静にと努め、そして、姫を落ち着かせようとした。
しかし、姫の感情の高ぶりは、少しも鎮まらない。
「お願いです。どうか、殺して。信時の君が殺して。この首を──」
そればかり。
その時、そよ風にのって、一片の花びらが二人の間を舞い、ひらりと簀の子に落ちた。
信時はその花びらを見て、急に表情を引き締める。
「貴姫君、私と来て下さい」
庭の姫に手を伸ばした。
また一枚、花びらが舞う。
その花びらを左手で払って、彼は庭に下り、姫の手を掴んだ。
一夜が明けた。
信時は貴姫君の手を引いて、ずんずん歩いていた。
姫はためらいを見せながらも、ずっとそうやって、一晩中彼に連れられその後をついてきた。
今頃、牧邸や東殿は大変な騒ぎになっているかもしれない。信時はそう思ったが、ただ前だけを見ていた。
今、二人は下総桜町館の中にいた。
馬を駆り、こうして二人は桜町館に来た。たった二人きりで。
桜町館には、暁の朱がよく似合う。
信時は姫の手を引いたまま、館の奥へ奥へと進んで行く。
そして、やがて、空の赤よりあでやかな、桜の群だちの庭に出た。
満開である。朝焼けの雲のように、たな引いている。そんな常棣の桜だった。
吸い寄せられるように、姫は木の幹へ近づく。先年、姫が自害しようとした木であった。
長い枝が垂れ、姫の手の高さにふっさりとあった。その花束を抱えるようにして、姫は先程までの憂いも忘れた。
「常棣の桜。二度と見ることはないと思っていましたが。またこの花を見ることが叶うとは」
信時は姫の傍らに寄った。一昨年の秋。ここでの二人のやりとりが思い出される。
「姫君はこの桜を私に下さいましたね。これは今は私のものです。桜の持ち主である私が言います。姫君、今年ばかりでなく、来年も再来年も、そのまた次の年も……毎年この桜を共に見ましょう。共に白髪の生える、いや、死ぬる時まで」
そうは言ったものの、自信がない。
信時は、よいだろうかと探るような目をして、やや俯いた顔の下から姫を見上げた。
姫は何も言わずに、ただ微笑んだ。
それを見て、ややためらいつつも、信時はその笑顔を、桜の花ごとそっと抱きしめた。
姫は静かに身を委せた。
それから二人は館の外に出た。
町を歩く。
町は法化の支配下にあった頃と少しも変わらず、活気に溢れ、賑わっている。
信時が貴姫君の手を引いて進み、姫はその手に導かれながら、一歩程後ろを続いて歩いて行く。
町では何も買わなかった。
暫く歩いて行くと、町の外れになり、ぼちぼち田畑も見えてくる。田植えにはまだ早いが、田はどこも荒れていない。
畑には菜花の黄が、所々にある桃や桜の花の紅と、空の青とに映えて、夢のように美しい。
霞一つない。暖かな晴れた日だった。
菜花がそよ風に靡く度、ゆっくりした時が流れて行く。その夢の世界に浸って、信時は幸福そうに言った。
「この辺りに住みましょうか。農民に混じって、私も田畑を耕しましょう」
姫はそれには答えなかった。
姫も穏やかな笑顔である。
「民にとって、君主の代わりなど幾らでもいるということが、よくわかりました。武蔵殿はこの地を見事に治めて下さっています。民の暮らしは豊かで、民は皆、兄のことを忘れて武蔵殿に従っています。皆、喜んで武蔵殿に支配されている。武蔵殿の政、前の領主の家族として、感謝致しております」
そう言う姫に、信時はなお言った。
「姫育ちのあなたに、これからは貧乏を味わわせることになる。それでも二人、手を携えて生きて行けば、きっと楽しい筈です。ついて来て下さい」
すると、姫は俄かに顔色を変え、怯えた様子でその場に座り込んだ。さらに、両手を大地に投げ出し、額を大地に押し当てる。
姫は叫んだ。
「どうかお願いです。上野にお帰り下さい。私を殺して下さい。信時の君おん自らの手で私を殺し、首を武蔵殿にお届け下さいませ」
「まだ、さようなことを」
信時は腰を下ろした。
姫は地につけていた両手で、信時の膝にすがりつく。
「どうか。殺して下さい。さもなければ、内紛が起きます。信時の君は謀反人になってしまいます。だから私を殺して、武蔵殿に二心なきことをお示し下さい……昨日、武蔵殿に、信時の君を好きかと問われて、思わず、好きだと申し上げてしまいました。武蔵殿は私を妻になさるというのに。信時の君はこのままでは謀反人。御身が助かるためには、いえ、内紛を避けるためには……ああ、かかる大事を昨夜のうちに申し上げず、今の今まで黙っていた私は……やはり、法化の者なのです。武蔵殿と御身が敵となり、戦となるかもしれないとわかっていながら、今まで申し上げなかった。私はこういう女なのです。結局、私は……。こんな私をどうぞ、殺して下さいませ。首を、武蔵殿に……っ」
言い終わらぬうちに、突然、信時が激しく姫を抱き締めた。激情のままに。姫の体が壊れそうなほど。
「牧邸へ帰る!」
信時は強く言った。
信時不在。
牧邸はややざわめき立っていた。
酒宴に顔を出さぬので、呼びに遣ったところ、姿がないという。
だが、若い男には色々あるものだからとて、
「騒ぐな、騒ぐな。すぐに遅参して来る筈だ」
と、時有は周囲を制止していた。
そして、探させたりもせずにいたのだが、午過ぎても来る様子がない。
それで、いよいよ皆騒ぎ始めてしまったのだ。
「何かあったのでは」
「若君を捜さねば」
そう言っていたところへ、信時が帰ってきたのであった。
小者や中間達の足音、蛮声が飛び交う。
彼等の呼びかけに一切応えず、信時は貴姫君の手を引いて、ずんずん進んで行く。引きずられる貴姫君も、二人を追う侍達も困惑、狼狽。
信時はそのまま渡殿を通って寝殿に進もうとした。
ちょうど渡殿を渡りきった所に、酒宴の席から外れて俊幸が立っていた。
姫と信時とを交互に見て、
「若君っ?これはいったい」
と、目を丸める。
しかし、信時はそれさえ無視し、振り返って姫へ、
「姫君、ここで待っていて下さい」
と言う。そして、初めてその手を離した。
さらに、俊幸に、
「姫君を頼む」
と命じた。
とても言い返せそうにない程の信時の切羽詰まった様子に、俊幸は、
「はい」
とただ返事して、それに従わざるをえなかった。
「さ、姫君」
俊幸は姫を労る。
信時はそれを横目に見て、寝殿の中へ足早に入って行った。
中には、膳を前にした重臣達がずらりと居並んでいた。上座に時有が座っている。
一斉に信時を見た。
信時はその視線さえ感じず、時有の目の前まで突き進み、本当に鼻先にまで来て、ようやく腰を下ろした。
「兄上!」
「信時……」
「兄上。信時、兄上に申し上げねばならぬことがございます」
「信時!」
「兄上、申し訳ございませぬ、私……」
「信時、信時!」
「お願いにござ……」
「信時っ!」
遮って、さらに、
「信時!!」
と、大声で制止した。
「……は、はい……」
その勢いに、思わず信時は、姫君をくれという言葉を飲み込んだ。
信時の上から言葉を被せて、早口に時有は喋り始める。
「法化党が今にも大乘党と手を結ぼうとしている。我等は一刻も早く、貴姫君を我が家に入れて、和睦をせねばならぬ。そこでだ、信時、貴姫君はおことが娶れ」
時有はじっと信時を見つめている。
「よいな」
念を押す。
だが、信時は何を言われたのかわからなかった。
ぽかんと、兄を見るでもなくただ顔をそちらに向けている。時有はその顔へもう一度言った。
「法化の貴姫君を、信時が妻として迎えるのだ。これは大事なる和議ぞ。よいな」
すると、房清が、
「それは佳きこと。若君は未だお独り故、めでたいことでござる。殿の御舎弟なれば、法化党も文句は言いますまい」
と、声高に言ったので、そこで初めて信時は時有の言ったことを理解した。
重臣は異口同音にめでたいと言った。本人だけが置き去られ、話題の外にいる。
蚊帳の外の信時に、時有がもう一度言った。
「信時、おことが貴姫君を妻にするのじゃ。わかったな」
初めて信時は、無表情よりはやや引き締まった面持ちで、
「はっ」
と、両手を床につけた。
その背に、時有は満足げな笑顔で何度も頷いていた。
外にいた俊幸は、ついに目尻から変なものを流し、貴姫君も感涙に頬を洗わせていた。
「姫君、宜しうございました、宜しうございました……」
斯くして、貴姫君は信時の北ノ方となることが決定した。
信時は、負けたなと思った。兄に。
信時は思う。
あの時、兄が彼を呼んで、貴姫君を自分が娶ってもよいのかと言ったのは、彼を試したのだ。
信時が望めば、時有はそれを与える。たとえそれが、時有の欲しいものだったとしても。
あの時、信時が姫を欲しいと言えば、時有は喜んでその願いを聞いてくれたのに違いない。
時有は、信時が姫を欲しいと言ってくるのを待っていたのではないか。
そして、遂にそれを口にしようとした信時に、皆が「姫君は殿のものであるのに、非礼な弟御」と反感を抱かぬよう、信時が言うより先に、信時に姫を娶るよう命じたのに違いない。
信時は兄という人をそのように理解している。
だから。
負けた。
そう思う。温かな微笑みを浮かべながら──。




