正声・十七拍──鳳勢(漆)
人は思い詰めた時、予想外の行動をとることがある。我知らず、そうなってしまうことがある。
理性を捨てた人間は恐ろしい。
そして、理性を取り戻した時、その仕出かしたことに、後悔をし、恥ずかしさに堪えられなくなる。自尊心が激しく傷つく。
人間の自尊心が、理性を身に纏わせるのだ。そして、恥ずべき本能を隠す。理性とは、見栄、偽りの正体なのである。
信時はその偽りを、知らず脱いでしまった。
日々悶々と暮らしているうちに、頭も心もかっとなって、何もわからなくなってしまったのだ。
彼は、意識がない。
気がついた時には、貴姫君の体の上にいた。
「嫌っ!!上野介殿!」
激しい拒絶の絶叫に、ふと我に返ったのであった。
貴姫君の眼が見えた。
はっと身を起こすと、姫の両目には涙がある。彼を睨む顔は悲しみに溢れている。
夜であった。
貴姫君の居室であった。
几帳が倒れていた。
貴姫君が倒れていた。
彼は、姫を組敷いていた。
恋しい女のもとに通ってきた男。恋しい男と忍び逢う女──にしては、無惨な光景がそこにはあった。
何としても未然で済まさなければ──先ほどの姫の絶叫には、かなりの意志が感じられた。信時を我に返らせたほどだったのだから。
しかし、今のこの顔はどうだろう。なんと悲しい顔だろう。拒絶や憎しみ、嫌悪の顔ではない。悲しみ。まさしく悲しみの顔だ。
正気に戻った信時は傷ついた。その顔を見て。
そして後悔した。恥じに震えた。
とても堪えられず。
「すみませんっ」
彼は声にならず、空気だけ吐き出して、姫の華奢な体から飛び退くと、そのまま飛び出して行ってしまった。
残された姫は、そのまま動かない。乱れかけた襟を辛うじて直し、さめざめと泣き続けた。
あの信時が。
未然だったか否かの問題ではない。結果も事実もない。
姫にとっても、信時にとっても。
翌日だった。春日の大上が貴姫君を訪ねたのは。
「先日、時有が訪ねてきたそうですね。その時、姫君を権北ノ方にする旨申したとか」
いつものように、大上とは御簾や几帳の隔てなく会う。昨夜のことを見透かされそうで、姫は顔を大上に晒すのが怖かった。
「姫君はそのことを承諾なさったそうですね。昨日、時有から聞かされました」
感づいているのかいないのか、大上はいつもと変わらない様子で喋り続けている。
「本当によいのですか?」
「はい」
姫は躊躇いなく首を縦に振った。
大上はじっと姫の瞳を見つめている。
本当に見透かされそうだ。
姫はつい目を逸らす。
「ご安心下さい。武蔵殿の寝首を掻いたりは致しませぬ」
「……そうではのうて」
「確かに、武蔵殿を殺せば、兄が喜びましょう。正直、それも考えましたけれど……」
「そのことではありませぬ」
大上は俯いている姫の顔を覗き込むようにした。
「姫君の心のことです。まことに時有の妻でよいのかと」
「はい」
「姫君、本当は信時のことが好きなのでは?」
姫はきっとして、顔を上げた。
「私は……私は、武蔵殿の妻になりとうございます」
「……各地の武士団は、時有を主と仰いでいます。信時の妻という立場より、時有の妻という立場の方がよい……欲深い女はそう思うものでしょう。まさか、姫君もそうだとは思いませぬが」
そういう女だと思われたとしても、構わないと思った。だが、大上の哀れむような瞳に会うと、姫の心は溢れ出してきてしまう。
「……信時の君は嫌です……」
「……」
大上の目は姫を憐れむ目。けれど、それは、欲深い女を憐れむ眼ではない。
姫はその眼に堪えられなくなった。横を向いて、溢れる思いを押しとどめることもできずに。とうとうぽろぽろ涙を落としてしまった。
「どうして、信時はお嫌なの?」
大上の声はやさしい。まるで、幼い日に失った母のようだ。姫は何故か話してしまう。この人の前で。震える声で。
「……傾城傾国とは申しますが、何故殿方は女の為に判断を誤り、国を滅ぼしてしまうのでしょう。それは、君主が人間だからです。男だからです。男が女を愛するは、正しき人間の本能。本能には君主も勝てませぬ。そして、情が深く民を愛する賢君こそ、一つ間違えると、女に溺れる。情が深いからこそ、女への情も深くなる。信時の君は情の深い賢い御方でございます。私は美人ではありませんが、あの方はきっと私のせいで、眼が曇る。私のせいで、正しき判断ができなくなる。私が側にいたら、あの方は賢い方でなくなる。愚かになる。壊れていく信時の君を……私は、そんな信時の君を見たくはありません」
「姫君。あなたは……」
そう。信時は敵であろうと、構わず姫を助けてしまう男だ。理由なく、ただそうせずにはいられなく、そうしてしまう。
そして、昨夜、あのような行動に出た。姫を思う余りに。
姫を思うと、理性が働かなくなり、本能のままに姫に溺れていく男。
そう。姫が彼の側にいたら、彼は姫に溺れて、壊れていく。
きっと、愚人になる。身を滅ぼすことになる。
姫は涙を流し続けている。
大上の目にも、涙があった。
「夫婦なれば、その限りでもありますまい。愛が強さを呼ぶこともあります。姫君が時有の妻になってしまうことこそ、信時には危険でしょう。嫉妬に狂い……姫君が傾国となってしまうのは、その時でしょう」
大上が時有を呼んだのか。たまたま時有が母に会いたくなっただけなのか。
翌日の夕方、東殿に時有がやってきた。
他愛ない話のついでに、大上は貴姫君のことを口にした。
「のう。貴姫君を時有が権北ノ方にするという話じゃが……姫君は信時に譲りなさい」
「は?」
「こなたは都より高貴の北ノ方を娶ったばかり。新たに貴姫君を加えるのは、都の方々にも申し訳ないことだし、もめ事の元じゃ。信時はまだ独り故、信時がよかろう。それに、貴姫君は敵ぞ。こなたにその敵を飼い慣らすことができようか?」
「姫君に寝首をかかれるとか?だったら、信時の妻にもやれませぬ。私が殺されるなら、信時とて同じことです。そして、私が殺されてはならぬが、信時ならば構わぬということは、断じてありませぬ。信時は大事な弟。信時のかわりなどおりませぬ」
「いいえ、信時ならば──」
大上は身を乗り出して言う。
「人には相性というものがある。貴姫君はこなたには合わぬが、信時とは合うのよ」
「相性?信時なれば、殺されないと?」
と言いつつも、鋭い男である。何かを感じないわけがない。
「まあ、いいでしょう。信時に譲ってやるとして……しかし、母上。信時が貴姫君なんか要らぬと思っていたら、どうします?あの弟のことだ、こんな女、押し付けられても迷惑と思いながらも、受け取るのでは?それとも何ですか、信時は喜んで貴姫君を譲られるとか?」
意外という顔をするか、驚くかと思いきや、大上は顔色一つ変えなかった。
「察しておやりなさい。信時の気持ち。そして、姫君のお気持ち……」
「母上。では、私の心はどこへ持って行ったらよいのですか?貴姫君は私も……私の心の穢れなき部分に居る人なのに」
はじめて、大上は驚いた。
その晩、時有は信時を自室に呼んだ。
朧月が出ている。
月見酒ということか。酒が出ている。
瓶子を前に、信時はにこにこしていた。時有を正面から見て──。
それで、つい時有はいつものように、弟可愛いという気持ちが湧き起こった。だが、それを強いて下の方へ押し込んで、凜とした表情を作ってみせた。
その表情が、何だか信時にはとても厳格なものに見え、笑みを消した。そうしていると、無表情に見える。
「信時、相談がある」
「はい」
「他でもない。我が身のことだ。新たに妻を持つこと。どうするべきだと思う?」
貴姫君のことだと思った。今更何を相談するのか。貴姫君のことは、既に決まったことではないか。
信時はさらに無機質な顔で、
「さ、兄上の女人の問題。私に相談されましても、私には判断致しかねまする」
と答えた。
もっともな意見である。兄の女関係など、弟の預かり知らぬところ。信時の返答は、ごく普通のものである。
だが、無機質な顔の下、衣に包まれた彼の胸や腹、そして背には、冷や汗が流れていた。
「いやまあ、そう冷たくするなよ」
時有はそこで初めて笑顔になった。そして、そのまま穏やかに言う。
「法化と和睦したい」
「御意」
「そのためには、やむを得ない縁組みなのだ。人質の貴姫君を、人質ではなく、我が一族に加えるのだ。故に、我が妻と致すが、如何に、信時?」
何を今更。確定はしていないが、ほぼ決まったことではないか。
信時は一呼吸置いてから、
「はっ」
と言った。
時有はよくよく信時の顔を見た。だが、信時の顔は無機質のままだ。
「この時有が貴姫君を妻とすること、おことも良案と思うか?」
「はっ」
「時有が妻にしても構わないか」
「はっ」
「私が、貴姫君を妻にしてもよいのだな」
更に念を押されて、さすがに信時も右の眉をぴくりと動かした。思わず顔を上げ、時有の顔を見てしまう。
目と目ががちと合う。
が、それでも少しも負けず、なお表情は変えずに両手を床につけると、
「はっ」
と、恭しく頭を下げた。
額づくと、その背が時有にも見える。
その背へ、実に厳しい睨みをくれて、
「そうか」
と、時有は感情のない声で言った。そして、大きく一つ、吐息した。
少しも愚かでない人ほど、悲しいものはない。
翌日の夕刻、時有はもう一度貴姫君を訪ねた。
既に闇が迫り来ている。
闇に食われる。
闇が得体の知れない恐ろしいものに感じた。
時有が妻戸の中へ入ろうと、戸を開けると、中はぬばたまの闇であった。彼はその中に吸い込まれた。
彼の腹の中までも、闇に支配される。
御簾が垂れていた。
その奥の方がぼうっと明るい。その光のある所が、貴姫君の居場所であることを示していた。時有は挨拶もなく、開口一番に、
「改めて問います。我が妻となること、ご承諾下さっていますか?」
と、低く言った。
「はい」
向こうから貴姫君の声がした。
時有は何故かその声に興奮して、
「まことにそれで宜しいのですか?明日は家の子郎党を集めて、酒宴を開きますが、あなたがご承諾下さるなら、明日その席で、その件、決定したと公表してしまいますが」
と、やや声を荒げた。
「はい」
「宜しいのか?それで決まりですぞ」
「……私は人質。自分の意志で行動することは許されぬ身にございますれば」
「そうか」
吐き捨てるように言った。
それで立ち去るのかと思いきや、ふと、
「信時が好きか?」
と尋ねてきた。声色も変えて。
貴姫君は何故かこの時、ぎょっとすることもなく、ぼんやりと時有の問いかけに従った。
信時が好きか……
浮かんできたのは、初めて信時に会った時のことだった。
桜町館で桜木の行く末を頼み、それを引き受けてくれた時の信時の顔。
次に浮かんできたのは、業経の処刑。自分も殺してと頼んでも、誰一人聞いてくれなかったのに、一人、信時だけが願いを叶えてやろうと言ってくれた。
法化の琴を届けてくれた信時。
姫を欲しいと叫んだ。
姫のもとに忍んできた……
信時の顔。顔。顔。
そして、信時の狩衣を縫う自分の姿……
「信時を好きか?」
浮かぶ信時の顔。
それに時有の問いが重なって。
姫は頷いた。目覚めたような、何かに気付いたような、何かを悟ったような顔で。目に涙さえ滲ませて。
頷いた。
もう一度頷きながら、
「はい」
と。
その自分の声に気付いて、はっと貴姫君は我に返る。
「そうか」
時有がそう答えたのが聞こえた。




