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正声・十七拍──鳳勢(陸)

 すでに春。


 あれから暫く経つが、清花の姫君の病は癒えていない。


 いつになったら、入内は実現するのかと、帝はすっかり焦れていた。とはいえ帝も人の子。


「棟成の娘は病弱だそうだが、もしや朕のことが嫌なのではないのか。入内を拒み、悩んで、病みついてしまったのではないのか」


 そう思った。


 帝はまだ一度も見たことはないとは言え、姫君に純粋な思いを抱いていたから、もしや嫌われていたらと、心配になったようだ。


「確かに、呉楚派の名品を取り上げたことは、心ないことであったやもしれぬ」


 反省さえしていたのだった。


「入内したら、呉楚派の物をやるというのも、琴神の誉れ高き七絃七賢に対して、その技を汚す物言いであった。名手の気高き誇りを傷つけ、呉楚派の名を汚す行いであった」


 帝はそこまで言ったのである。


 ふと、正気に戻ったのかもしれぬ。


 帝はもともと大変に頭のよい人であった。そして、他人の気持ちを推し量り、気遣い、優れた人を尊敬する姿勢を忘れない人でもあったのだ。


 帝の仰せ言に、六条内大臣殿は感激した。


「これが、朕の姫君への心だ」


 さらにそう言って、帝は文王の琴や数々の譜、楽書の類を清花の姫君へ下賜したのであった。なお鳳勢の下賜はなかったものの、呉楚派の宝物を山ほど下賜したのである。


 それらの宝物を持って姫君のもとへまかり来た帝のみ使いは、中納言三位局であった。


 中納言三位局とは、実は清花の姫君の母君。六条内大臣殿の北ノ方である。


 中納言三位局は洞院中納言殿の娘だが、少女の頃、朱桜内侍殿(ははかのないしどの)とて、ほんの一時、宮仕えをしたことがあった。洞院中納言殿の叔母君で、四代前の帝の皇后宮にである。


 皇后宮が皇太后宮であった時。この人が亡くなるまでのほんの僅かな間だが、仕えていた。


 因みにこの皇后宮は、現在の仙洞の院や、昨年崩御したばかりの新院にとっては、おん嫡母(てきぼ)に当たる。


 生さぬ仲の本院と新院の兄弟を、やさしくあたたかく育てた。心の広い賢婦人であった。


 中納言三位局は皇后宮が亡くなった後、実家に戻り、間もなく棟成公を婿に迎え、それからしばらくは宮仕えから遠ざかっていた。だが、先年より再び宮仕えを始めて、今も宮中にいる。


 帝のみ使いとして、我が子のもとを訪れた中納言三位殿だったが、やはり久しぶりの母子の再会に話は尽きず、談笑を楽しんだのであった。


「主上がこれら呉楚派の品々をご下賜になったことは、まことに有り難きこと。御使いとして、この身をお遣わしになったお気遣い。重ねて感謝申し上げねば。主上は姫君の病もとても心配して下さっていた。母であるこの身が、娘を案じているに違いないとお察し下さって、よく看てあげなさいとの仰せ言さえ賜ったる上での使者のお役目なのです」


 母は青白い娘の顔に言った。握った手が熱いのは、姫君になお熱があるからであろう。


 掛けた単衣の下の肩がとても小さく、薄い単衣さえ重たそうである。


 姫君は目眩に堪えながらも、こう答えた。


「まことに勿体無きことです。主上がそこまで私なんぞに御気をかけて下さって。御礼の申し上げようもございませぬ」


「まことに」


 母君は寄って、姫君の背をその胸に抱いて、支えてやった。


 姫君は眉根を寄せて、眼をぎゅっと瞑る。やはり目眩がするらしい。


「のう、姫君」


 母君は娘の肩の単衣を脱がせ、その身をそっと床に横たわらせた。


 衾をその上に掛けながら、


「御礼は入内で致しましょうの。姫君が主上の御前に参ることが、何よりの主上への御礼ぞ」


と、諭すように言った。


「……」


「のう?」


「……」


 その話題になると、どうしても姫君の表情は暗くなる。くすんだ頬の色に、中納言三位殿は不安をかきたてられた。


「……姫君……?」


「母君……私、尼になりたい……」


「ええ、そうね。母もいつかは尼になりたいと思っていますよ。姫君も五十、六十になったら出家なさるのもよいでしょう」


 寧ろ笑顔で母君は言ったが、姫君は枕に載せた頭を弱々しく振った。


「いいえ。そうではなくて。今。今日明日にでも出家がしたいのです」


 自嘲するような姫君の表情。


 母君は眼をぱちくりとさせ、


「まあ、今……。何故?」


と、愚問した。


「私は、俗世と縁を絶ち、琴だけを見つめて──己と向かい合って、己を見極めて、この感情の愚かな部分を、全てかなぐり捨ててしまいたいのです」


 紅潮しているのか、微熱のせいなのか、姫君の頬が桜色に染まっている。


 中納言三位殿は暫し姫君の言葉を咀嚼しているようだったが、間もなくこう言った。


「それならば、何も今でなくともよいのではないの?人の愚かな感情を捨てるのは、何も若いうちでなくとも」


「でも。今でなくては駄目なのです。今のこの愚かさを、どうにかしたい」


「今?今だというならば……」


 表情を急に険しくして、


「出家など、絶対に許しませぬ!」


 母君は叫んだ。


「そんなに入内がお嫌なの?主上のお望みのことなのに。后宮という、女の最高の栄誉をそこまで憎むの?后宮になるくらいなら、世を捨て、この母を捨て、何もかも捨てて、尼となってしまった方がよいと仰るの?」


 涙さえ見せて、中納言三位殿は姫君を責めるのである。


 そのような母君を見ても、姫君は慌てることもなく、落ち着いた様子で静かに言った。


「そうではないのです、母君。入内のお話は関係ありませぬ。仮に入内のお話がなかったとしても、やはり私は出家をしたいと申しましたでしょう」


「まあ、何故?何がお嫌なの?何が気に入らないの?」


「そうではなくて。気に入らないことなんて、何もございませぬ。私の単なる我が儘です。──私は人間ができておりませぬ。心を磨き、精神を鍛えたいのです。人生は、いつも頂上を目指して登り続けるものだと思います。けれど、夢を成し遂げてしまって、夢を見失った瞬間から、人生は虚しいものになってしまうのです。私は人生の最高峰にいる時に死にたい。死ぬその瞬間が、人生の中の最高点の場所で……精神が最も清浄な状態で死を迎えたいのです。そのために、修行がしたいのです。今からその修行を始めて、最高峰に──。今からすぐ、出家がしたいのです」


 頭を殴られたような衝撃。そんなことを考えているなんてと、中納言三位殿は思った。


「……でも、後生だから、出家だけはやめて。せめて、母が死ぬまで待って下さい!」





 その夜、一人病床で姫君は鬱々と考え込んでいた。


 どうしても入内はしたくない。出家がしたい。──自分は我が儘に違いない。


 名家に生まれた以上、決められた縁組みに従わなくてはならない。それが名家に生まれた者の義務だ。入内は宿命なのだから。それに従うのが、正しい生き方なのに違いない。


 名門に生まれながら、「その宿命は堪え難い、辛い。厭なこと」と、自分の気持ちの赴くままに生きたのでは、周囲に迷惑がかかる。我が儘を許されない立場にあるという自覚が足りない。


 どの人も我慢して、願望を抑えて、宿命に従っているではないか。


 嫌いな相手であれ、決められた人ならば、その人の妻となる。それが政治というものだ。


 他の人に秘めたる恋心を抱いたとしても、その恋は捨て、決められた縁組みに従う。それが名門に生まれた女の道だ。


 入内が清花の姫君に定められた道ならば、それを受け入れるのが当たり前ではないか。


 琴一筋に生きたくとも。


 恋した人以外のものになりたくなくとも。


 愚かな心を捨てたくとも。


 入内するしかないのだ。出家の道を選べば、周囲への迷惑も考えぬ、勝手者に他ならない。


 どうしても入内しなければならないのだ。


 姫君は仰向けに、天井を睨みながら、自問自答していた。


 宿命を受け入れなければならないのだろう、と考えた時、何だか急に気分が悪くなった。


 思考はそれ以上続かない。


 気分の悪さと、しばし戦っていた。だが、とうとう堪えきれなくなって起き上がった。床の上に座ると、内臓が縦になる分、いくらか楽な気はする。


 喘ぎ喘ぎ、何とか息を整えようとしていると、不意に体の中程から、ぐっと稲妻が走るような衝撃が突き抜けた。そのままその稲光は上に通り抜ける。


 思わず口元を手で覆ったが、その衝撃に耐えられず、それは一気に吹き出す。


 一瞬の事だが、吐き出してしまうと、随分すっきりした。


 何だろう。


 手に違和感がある。手も袖も濡れている。


 姫君は枕辺に一つだけ灯している紙燭を寄せて、その手を見た。


 灯陰の色のせいではない。赤。


 赤い。濡れた手も。袖も、まるで錦のように染まっている。


「っ!!」


 その色を見たと同時に、意識が遠のき、そのまま気絶してしまった。

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