正声・十七拍──鳳勢(肆)
白河の関を越えて進軍していた武蔵守時有は、大盗賊団・大乘党に苦戦していた。それというのも、弟の信時の軍を途中から離脱させたことに原因がある。
はじめ、老将の俊幸に留守居を命じて、兄弟揃って出陣したのだ。
途中、法化党の寂意入道の支配地のすぐ近くを通らなければならず、神経を使ったが、寂意入道は攻撃してくることもなく、沈黙を続けていた。
やがて白河の関を越えて、大乘党との決戦に挑んだ。だが、なお背後の寂意入道の動きが気になっていた。それでも寂意入道は沈黙を守っていたが。
大乘党との決戦は、こちらが優勢だった。兄弟力を合わせて、さて、今度こそ勝利を──その矢先だった。
寂意入道ではない。
法化党本隊が動いたのだ。関東水軍・長行との連合軍は、下総桜町館に迫った。
で、信時が急遽下総に向かわなければならなくなったのだ。
信時が南下したため、時有は大乘党と五分。
「おのれ!経実!」
時有と信時、それぞれ別の場所でそう罵っていた。
どうして、信時がそう叫んだかと言うと。
下総に向かう途中、それまで沈黙を続けていた寂意入道が、俄かに出てきて、行く手を阻んだからである。
しかも、いつの間にか軍を分散させていた法化党が、寂意入道に加勢していたのだ。
すなわち。
法化党は、軍を三手に分けていた。
長行らに桜町館を攻めさせ、法化党の一部は寂意入道のもとへ援軍として向かい。経実──希姫君率いる本隊は、手薄の牧邸を目指す。
下野の軍は皆、時有に従って、大乘党との戦に挑み、下野は空白状態。経実を阻む者はない。
経実は上野まで一気に駆け抜ける。
本拠の危機だった。
留守居の俊幸が、各地の軍を纏めて応戦。武蔵や上野の豪族も続々馳せ参じて、どうにか法化党から本拠を守れた。
一方、早く桜町館に行かなくてはならない信時だったが、なかなか行くことができない。
仕方なく、時有は大乘党と引き分けて、直ぐに引き上げた。もしかしたら大乘党には勝てたかもしれない戦だが、今はそうも言っていられない。
時有が信時に加勢すると、寂意入道は退却を始めた。
おそらく、兄弟揃って入道を追えば、いくら法化党の援軍を持つ入道とはいえ、敵わなかったであろう。入道は領地を失ったかもしれない。
だが、時有も信時も、そんなものより桜町館が大事だった。
法化党の本隊は俊幸らの攻撃に、頃合いを見計らって退却している。これが桜町館に到着し、長行の水軍と合流すれば、桜町館は法化党に奪還される可能性がある。
時有も信時も、法化党の本隊が桜町館に到達する前に、そこへ行かなければならなかった。
寂意入道なぞ放っておいて、一気に桜町館を目指す。
だが、兄弟がそこに着いた時、法化党は既にそこにはなく、退却した後だった。
代わりに、そこには俊幸らがいた。
俊幸らは、上野から退却する法化党の経実を追い続けた。
経実は桜町館に到着し、長行と合流すると、桜町館を奪還しようと攻撃をしかけた。だが、時有らがこちらへ急行しているとの報告が入ると、あっさり投げ出して、船に乗って帰ってしまったのだという。
俊幸らが到着した時には、法化党は退却をほぼ完了させた後だった。
「逃げ足の速い……」
俊幸はそう苦々しげに言ったが、時有は震えが止まらない。
「何ということか。奪われなかったとは言え、我等の喉元にまで侵攻してくるなぞ。なんと恐ろしい奴」
「されど。牧邸を攻めたとて、成功せぬことは初めからわかっておりましょう。法化党はこの戦で何も得てはおりませぬぞ。何の目的でこのような。まこと、経実は気が狂ったようで」
俊幸は嘲笑った。
「いや」
信時が眉根を寄せる。
「兄上。もしや、大乘党と法化党は密かに手を組んだのではございますまいか?」
「なにっ!?」
時有ばかりでない。皆一斉に信時を見た。
「或いは、経実の酔狂。大乘党を助けてやるために、我等の領地を引っ掻き回した。目的は我等を混乱させ、大乘党への攻撃をやめさせること」
「何故そう思う?」
時有は目を丸くする。
「はい。法化党の目的は我等を壊滅させることでしょう。我等が滅ぶなら、いかなる手も使う。人質をとられているのに、躊躇が見受けられない。人質が殺されるなら、それはそれで仕方ないと思っているような……我等を滅ぼす為なら、手段は選ばないのでしょう。大乘党が利用できるなら、利用しようというのかもしれませぬ。大乘党が成長すれば、大乘党も我等の脅威となる。大乘党を大きくし、大乘党に我等を攻めさせようというのですよ、きっと。おおじ」
と、そこで俊幸に話し掛けた。
「法化党のこの度の目的は、我等の領地を奪うことではない。攻撃をしかけても、反撃に遭うと、あっさり放り出さなかったか?」
「はあ、そういえばそうでしたな。固執する様子はなく、大将格の首級を目的としている様子もありませなんだ。だから、何しに来たのかと訝しく思ったものです」
「やはり。我等を攪乱するのが目的だったのか。法化党の死亡者、負傷者の数は?」
「殆ど出ておりませぬ」
「なるほど」
苦虫を噛み潰したように時有が言った。
つまり経実は攻撃する場所、頃合い、全て計算していたということか。そして全て計算通りに事が運んだということだ。時有は経実の掌の上で巧く転がされてしまったのだ。
「いいいっ!悔しい!」
俊幸が足を踏み鳴らした。拳を作った右手を上下に振りながら。
「殿!このまま済ませるわけには参りませぬ!このまま寂意入道を攻め、奴の所領を奪い返してやりましょうぞ!」
この兵数なら、寂意入道に勝てる筈だ。確か法化党の援軍もいたが、それでもこちらが優勢だろう。
「行くか」
馬鹿にされたままなのは腹が立つ。時有も攻撃に賛同した。
ところが、進軍を始めて暫くすると、驚くべき報告が入った。
完全に常陸にまで退却した法化党。今度は常陸の中を駆け抜け、もう寂意入道のすぐ後ろにまで到っているというのである。利根川より内海に出、別の水路から香取海に至り、さらに衣川を遡上して上陸。あとは陸路を駆け抜けたらしい。
「なんという疾風の如き速さ!」
時有はまた肝を冷やした。
「まさか。我等の心理、行動を見越していたのでは……怒った我等が攻め込むのを読んで、はじめから……これも経実の計算通りなのか……」
恐ろしくなった時有は上野に退却することにした。
経実──希姫君は、
「腰抜けどもめ!」
あはははと、さも愉快そうに笑い、そして、病床の兄を喜ばせた。
法化党に邪魔されたが故に大乘党と引き分けた時有は、今後の対策を真剣に考えなくてはならなくなり。
大乘党は益々勢力を拡大して行く。
「法化党の経実か。是非一度その顔拝みたいものよ」
大乘党の首領・小太郎教理は、法化党へ強い興味を持った。
経実は教理からの書簡を無視していたが、更なる勢力拡大を目指し、西に目を向け始めている。
「烏丸左大臣の死去なぞ関係ない。都へ。都を目指すのだ。我等は都を支配し、帝を支配するのだ」
そのために、大乘党は使える。奴らに時有を攻めさせ、法化党は西へ向かう。
だから、今、大乘党を滅ぼさせるわけにはいかなかった。将来のために、今は守り、太らせておかねばならぬ。
清花の姫君の健康は、再び思わしくないものになってきていた。どこがどう悪いというのではないが、全体的に弱くなっている。
それでも、父君の内大臣殿はなお入内への執着を捨ててはいなかった。
「主上が、入内したら、鳳勢を下さるそうだぞ。鳳勢ばかりか他の琴や譜も。呉楚派伝来品は皆、姫君に下さるそうだ」
祝着だと言って、父君は喜んでいた。
何をどうやって、そんな約束を取り付けてきたのかは知らないが、父君の喜ぶ顔を見て、つい姫君は顔曇らせる。
脇で聞いていた宰相中将殿も、入内しなくては鳳勢を下さらぬのかと、妹君の秘めた恋を知っている故につらい。
けれど、内大臣殿には預かり知らぬ事である。
「よかったのう。これで姫君も、晴れて呉楚派の当主よ。入内も成り、呉楚派の当主ともなる。それ故、早う元気にならねばの。健やかな体を取り戻し、入内しようの。のう、待ち遠しかろ。今から入内の日が。待ち遠しかろ、のう?」
「しかし」
と、ここで中将殿が口を出す。
「入内するまでは、なお何も下さらぬのでしょうか、主上は?」
「ううむ、そうだなあ」
と内大臣殿は嬉し気に、
「主上が姫君の入内を望んでおわしたのは、ずっと前からのこと。身もじらしてしまったからのう。主上も、何としても入内させむと思し召して、入内したら下さろうが、それまでは一つもやらぬと仰せなのであろ」
と言って、何がおかしいのかくすくす笑った。
「何という……」
中将殿は思わず口にしかけたが、続きは心の中だけで──本来姫君が受け継ぐ筈の呉楚派の伝来品を取り上げて、それを取り返したければ、入内せよと仰しゃる。入内せねば返してやらぬとは。琴を餌に姫君を釣り上げようとは──そう言った。
「そこまでしてでも、姫君を入内させたいと思し召して。何とも勿体なき、有り難き思し召しよ」
内大臣殿の明るく澄んだ声。それが朗々と響けば響くほど、姫君の心は暗澹となった。
「……もし、私が女の身でなかったならば……男であったならば、主上はいかが遊ばしたでしょう。琴をご下賜になったでしょうか……」
病床からのか細い声に、内大臣殿は何かはっとさせられたらしい。何を感じたのか、急に笑みを覆って、不安げに病床を覗き込んだ。
「……姫君……」
「……」
「……また後で来るとしよう。少し休みなさい。さ、頼周」
と、内大臣殿は中将殿を促すと、そそくさと出て行った。
渡殿の辺りで内大臣殿は中将殿に問う。
「おことは何ぞ知っておるのか?」
中将殿は父君の瞳をじっと見て、けれど、何も答えなかった。
父君と兄君が出て行くと、姫君は病床に横になった。
余り大勢いると、体にもよくないからというので、女房どもは下がらせている。枕辺には乳母の才外記だけが侍っていた。
「あら、いやだ。お熱ですわ」
何気なく姫君の額に手をやった才外記が、驚きの声をあげた。
「まあ、まあ、大変。また医師を呼びにやらなくては」
「乳母。医師は呼ばなくても宜しいです。夕刻は体温は上がるものだわ。微熱のある者には、仕方のないことです」
「でも……冷やさないと。水を持って参ります。しばらくお待ちを」
才外記はすぐに水を汲みに出て行った。
一人病床に残されて、天井をぼんやり眺めていると、先程自分で言ったことが思い出される。
──もし、この身が女でなかったならば、帝はすんなりと呉楚派の品を下さっただろうか──
男であれば、入内云々という話は出てくるわけもなく。
呉楚派の品に関係なく。男であったなら、入内など、決してない。女故に入内の話が出るのだ。
どうして男に生まれなかったものか。女などに生まれたばかりに厄介なことだ。
入内ばかりでない。このやり場のない思い。
男に生まれたかったと姫君は思った。
男に生まれていれば、男に恋をしなくてすむ。
韶徳三位殿を。
こんなに悲しい恋をしなくてすんだのに。
そして、この感情のまま、入内をすることもなく、幸せでいられた筈なのに。
実におかしな感情だ。恋というものは──。
正義までをも不当な悪に感じさせる。尊いものをも卑しく感じさせる。
入内は父君の長年の夢だったではないか。そして、そのための教育を幼い時から受けてきたこの身ではないか。女の最高の幸福だと信じ、入内するつもりで生きてきた自分ではなかったか。
入内は自分自身の夢でもあった筈だ。
それが、女に生まれて恋を知って、全てが価値のない、むしろ遠ざけたいものになってしまうとは。
女に生まれたからこそ成し遂げられる、帝の后宮という地位だが、女に生まれたからこそ韶徳三位殿に恋をし、苦行を身に受けることとなってしまったのだ。
どうしても入内しなければならないのか。
三位殿以外の人のものにならなければならないのか。
三位殿亡き今は、もう誰のものにもなりたくない。
「私は決して、誰のものにもなりません!」
思わず声にしていると、衣擦れの音が近づいてきて、すぐに才外記が姿を見せたので、はっと口を噤んだ。
だが、
「まあ、おん涙などがおん眦から。どうなさったのです。お苦しいのですか」
と、才外記は目敏く見つけて、自らの手で姫君の目元を拭った。
「……何でもありません。熱のせいでしょう。熱が出ると、目は潤むものです」
姫君はそう答えて、弱々しく微笑んだ。




