正声・十七拍──鳳勢(参)
やがて、頭の弁に連れられて、円慶法橋は清涼殿の庭に向かった。
すでに帝は出御していて、殿上の間には雲上人が群れていた。その中には大学助もあり、宰相中将殿の姿もあった。
御前の庭には琴卓と椅子が置かれてい、琴卓の上には鳳勢の琴が載せられている。
「兼保の代理よ、そこに座って、それをかき鳴らしてみよ」
御簾内から帝が大声で怒鳴った。庭にまではっきりと届くほどの大音声である。右大臣はその声に、耳が突ん裂けると直感してか、一瞬物凄い顔をして身震いした。
法橋は庭の白石の上にひれ伏していたが、
「そちらの席に移られよ」
と頭の弁に促されて、椅子の前まで来た。
だが、卓の上の鳳勢を一目見るなり、
「ははあ。これや、琴の反乱よな」
と呟いた。
聞き咎めて、頭の弁が小声で、
「どういうことです?」
と尋ねる。
が、法橋は殿上の奥の帝の耳にまで届くような、これまた戦場の荒夷の如き大音声で答えた。
「畏れながら、この琴は拙僧に触れられるのを嫌だと申しております。嫌がるものを無理に弾いても、音なぞ鳴りますまい。また、仮に少副兼保が参りましても、瀕死の蔭元でも、この琴の失われた音声を取り戻すことは不可能かと存じます」
「なんと?」
殿上の間が一斉にざわついた。法橋の言い澄ますのと同時に、さっと御簾内の様子を窺う。どの眼もぞっとおぞけ立っている。
「なに!!ではこなたは、朕の前では琴は弾かぬと言いやるかっ!」
殿上人は全員、その怒鳴り声に首を竦ませた。「ああ、帝が抜刀遊ばして、そこら辺を斬り回したら……」
──どの心もそう叫んでいる。
だが、一人法橋は、
「いやまあ、仰せとあれば弾きましょうが、必ず音は鳴らぬことを、予め申し上げておきましょう」
と実に不真面目である。
皆がますます怯え震えた時、意外にも帝は普通の様子で、
「何故こなたには弾けぬと言いやるか。兼保でも蔭元でも無理とは、何故に?五琴仙に名を連ねるほどの者が」
と問う。
その声音に、皆ほっと胸撫でおろした。
「それは──」
言いかけて、皆の殺気を込めた眼が一斉に向けられると、法橋は一瞬言葉を選ぶように思案顔をして見せてから、こう言った。
「この琴を鳴らせる者は、誰もおりませんでしょう。この琴は稀にみる忠義者です。主への忠故に、他の者を拒む。拙僧も兼保も蔭元も皆南唐派の者にて、この鳳勢の琴は触れられるのを嫌がるのです」
「ええい、屁理屈を」
と言ったのは、帝ではない、右大臣である。
「よいから、早う弾け!」
「ま、試してみましょう。したが、拙僧の予見が当たったからとて、責めないで頂きたい」
そう言うと、やおら椅子に腰を下ろして、実に無造作に鳳勢の絃をつま弾いた。
すかっすかっと、ちっとも鳴らぬ。
皆驚いて、顔見合わせる。
音楽家の面目をかけた実験である。普通、楽器に拒まれたといえば、恥であろうに、この法橋はお構いなし。
「ほら、ね」
と、大威張りだ。胸を張って澄まし顔。
ここまで開き直られると、皆開いた口も塞がらない。
さすがの帝もこれには降参してか、
「わかった。鳳勢はこなたにも鳴らせぬことはわかった」
と、呆れている。
そして、暫しの沈黙の後、
「大学助」
と呼んだ。
大学助が額づくと、
「大学寮の琴士はいかほどおるか?」
と問う。
「はっ、十人そこそこにございまする」
「うむ。頭の弁、すぐに大学助と共にそれらの者どもを全員連れて来い。嗜む程度の者でも構わぬ。とにかく、琴をかじったことのある者は全員だ」
と命じた。
すぐに二人は下がって大学寮に向かった。
それを見届けると、帝は庭の法橋に言う。
「こなたは、大学寮の者どもでは無理だと言うのだろうな?」
「はい。無理でしょうな」
臆しもせず、法橋はそう答えた。殿上人達がはらはらしていると、何故か帝は、がははと笑った。皆びっくりする。
「大学寮の者どもは、ほとんどが呉楚派だ。かつて行実の弟子の伊定とかいう博士が、大学寮で沢山の弟子を持った。それ故、大学寮では代々呉楚派が受け継がれておる。こなたが南唐派故に鳳勢を弾くことが叶わぬのであれば、大学寮の者どもならば弾ける筈だぞ」
「お言葉ですが、あの者ら程度の腕では無理です。この世で鳳勢を弾ける者などいないでしょう」
「それは困る。天下第一の琴が音無しでは」
「ま、浄玖(政任)ならば、鳴らせるやもしれませぬが」
「なに浄玖とな?」
「但し、この世のお方か否か、確かめる術とてございませぬが」
その頃、頭の弁と大学助は大学寮に来ていた。
大学寮ではたまたま琴会でもあったらしく、琴の心得ある者ばかり、一つ所に集まっていた。
右手の爪だけ長い集団が集会しているのは、何だか少し不気味だと頭の弁は思った。
帝の御意を伝える。
臆して緊張する学生ども。
「いいから!つべこべ言わずに参れっ!!」
ついかっと怒鳴り散らし、学生らはひっと萎縮する。
そしてそんな彼らを、
「早くしろ!」
と、益々荒げた声でせき立て、有無も言わさず引き連れ、急いで御前の庭に戻った。
庭に皆、平伏する。腕がぷるぷる震え、体を支えるのも難儀だ。
奥から声がした。
「よいか。もしその琴を鳴らすことができたら、その者には褒美として、非蔵人にしてくれようぞ。頑張ってみよ」
一生拝むことも、玉声さえ聞くこともないと思っていた帝から、直接のお言葉を賜り、学生どもは感激と緊張と恐ろしさで、わけがわからなくなった。
一人目が琴の前に座らされた。
殿上の間の大臣公卿ら貴人の目が、一斉に彼の手元一点に集中する。その奥には帝もおわしまして、同様にその手を見つめていらっしゃる──そう思うと、その視線に手が痛いと悲鳴をあげる。
彼の脳天は爆発していた。
「ほれ、どうした?」
琴卓のすぐ横に立っている貴僧の飄々とした表情に、涙目になりながらも、彼は「えいっ!!」と、思いきって力いっぱい太絃を弾いた。が。
すかっ。またもや鳳勢は鳴らない。
「次」
頭の弁が彼を退かせて、次の者に挑ませようとした。彼は恥に顔を真っ赤にして、次の者に座を譲る。
だが、次の者も鳴らせず、すごすごと退き、その次の者も、やはりその次の者も鳳勢の音を出すことができなかった。
「なんだ。結局誰も鳴らすことができなんだな」
帝は恥に堪える学生どもを等分に見て、
「なるほど、法橋の言う通りだ」
と頷いた。
「しかし、誰にも鳳勢は鳴らせないとなると、このままずっと、未来永劫この琴の音を聴くことは叶わぬのか。このままずっと音無しのままなのか。天下第一の琴の音を聴けぬとは、残念だ。諦めきれぬ」
憂えて言うのを、法橋は、
「まあ、おそらく一人だけ音勢を取り戻せる人がおりましょうがな」
と、少しも慰めの色も感じられない声で言った。
「浄玖であると言うのであろ?」
「いえ」
「なんと、浄玖ではないと?」
帝ばかりか殿上の間の人々、庭の学生どもまでもが驚愕の眼差しを法橋に向けた。
「た、誰じゃ?」
右大臣が息を飲む。
「それは、六条の内の大臣の姫君にございます」
清涼殿じゅう、上も下もざわめき立った。
法橋は宰相中将殿を見つめ、宰相中将殿は帝の龍顔を窺った。
鳳勢がその音声を失ったという話は忽ち広がった。
清花の姫君も、円慶法橋が推参した日に兄君の中将殿からその話は聞いていた。
兄君から一言聞いた途端、
「何ということでしょう!」
と言ったまま、黙してしまった。それきり何も言わない。
さすがは鳳勢は天下第一の琴。名器は主を選ぶもの。鳳勢に主と認められた者は、終生楽器に愛される。
鳳勢は一度主と決めたら、忠義を貫くのでもある。だから、自分の主にしか従わぬ。
鳳勢の敬愛する主は、この世にただ一人。韶徳三位殿のみ。
けれど、その主はこの世になく。
主を失って、この世に取り残されて。ぽつねんと。
鳳勢は三位殿に会いたいのだろう。
主なくして悲しむあまり……
忠義なるかな──姫君は改めて悲しく、鳳勢を可哀想に思った。
鳳勢もそう。
姫君もそう。
こんなにも三位殿を失ったことが悲しい。
姫君がずっと黙ったままなので、中将殿はこう言った。
「法橋は、姫君だけが鳳勢を鳴らすことができるだろうとも申していた。皆どよめきましたが、実は私も密かにそう思っているのです」
「……私が?」
姫君はやっと口を開いた。
「いかにも。法橋の奏上に、そっと龍顔を窺い見たが、法橋の言葉には主上のみ心にも動揺があったように思える。主上が何と思し召したかは察しかねれども、主上には何かご思案があるやに思われる。もしかすると、鳳勢を姫君に預け下さるかもしれませんよ」
「……いったい、何を根拠に法橋は、さようなおかしなことを奏上遊ばしたものか。法橋のみ心を推測しかねます。鳳勢は私にも弾けませんでしょう」
「何故そのように思われる」
と、中将殿は尋ねたものの、姫君からの返答を期待しているわけではなかった。
そして、姫君も答えはしなかった。
もし、鳳勢が姫君の手によって、その音勢を取り戻すことが叶うのだとすれば──。
泉下の韶徳三位殿が鳳勢に、清花の姫君を新たな主とせよと命じれば、鳳勢は姫君によって音声を取り戻すことになるであろう。三位殿にその意志があるか、ないか。また、あったとして、鳳勢がその意を汲んでくれるか。
──姫君が鳳勢の音を出せるかどうか。
それは、こういうことなのかもしれない。




