表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/85

正声・十七拍──鳳勢(参)

 やがて、頭の弁に連れられて、円慶法橋は清涼殿の庭に向かった。


 すでに帝は出御していて、殿上の間には雲上人が群れていた。その中には大学助もあり、宰相中将殿の姿もあった。


 御前の庭には琴卓と椅子が置かれてい、琴卓の上には鳳勢の琴が載せられている。


「兼保の代理よ、そこに座って、それをかき鳴らしてみよ」


 御簾内から帝が大声で怒鳴った。庭にまではっきりと届くほどの大音声である。右大臣はその声に、耳が突ん裂けると直感してか、一瞬物凄い顔をして身震いした。


 法橋は庭の白石の上にひれ伏していたが、


「そちらの席に移られよ」


と頭の弁に促されて、椅子の前まで来た。


 だが、卓の上の鳳勢を一目見るなり、


「ははあ。これや、琴の反乱よな」


と呟いた。


 聞き咎めて、頭の弁が小声で、


「どういうことです?」


と尋ねる。


 が、法橋は殿上の奥の帝の耳にまで届くような、これまた戦場の荒夷の如き大音声で答えた。


「畏れながら、この琴は拙僧に触れられるのを嫌だと申しております。嫌がるものを無理に弾いても、音なぞ鳴りますまい。また、仮に少副兼保が参りましても、瀕死の蔭元でも、この琴の失われた音声を取り戻すことは不可能かと存じます」


「なんと?」


 殿上の間が一斉にざわついた。法橋の言い澄ますのと同時に、さっと御簾内の様子を窺う。どの眼もぞっとおぞけ立っている。


「なに!!ではこなたは、朕の前では琴は弾かぬと言いやるかっ!」


 殿上人は全員、その怒鳴り声に首を竦ませた。「ああ、帝が抜刀遊ばして、そこら辺を斬り回したら……」


──どの心もそう叫んでいる。


 だが、一人法橋は、


「いやまあ、仰せとあれば弾きましょうが、必ず音は鳴らぬことを、予め申し上げておきましょう」


と実に不真面目である。


 皆がますます怯え震えた時、意外にも帝は普通の様子で、


「何故こなたには弾けぬと言いやるか。兼保でも蔭元でも無理とは、何故に?五琴仙に名を連ねるほどの者が」


と問う。


 その声音に、皆ほっと胸撫でおろした。


「それは──」


 言いかけて、皆の殺気を込めた眼が一斉に向けられると、法橋は一瞬言葉を選ぶように思案顔をして見せてから、こう言った。


「この琴を鳴らせる者は、誰もおりませんでしょう。この琴は稀にみる忠義者です。主への忠故に、他の者を拒む。拙僧も兼保も蔭元も皆南唐派の者にて、この鳳勢の琴は触れられるのを嫌がるのです」


「ええい、屁理屈を」


と言ったのは、帝ではない、右大臣である。


「よいから、早う弾け!」


「ま、試してみましょう。したが、拙僧の予見が当たったからとて、責めないで頂きたい」


 そう言うと、やおら椅子に腰を下ろして、実に無造作に鳳勢の絃をつま弾いた。


 すかっすかっと、ちっとも鳴らぬ。


 皆驚いて、顔見合わせる。


 音楽家の面目をかけた実験である。普通、楽器に拒まれたといえば、恥であろうに、この法橋はお構いなし。


「ほら、ね」


と、大威張りだ。胸を張って澄まし顔。


 ここまで開き直られると、皆開いた口も塞がらない。


 さすがの帝もこれには降参してか、


「わかった。鳳勢はこなたにも鳴らせぬことはわかった」


と、呆れている。


 そして、暫しの沈黙の後、


「大学助」


と呼んだ。


 大学助が額づくと、


「大学寮の琴士はいかほどおるか?」


と問う。


「はっ、十人そこそこにございまする」


「うむ。頭の弁、すぐに大学助と共にそれらの者どもを全員連れて来い。嗜む程度の者でも構わぬ。とにかく、琴をかじったことのある者は全員だ」


と命じた。


 すぐに二人は下がって大学寮に向かった。


 それを見届けると、帝は庭の法橋に言う。


「こなたは、大学寮の者どもでは無理だと言うのだろうな?」


「はい。無理でしょうな」


 臆しもせず、法橋はそう答えた。殿上人達がはらはらしていると、何故か帝は、がははと笑った。皆びっくりする。


「大学寮の者どもは、ほとんどが呉楚派だ。かつて行実の弟子の伊定とかいう博士が、大学寮で沢山の弟子を持った。それ故、大学寮では代々呉楚派が受け継がれておる。こなたが南唐派故に鳳勢を弾くことが叶わぬのであれば、大学寮の者どもならば弾ける筈だぞ」


「お言葉ですが、あの者ら程度の腕では無理です。この世で鳳勢を弾ける者などいないでしょう」


「それは困る。天下第一の琴が音無しでは」


「ま、浄玖(政任)ならば、鳴らせるやもしれませぬが」


「なに浄玖とな?」


「但し、この世のお方か否か、確かめる術とてございませぬが」


 その頃、頭の弁と大学助は大学寮に来ていた。


 大学寮ではたまたま琴会でもあったらしく、琴の心得ある者ばかり、一つ所に集まっていた。


 右手の爪だけ長い集団が集会しているのは、何だか少し不気味だと頭の弁は思った。


 帝の御意を伝える。


 臆して緊張する学生ども。


「いいから!つべこべ言わずに参れっ!!」


 ついかっと怒鳴り散らし、学生らはひっと萎縮する。


 そしてそんな彼らを、


「早くしろ!」


と、益々荒げた声でせき立て、有無も言わさず引き連れ、急いで御前の庭に戻った。


 庭に皆、平伏する。腕がぷるぷる震え、体を支えるのも難儀だ。


 奥から声がした。


「よいか。もしその琴を鳴らすことができたら、その者には褒美として、非蔵人(ひのくろうど)にしてくれようぞ。頑張ってみよ」


 一生拝むことも、玉声さえ聞くこともないと思っていた帝から、直接のお言葉を賜り、学生どもは感激と緊張と恐ろしさで、わけがわからなくなった。


 一人目が琴の前に座らされた。


 殿上の間の大臣公卿ら貴人の目が、一斉に彼の手元一点に集中する。その奥には帝もおわしまして、同様にその手を見つめていらっしゃる──そう思うと、その視線に手が痛いと悲鳴をあげる。


 彼の脳天は爆発していた。


「ほれ、どうした?」


 琴卓のすぐ横に立っている貴僧の飄々とした表情に、涙目になりながらも、彼は「えいっ!!」と、思いきって力いっぱい太絃を弾いた。が。


 すかっ。またもや鳳勢は鳴らない。


「次」


 頭の弁が彼を退かせて、次の者に挑ませようとした。彼は恥に顔を真っ赤にして、次の者に座を譲る。


 だが、次の者も鳴らせず、すごすごと退き、その次の者も、やはりその次の者も鳳勢の音を出すことができなかった。


「なんだ。結局誰も鳴らすことができなんだな」


 帝は恥に堪える学生どもを等分に見て、


「なるほど、法橋の言う通りだ」


と頷いた。


「しかし、誰にも鳳勢は鳴らせないとなると、このままずっと、未来永劫この琴の音を聴くことは叶わぬのか。このままずっと音無しのままなのか。天下第一の琴の音を聴けぬとは、残念だ。諦めきれぬ」


 憂えて言うのを、法橋は、


「まあ、おそらく一人だけ音勢を取り戻せる人がおりましょうがな」


と、少しも慰めの色も感じられない声で言った。


「浄玖であると言うのであろ?」


「いえ」


「なんと、浄玖ではないと?」


 帝ばかりか殿上の間の人々、庭の学生どもまでもが驚愕の眼差しを法橋に向けた。


「た、誰じゃ?」


 右大臣が息を飲む。


「それは、六条の内の大臣の姫君にございます」


 清涼殿じゅう、上も下もざわめき立った。


 法橋は宰相中将殿を見つめ、宰相中将殿は帝の龍顔を窺った。





 鳳勢がその音声を失ったという話は忽ち広がった。


 清花の姫君も、円慶法橋が推参した日に兄君の中将殿からその話は聞いていた。


 兄君から一言聞いた途端、


「何ということでしょう!」


と言ったまま、黙してしまった。それきり何も言わない。


 さすがは鳳勢は天下第一の琴。名器は主を選ぶもの。鳳勢に主と認められた者は、終生楽器に愛される。


 鳳勢は一度主と決めたら、忠義を貫くのでもある。だから、自分の主にしか従わぬ。


 鳳勢の敬愛する主は、この世にただ一人。韶徳三位殿のみ。


 けれど、その主はこの世になく。


 主を失って、この世に取り残されて。ぽつねんと。


 鳳勢は三位殿に会いたいのだろう。


 主なくして悲しむあまり……


 忠義なるかな──姫君は改めて悲しく、鳳勢を可哀想に思った。


 鳳勢もそう。


 姫君もそう。


 こんなにも三位殿を失ったことが悲しい。


 姫君がずっと黙ったままなので、中将殿はこう言った。


「法橋は、姫君だけが鳳勢を鳴らすことができるだろうとも申していた。皆どよめきましたが、実は私も密かにそう思っているのです」


「……私が?」


 姫君はやっと口を開いた。


「いかにも。法橋の奏上に、そっと龍顔を窺い見たが、法橋の言葉には主上のみ心にも動揺があったように思える。主上が何と思し召したかは察しかねれども、主上には何かご思案があるやに思われる。もしかすると、鳳勢を姫君に預け下さるかもしれませんよ」


「……いったい、何を根拠に法橋は、さようなおかしなことを奏上遊ばしたものか。法橋のみ心を推測しかねます。鳳勢は私にも弾けませんでしょう」


「何故そのように思われる」


と、中将殿は尋ねたものの、姫君からの返答を期待しているわけではなかった。


 そして、姫君も答えはしなかった。


 もし、鳳勢が姫君の手によって、その音勢を取り戻すことが叶うのだとすれば──。


 泉下の韶徳三位殿が鳳勢に、清花の姫君を新たな主とせよと命じれば、鳳勢は姫君によって音声を取り戻すことになるであろう。三位殿にその意志があるか、ないか。また、あったとして、鳳勢がその意を汲んでくれるか。


──姫君が鳳勢の音を出せるかどうか。


 それは、こういうことなのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ