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正声・十七拍──鳳勢(壱)

 今や敵なしとなった六条内大臣棟成公は、栄華に酔いしれていた。


 亡兄の娘でその後養女にした中宮の嬉子は、東宮の生母。天下無双の美人でもあり、帝の愛情を一身に受けている。


 時めく中宮の養父として、今の幸福に恐怖さえ覚える内大臣殿なのである。


 ただ一つの悩みといえば、それは愛娘の清花の姫君の健康である。


 姫君は特別丈夫ということもないが、病気らしい病気はしたことがない。だが、気に病むことがあったり、塞ぎ込んだりすると、それが不調となって体に顕れる気質だった。


 とはいえ、それはいつも些細な症状であったのだ。熱なんかは出たりしない。


 ところが、最近どうしたわけか、姫君はよく熱を出す。何かの病なのだろうか。


「何だか、だるい……」


 姫君はほぼ毎日、体調不良を訴えた。


 乳母や女房たちが案じて、額に手をやってみると、熱がある。朝はそうでもないのだが、夕方になると一日の疲れが出るのか、だるいと言っては発熱していた。


「いかなる病か?」


 医師に診せたが、原因は不明だという。


 内大臣殿は心配でならなかった。


 帝は、美し過ぎる中宮と双璧と讃えられる清花の姫君の絶世の美女ぶりに、以前から異常なほどの興味を示している。


「是非一度見てみたい」


と、入内の打診を繰り返していた。


「近頃、病んでおりますれば……」


 内大臣殿はそう答えるしかない。烏丸左大臣死して、ようやく念願の入内が叶うと喜んだ矢先のことである。


「平癒致しましたら、すぐに参内させまする故、何卒、我が娘のことお忘れ下さいますな。何卒、何卒」


 内大臣殿は額付いた。


 姫君は謎の熱に冒され、悩まされていたが、菖蒲王丸への琴伝授は欠かさず行っていた。


 稽古は七日に一度。これまで一度も休まず行っている。


 菖蒲王丸は極めて筋がよい。天賦の才に恵まれており、この子に琴を教えている間は夢中で、熱も忘れていた。


 人は何かに集中して没頭している時、病も忘れ、痛みも苦しみも消え去ってしまうものだ。


 秋も半ばになってくると、気候のおかげか姫君の体調は幾分よくなった。





 南唐派の蔭元朝臣が心待ちにしていた中秋節がやってきた。


 中秋節には双の岡に門徒が集結して、月を愛でながら亡き師の何参を偲び、琴の声に耳と心を洗う──そんな琴宴を計画していた。


 発起人は蔭元朝臣。兼保の呼びかけで、門徒一同を集めたのだった。


 そもそも南唐派の血脉を許された人は四人で、流祖の何参を含めた五人を、世に「五琴仙」と称えている。


 その五琴仙のうち、何参は既に亡く、蔭元朝臣は今、天寿尽きようとしており、残りは清花の姫君と兼保、その弟子の円慶法橋の三人のみが健在だった。


 南唐派に対する流儀として、隆盛を誇っていた呉楚派は、現在、衰退の一途を辿っている。


 呉楚派の「琴三聖」の曹倫、行実朝臣は既に亡く、政任はまだ生存しているらしいが、完全なる世捨て人、今どこにいるやら行方もわからぬ。


 「七絃七賢」の七人も、清花の姫君だけが生き残っているが、残り六人は全て死に絶えて、呉楚派の滅亡は目前に迫っていた。


 南唐派とて、血脉に入る人で元気なのは三人だけ。琴界全体が危機的状況にある。


「師のご健在でおわした頃は、もっと華やいでおりましたな。今、このように南唐派も衰えているのは、昔のように、皆でここに集まることがなくなってしまったからでしょう」


 病床である時、蔭元朝臣は兼保にそう言った。


「賢弟」


と、兼保は蔭元朝臣を呼んで、その細くなった指を握りしめながら、


「賢弟の言う通り。昔は一門、皆ここに集い、相手の技に刺激され、切磋琢磨したもの。それのなくなった今、己一人、家に引きこもっても技は曇るばかり。流儀も衰えるのは、当然のこと」


と言った。


「師がおわした頃は、通常の稽古に加え、毎月の例会が定められていた。弾き合いして、互いに良い点、悪い点、意見したものです」


「そうでした。例会は月に二回。楽曲分析の日と弾き合いの日があって、どちらもとても勉強になった」


 そこで蔭元朝臣は思い出した。


「姫君が、弾き合いの日はいつも皆を驚嘆させて。まことに天才だと、嫉妬めく気も失せる程の素晴らしさだったのに。楽曲分析の日は、これまたいつも皆を驚嘆させましたな」


「仕方ありませんよ。幼い人だったのですから。知らぬも道理」


 一日に読める書籍の数には限りがある。


 大人の中に入って、大人と同じ書籍を山ほど読んで、調べなければならなかったのだ。幼かった姫君は、さぞ苦労したことだろう。


「初めは、最も成績の悪かった姫君でしたが。あの方はむきになって、学んで学んで。いつしか姫君の発表が最も優れたものになっていた。我々大人が数年かけて読んだ書籍の山を、十歳そこそこの人が一年足らずで読破してしまったのですからね。そして、それ以上の研究までして。あの気の強さには、驚き通り越して笑えるくらいでしたが。今は如何お過ごしやら。師が亡くなった後は例会もなくなり、月に何度か開いて親睦を深め合っていた宴もなくなって……」


「師の月命日には毎度集まっていましたが、次第に一人減り、二人減り。いつの間にか、月命日の会も自然消滅してしまいましたね」


「このままではいけない。再び皆が集まって、互いの技を競い合って、仲良うして──。そうでないと、琴の世界は近い将来必ず滅んでしまうでしょう。私はもう長くはありません。遺言だと思って聞いて下さい。皆が集い合う、昔の南唐琴門を復活させて下さい」


「賢弟……」


 兼保はそれで決意したのだ。中秋節の会は、そうして計画されたのである。


 先ずは蔭元朝臣が生きているうちに、一度皆で再会しておきたい。そして、それをきっかけとして、再び月例会などを復活させよう。


 中秋節会は蔭元朝臣の今生の記念であるばかりでなく、こうした例会への第一歩でもあるのである。


 兼保の思いに感涙し、存命の南唐派門弟は全員集まった。


 姫君もあまり体調は思わしくなかったが、参加したのであった。


 よほど嬉しかったと見える。蔭元朝臣は数ヶ月振りに床から起き上がって、衣服を正して皆と会い、酒まで少し飲んだのであった。


 参加者は。


 先ず蔭元朝臣と兼保。


 兼保の弟子である円慶法橋。それと、兼保の血脉に入っていない弟子八人。


 円慶法橋の、やはり血脉に入っていない三人の弟子。


 そして、清花の姫君。姫君は幼い童子を一人、伴っていた。


 加えて、何参が渡来した時からの、その供人三人。未だ存命していたのだ。


 双の岡の琴庵に集ったその人々。


 月を愛でては楽府(がふ)を吟じ、杯を交わし。琴曲を弾き、歌う。


 皆で同じ曲を一斉に弾いた後は、順に一曲ずつ弾いて回す。


 そして、清花の姫君の童子の番になった。


 菖蒲王丸は危なげなく『酒狂』を弾いた。しかも、いかにも酔っ払いの千鳥足のように。


 皆、やんやとはやし立て、童子の上手さを褒めた。


 姫君は皆に菖蒲王丸を紹介した後、兼保に言った。


「以前、弟子を持つようにと仰せごとを給わりましたが、その折は、そのような気にはならぬなどと申してしまいました。けれど、その後で、その仰せごとの正しさを悟り、こうして一人、有望なる童を弟子とすることに致しました」


「それは祝着なこと」


 兼保は喜び、蔭元朝臣は安堵の表情で満足げに頷いた。


「呉楚、南唐、どちらも教えるおつもりですか?」


「はい」


「それは素晴らしい。南唐派は栄え、呉楚派は滅亡を防げます」


 誰もが菖蒲王丸に目を細める。


「どうぞこの子を末永く、宜しくお見守り下さいませ」


 姫君は重ねて皆に頼んだ。

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