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正声・十五拍──御物狂い(参)

 その夏のことであった。


 六条内大臣家の女房の讃岐はようやく帰洛していた。だが、なおまだ出仕はせず、伯母の五条の刀自邸に留まったままであった。


 そんな彼女のもとを、嵐の晩に一人の男が訪ねてきた。


 門より入った客人ではない。


 築地のどこを飛び越えて忍び入ったのか、足音は暴風雨の大音にかき消され、誰にも気づかれぬまま、讃岐の居間まで押し入ってきた。


「何者っ!!」


 讃岐がすぐに気づいて、太刀を抜いて素晴らしく速く身構えると、濡れ鼠よりひどい、泥に汚れた男は、


「あ、いや、しばらく」


と、意外過ぎる程のどやかに言ったのだった。


 讃岐の体から殺気が消えたのは、その声を聞くのと同時だった。


 はつぶりで覆われた顔は、よく見ると、見たことのある雰囲気である。


 男は頭から被ったぼろ布を脱ぎ、はつぶりを外してその面を露わにしてみせた。


「やあ、珍しや、時憲判官ではおわさぬか」


 讃岐はその顔を見て、ややほっとしたように言った。太刀を鞘に納め、そのままその場に座りこむ。


「無礼はお許し願いたい。したが、この身は追われる身なれば、堂々門より訪うことはできなかった故」


 昔の面影はどこへやら。すっかり辻々の貧乏人より汚くなった時憲が、そう言って詫びた。


「いや、何の」


と、讃岐は言ったが。


「されど、判官殿は行方をくらましたと聞いて、いったい如何召されたかと案じておりました。ご無事で何より。だが、何故監視の網を抜け、逃亡など計ったのか」


 時憲はあの夜、三位殿とともに兵衛佐に捕らえられたが、その後は三位殿と引き離された。投獄され、解官されたが、そのまま検非違使の監視下に置かれていたのだった。


 彼は投獄されたままであったが、死罪や流罪にはならなかった。それは、あの信時の兄だから、つまり烏丸殿一族だからなのかもしれない。


 それはさておき。


 ある時、時憲はその獄から逃亡した。勿論、その行方は捜索されたが、今まで見つけられずにいたのである。


 讃岐も帰京して、時憲の逃亡を知った。そして、親しい隣人故、案じていたのだ。


 時憲は居ずまいを正すと、こう切り出した。


「身共は西国に落ちのびる覚悟にて」


「西国?それはまた何故に?」


「いや、身共はおもとに倣って士になろうと思うのです。西国で機が熟すのを待つ。そして、その時が来たら──」


 ごんっと床が鋭い音をたてた。


 讃岐が手にしていた太刀を取り落としたのだ。


「止めても無駄だ、讃岐の君。もはや追われる身となった身共が生き延びられる道は、一つしかない。地の果てまでも、ひたすら逃げ行くのみだ」


 讃岐は太刀もそのままに、身じろぎもせず時憲の口元を見守っていた。暫くそのままであったが、ようやく一つ瞬きすると、恐る恐る尋ねる。


「……しからば、追っ手から逃れ、時にはそれと一戦交えなければならぬこともあろうが、そのことの意味を理解しておいでか?」


 間髪入れず、時憲。


「勿論。一戦交え、どうにかかわして逃げきれてしまえば、又次の追っ手が遣わされ、身共が討たるるまでそれが果てなく続くことは、わかっておる。そのうち、身共は逃亡者どころでなく、謀反人と呼ばるるに至るであろう。遣わさるるのも追討使となり、大軍の兵が身どもを襲うだろう。即ち戦となる。それはこの時憲でもわかっておる。それに備えて、身共は多くの兵を集めなくてはならぬ」


 言いきってしまうと、すっきりするらしく、時憲はその身なりに反して、実に清々しい眼をしていた。


 讃岐は眼を剥いて、動揺した。


「兵を集めるのか?」


「いかにも。さすがに追っ手も西国の果てまではついては来るまい。西国にて兵を集め、時が熟したら挙兵し、一息に都を目指す」


「何と、朝廷に反逆を!?」


「もはや今の朝廷なぞに付き従う理由がない。あんな無茶苦茶な朝廷、滅ぼしてくれる」


 さすがに讃岐は絶句した。息を呑んだまま、口も目もぽかっと開けている。讃岐の考えも及ばぬような、世にあり得ぬ恐ろしい発想。


 雷に撃たれたように、頭ががんと空白になった。それは相当長い時間のように思えた。再び彼女の脳に思考というものが宿ったのは、どれくらい経ってからのことだろうか。微かに嵐の闇に群青が溶け込んで、その雨の姿が見え始めた頃、讃岐はやっと口を動かした。


「御身の挙兵には大義がないぞ。朝廷を滅ぼす。すなわちそれは、帝を討って、自らが帝とならんとする……逆賊……」


「逆賊、結構!身共の敵は万乗の君その人なる故。帝王の帝王に相応しからざる時、天意によりその位は失われ、新たな英雄に与えられるという。今上は帝王であってはならぬ御仁」


「っ!?」


「だが、何で身どもが新しき王朝を作らねばならぬ。易姓革命とやらにはあらず。漢人ではあるまいに。身共は今上と烏丸殿に復讐するだけよ。口で言っても叶わぬのなら、いや、口で訴える方法がないのなら、力に訴えるしかない。烏丸殿の罪を訴え、朝廷に認めさせる。今上の退位を求める。汚名を着せられたままの四辻殿はじめ、風香殿や三位殿の恥をすすいで差し上げるのよ。大軍でもって京に攻め入り、内裏を取り囲み、帝の首に刃を突き付け、要求を認めさせる。その上で、次の帝には今の皇族の中から、どなたか器量の方が立たれたらよい。身共がすることは政変だ」


「……成功すると思うていやるのか……?」


「挙兵に失敗して討たるるも、かの呪詛事件に異議を唱うる者があることを、広く世に、全国に知らしめること叶わば、本望……しかし、四辻殿達の汚名が……」


「狂っている……」


「おうよ、狂うておりましょうがの」


 実直熱血な時憲とはいえ、これは正気の沙汰ではない。


「自棄は起こさぬがよい」


 時憲自らが帝になろうという意志はないことはわかった。少々ほっとしたこともあり、讃岐はそう言って彼の狂気を揶揄した。


 すると、突然時憲は怒りをたぎらせ、ぎっと讃岐を睨めつけた。その眼光に憎しみさえ宿して、讃岐の瞳を照らす。


「見損のうたぞ、讃岐っ!」


 怒鳴り声は、外の暴風の音さえ突き破る程であった。


 耳がつんざけ、讃岐は顔と共に身を縮めた。


 顔を紅潮させ、時憲。


「おもとは弟御をあの物狂いの帝に、あの物狂いの大臣に殺されて、悔しうはないのかっ!?むざむざ殺されて、恨みも抱かず、一生呑気に暮らしてゆくつもりか?」


 その言葉で、讃岐の表情が変わる。


「今、何と言うたか!」


 色をなした顔の中の眼には、時憲以上の憎悪があった。その眼で時憲を睨み返す。


「聞き捨てならぬことではある。弟をみすみす殺されて、恨み捨てる讃岐と思うなよ!……私は、一生帝も烏丸殿も許さない。死ぬまで恨み抜いてみせる!」


「で?ただ恨んでいるだけでは何にもなるまい。身共はその恨みを行動に起こすぞ。利は求めぬ。この身に逆賊の汚名を着せられようと、構わぬ。討ち死にしようが、世の全ての人々から乱世を作りし憎い奴と恨まれ、呪われようが構わぬ。無関係の人々を巻き添えにしてでも、兵を挙げて、帝と大臣を糾弾してやるのだ!」


「──!」


 振り上げかけていた拳を、急に讃岐は下ろした。


 急激に激した頭にも、若干の冷静の住まう隅はある。その冷静は、次第に激情の海に浸透して行き、その海の熱を冷まし始める。そして、いつしか湯は冷却され、彼女の頭の中は冷静に支配された。


 戦になれば、当然、庶民を巻き添えにすることになるだろう。


 戦が始まれば、その地の民は逃げなくてはならぬ。又、逃げきれずに戦火に巻き込まれる者もあろう。家は焼かれ、田畑は踏み荒らされ、その年の収穫はなくなる。戦が終わっても、飢えに苦しまなくてはならない。


 又、戦をする立場の者でも、真っ先に戦場で敵と刃を交えるのは、名もなき兵卒どもばかりで、名だたる武将はかすり傷一つ負わない。敵の大将は無傷でも、兵どもは皆死ぬ。


 戦で苦しむのは敵ではない、社会の弱者だ。


 戦とはそういうものだ。そういう理不尽なあべこべなもの。


 それなのにこの時憲は、自分の恨みを晴らすため、無関係の人間をも道連れに、斬り死にするという。最早烏丸殿をも超越した、物狂いの沙汰だ。


 狂気の人は己の狂気に酔ったように、紅潮した頬を火照らせて、雄叫びを上げる。


「もし、この時憲を止めるというのならば、讃岐とて容赦はせぬ。今この場で、たたっ斬ってくれる!」


「やめい!」


 殺気漲る時憲の眼へ、讃岐は威嚇した。


「御身は以前から武官で、つい最近までは検非違使大尉であった。そこら辺の武者より腕の立つことは、私でも知っている。だが、雅の公達に仕え続けた御身が、俄に武士になったとて、到底この讃岐に太刀打ちできるものではあるまい。私に刃を向ければ、今この場で死ぬるぞ。そんなわかりきったことも判断つかぬ程壊れた頭で考えたことなぞ、成り立つわけがないわ。命惜しくば、このまま西国なりどこへなりとも去れ。戦などと馬鹿な奴に、従う気も抗う気も起きぬわ。したが、行くならば陸奥にするとよいぞ」


「讃岐の君……」


 すっと表情が変わる。


 陸奥の意味するもの。


 庶民を巻き添えにするような戦は許せないし、それをする奴は憎い。だが、時憲を殺してでもその戦を阻止しなくてはならぬという意識が、今の讃岐には起きなかった。


 理性では時憲を愚かだと判断できるが、その恨みの激情には、彼女の感情が同意してしまっている。


「最早止めはせぬ。好きにするがよかろう。だが、戦に協力するつもりはない故、このまま去ってくりゃれ。庶民を道連れにするような者には力は貸せぬ。されど、幼き頃よりのまたなき友の御身。長寿を祈っておる。故に、朝廷の力も及ばぬ夷の地に、落ち行くことを勧める。陸奥には朝廷に仇なす夷が巣くうておるが、ゆめゆめそれ等と協力せぬように」


と言った。


 時憲がそれに対して何か言おうとするのを遮り、さらに、


「それから、関東の我が家の水軍のことも、誑し込まぬように頼みます。西国へ行くにしても、筑紫や讃岐の我が一族の水軍を、巻き込まないで頂きたい」


と続けた。


 彼女のその言葉は意味深長であるように時憲は受け取った。


 しかし、讃岐は、


「勘違いしてくれるな。私は戦には反対だ」


と、釘を刺す。


 ふうっと一つ息をして、心を落ち着かせると、


「わかりました。おもとに迷惑はかけますまい」


と、時憲は深々と頭を下げた。そして、改まって言った。


「おもとにお願いがございます。おもとにしか頼めぬこと。挙兵なんぞに協力して下さらなくともよい。だが、これだけは──このことだけは、力をお貸し給わりたい。弟御を殺されしおもとの恨み、この時憲の願いをお聞き入れになることで、晴らして頂きたい」


「弟の恨みを晴らす?」


「如何にも。人の道には外れぬことと存じます。どうかこの時憲の願い、お聞き入れ下され」


 そう言うと、時憲は何事をか讃岐に囁いた。


「何とっ!?」


 讃岐は耳を疑った。だが、


「なるほど。それは私にとっても有り難きことではある。御身の言う通りにしよう」


と答えた。


「ただのお覚悟にてはつとまりませぬぞ」


「判官殿。わらわを甘う見るな。必ず、生涯かけてやり遂げてみせる」


 その東雲(しののめ)、時憲と讃岐との間に何事かの密約が交わされた。


 約束を取りつけた時憲は、いつの日か必ず都に攻め入ることを誓って、暁前に嵐と共に去った。


 行き先は西国か、それとも陸奥か。はたまた敵対関係にある異母弟達のいる東国か。


 何処へ逃げたか、それは時憲にしかわからない。

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