大序・三拍──三位殿の御こと
散位政任の最後の弟子ともいえる正三位周雅卿は、風香中納言周忠卿の当腹の公達である。
父の風香殿は権門・四辻内大臣の異母兄で、妾腹ではあったが、内大臣の力により、絶大なる権力を握っていた。
風香殿、はじめは別の女性との間に忠兼という男子を設けていたが、後に三位殿の母君と知り合い、こちらを嫡妻とした。
三位殿の母君は、その父君が宰相中将であった時、宮中に上がって典侍となり、賀茂祭には勅使になったこともあった。帝の信頼は厚かったという。
典侍殿(諱瑾姫・たまひめ)は当腹だが、父・宰相中将の愛妾の子が仙洞御所の女房で、典侍殿は宮中ばかりでなく、仙洞にも顔が広かったらしい。仙洞の女房は中将殿(諱は理子・まさことかや)と呼ばれていて、典侍殿とは仲のよい義姉妹であった。
三位殿は嫡妻・典侍殿の子であるので、異母兄・忠兼を差し置いて、父の後継とされた。
両親の期待は高かったが、三位殿は生まれながらにして聡明で、両親の希望以上の子に成長していく。
三位殿は幼少より詩歌管絃の教育を受けていたが、母君は特に音楽を熱心に学ばせていた。
母君の典侍殿は琵琶の名手だった。最秘曲の『啄木』はまだ許されていないものの、『太常博士楊真操』等の秘曲や、将律、清調等の秘調を伝授されるほどの腕前であった。
琵琶を愛するこの女性は、夫君を「風香調の君」と呼んだ。周忠卿が、風香中納言殿と呼ばれるのは、そこからきている。
三位殿はこの母君の影響で琵琶に親しみ、今は母君も及ばない程の名手だ。
三位殿は韶徳の君とも呼ばれる。童名に由来するあだ名らしい。
韶徳とは孔子が韶(帝舜の楽)を聴いて、
「韶は美を尽くし、善を尽くしている」
と言ったという故事に由来する。韶はその美と徳の一致から、孔子を感嘆させたもの。
風香殿は舌戦で、学者に全戦全勝するといわれる程、漢籍に明るい。竹林の七賢に憧れているらしい。
三位殿の童名は、この父君がつけたものだ。
三位殿は母君によって、幼少より琵琶を学ばせられたが、父君の方は琴をやるよう命じた。竹林の七賢の中でも、特に嵆康を尊敬している人ならではだ。
父君は三位殿を嵆康のように育てたいと願った。
三位殿九歳の時、琴は成った。そこで、風香殿は、政任の入門試験を受けさせようとしたのである。
それは、朝から雪の降り積もる日であった。
「かような大雪の日にこそ、入門を乞うべきだ。大雪なのに熱心なことだと、政任朝臣も感心するだろう」
風香殿はこう言って、わざわざ大雪の日を入門に選んだ。
使者を遣わすのと同時に、三位殿に支度をさせ、そのまま政任宅に押しかけさせる。
三位殿は九歳ではあったが、政任が変人であることを噂で知っていたので、このような日に入門なぞ非常識だと、政任を怒らせてしまうのではないかと案じた。
政任宅の前に牛車をとめ、しばらく経つと、雪はやんだ。
その夕刻のこと。中から政任の使いが出てきて、今から入門試験を行うという。
まさかと三位殿は思ったが、すぐに琴を携えて、その破れ門に入っていった。
試験は例によって、政任が姿を現さない。あてもなく、三位殿は凍てつく東の渡殿で、『烏夜啼』を弾いた。
すると、西の空の薄い雲の間から、ぽっかりと三日月が出てきて、庭の雪を照らし始めた。雪は月に照り輝き、庭はまるで望月夜のように明るく、白い。
すると、何と思ったか、政任が突然、破れ簀の子に姿を見せた。呆気にとられた様子で、
「……雪が満月の光を奪って三日月にしてしまった。奪った光を我が物にして、誇らしげに青白く輝いて。こんなに庭を明るくして。まるで、十五夜ではないか……」
と言った。
三位殿は、変人といわれる政任が、意外にも雅な人であると知った。
政任は三位殿に話し掛けた。
「この曲の由をご存知か。何故、『烏夜啼』というのでしょう?」
「宋の臨川王は、無実の罪で捕らえられました。ある夜、頻りに烏が啼くのを耳にした夫人が、何故か王は帰ってくると確信しました。果たして、翌日、王は帰ってきました」
「いかにも、その通り。……今朝、激しい雪の中、烏が身共の居間に飛び入ってきました。身共は丁度『烏夜啼』を弾いていたところで。烏はじっと身共の手元を見守っていましたが、弾き終わると、不可思議な言葉で鳴くのです。身共から目をそらそうともせず。何かあると感じていると、御身が入門を乞うてきた。あの烏は、今宵、天の理を動かし、望月を三日月にし、雪を望月にしてしまう御身の来訪を告げに来たのでしょう。そして、御身は『烏夜啼』を弾いた。御身が我が弟子となることは、天の定めるところなのです」
政任はそう言って、三位殿の入門を許可したのである。
三位殿は順調に上達していった。
しかし、神業の名手を師に持てば、要求されることが高度に過ぎるのは当然のこと。三位殿はとても大変だった。
まだ子供だからということもあろう。
「若君はとにかく手のかかる弟子だ」
と言って、政任は五日に一度、三位殿の稽古をしていた。
他の弟子は、頻繁に見てもらえる者でも、十日に一度。中には、一ヶ月に一度という者もいたくらいだから、三位殿の稽古は、大変に多かったのである。
他人は羨ましく思ったであろう。だが、当人には辛かった。
五日などすぐだ。常に稽古に追われていた。しかも、政任の稽古は異常に厳しい。
普段は明け方に起きて練習し、朝食もろくにとらず、昼過ぎまで練習。休む間もなく夜更けまで練習。それを毎日繰り返していたが、それでもとても間に合わない。
稽古ではいつも怒鳴られた。
三位殿の心が束の間休めるのは、稽古が終わった直後。その夜の床だけは、安らかな眠りを与えてくれた。
だが、翌朝、目覚めとともにもう、
「稽古までもう五日しかない!」
と、焦り出してしまう。
稽古の翌日は、師に注意されたことを直す。その次の日には、それを完全に会得できるようにする。
翌日、稽古まであと三日だと思うと、気鬱してくるし、永遠に時が進まなければよいのにと思う。
二日前になると、もうそんなことも言ってはいられず、焦り、苛立ちながらも、ひたすら励むしかない。腹の具合も悪くなる。
稽古前日は、頭痛と目眩と吐き気と腹痛とで、ほとんど食べられなくなる。だが、その具合の悪さも忘れる程の精神極限状態で、練習、練習、練習。
稽古が明日だと思うと緊張するから、知らず、力むのであろう。寝る頃になると、腕が痛くて動かせない。背中も板のよう。疲労しているので、体を休めたいのに、床に入っても眠れない。
頭の中を、曲が初めから終わりまでずっと鳴り続けている。政任の怒鳴り声に焦り、萎縮し、緊張で失敗する己の姿が思い浮かぶ。
余りに眠れないので苛立ち、何度も寝返り、ため息をつき、それでも半時は眠れたろうか。稽古当日は、緊張と吐き気によって目覚める。
朝から何も食べられず、水一滴飲めない。腕も痛いが、気合いで動かし、最後の足掻きの練習をして、いざ、政任宅へと向かうのである。
こういう生活。
世の人々は彼を神童だ、羨ましいと言うが、とんでもないことだと思った。
三位殿はこんなことは早くやめたかった。
琴をやめるということではない。琴は三位殿にとって、人間が息をし、食べて眠るのと同じ。三位殿から琴を取り上げたら、三位殿ではなくなる。
ただ、政任から早く解放されたかった。辛くて苦しいばかりだから。
琴を弾く喜びなどない。楽しくない。音楽とは、本来楽しく、魂を喜ばせるものだが、その道を極める者には、その感情とは縁遠い時期もあるものだ。
苦しい。とにかく苦しい。その中から喜びを見いだす。並みの精神力では堪えきれないような、厳し過ぎる練習が毎日、何十年も必要なのだ。
三位殿の元服は十三歳の時だった。灌頂は受けていたが、なお五日に一度の稽古は続いていた。
この五日に一度の厳しい稽古を続けていた十五の時、師が突然逐電した。
政任は、十五の三位殿と、まだ幼い清花の姫君とを残して、無責任に奥山に入ってしまったのである。
皮肉にも、これで三位殿は解放された。自由になれた。
その筈であった。
再び音楽をする喜びを味わえる筈だったのだ。
だが、稽古がなくなってみると、稽古の重要性が身に沁みてわかってくる。稽古は絶対に必要なものだと痛感する。
一人で何もかもしなくてはならない、一人でできなければならない。それは、想像を遥かに越えて大変なことだった。師がいるということが、どんなに楽なことか。
本人にだけはわかる。どんどん水準が下がることが。練習を怠らなくとも、水準は下がるのだ、何故か。上げなければならないのだが、兎に角、今のままを維持できればよい。
それくらい、一人でやるのは大変なのだ。
三位殿が琴道に本当の苦痛を感じるのは、実は政任逐電後のことなのであった。
その後の三位殿は、琴道以外は全て順調であった。
昇進、昇殿。学問、音楽。殊に琵琶。
幼少より母君に学び、十七歳からは、その聖人に師事した。白河の琵琶聖と称される楽所預である。
この師はとても明るく、いつも、
「素晴らしい!」
と褒め、楽しくよい気分で琵琶を弾かせてくれた。練習もさほどしなかったのに、師はとても気に入ってくれた。だから、二十歳までに琵琶灌頂も済んでしまった。
母君は未だ『啄木』を伝授されていない。
だが、子の三位殿は二十歳にして『上原石上流泉』、『石上流泉』、『太常博士楊真操』、『啄木』の秘曲全曲を伝授されていたのである。
琴の悩みは尽きなかったが、琵琶は面白いほど成功した。
「私は音楽に不向きなわけではなかったようだ。琴に不向きなだけで」
三位殿がしばしば口にする言葉である。




