正声・十五拍──御物狂い(壱)
近頃の帝の密かな楽しみは、烏丸左大臣の行う四辻狩りの報告を聞くことであった。
最近の報告では。
洛外追放となった備中前司が、遂に病死したという。
元々備中前司は病弱で、呪詛事件以前に備中守を辞職していた。その療養中に起きた呪詛だが、彼とて無関係ではあるまい。
風香中納言家の執事であり、風香中納言の妻の甥でもある。まして娘は、風香殿の子息の三位殿の猶子ではないか。昨年十一月の五節舞姫の重子というのは、まさしく備中前司の娘である。
備中前司にも呪詛の連座が疑われたが、病身であることへの情けとして、特に処分はせず、洛内での居住を禁じただけなのであったが、ついに死んだか。
「長患いの末のことだ。当人も楽になったであろうて」
帝は護持僧顕明相手にそう言う。
「聞くところによると、前司は長く患っていたそうですが、五日前の早暁、俄かに苦しみ出し、七転八倒悶え喘ぎ、苦しみ抜いて、ついにそのまま一昨日逝きましたそうな。最期はとても悲惨でしたな。呪詛の罰が天より下った故のことでしょう」
顕明はにたと笑った。
「で、前内大臣の婿はどうなった?」
「相変わらずのいたつきぶりだそうで。憑かれたようですな。近頃は正気の時が全くないそうで。刃を好むとかで、いつも振り回し、周囲は恐ろしいので、手枷足枷、体はぐるぐるに巻いて転がしておき、一室に閉じ込めておいているのだそうで」
「それやまた、凄まじいの。余りに動き過ぎるので、命の危機さえ感じさせる程だと聞いたが。すっかり体力は落ちて、衰弱しておるのだろうな」
「それが、近頃は寝床に縛り付けられ、ちっとも動くことができないので、寝床で奇声を上げ、怒鳴り散らしているだけだそうでございます。一時はかなり衰弱してしまったそうですが、今は寝かされているだけなので、随分元気になったとかで」
「そりゃ困るな。周りの者がよい迷惑だわ。大変であろうよ。健康な者の方が病気になる。世話する者の苦労を思うと……」
「まだ若いですし、この先ずっとその様子で生き続けるのでしょうな。惜しい人の命は短いのに」
「やれ、厄介な。馬鹿にする薬はないのか。飲むと馬鹿になり、何も分からず、ただ呆け呆けと笑っているような、白痴にする薬があればよいのにな」
季龍の琵琶の撥面を打って、あはははと笑った。今日の帝は、頗る気分が宜しい。
備中前司は病没したが、その家族もばらばらになったという。
妻の侍従と娘の重子、その妹は共に連れ立って山奥の寺に入ったという。
侍従と重子、つまりゑまひてうの姫君は、そのまま出家したらしい。妹君の方は出家をしたのか否か、よくわからないが、何れにせよ隠棲したのであろう。その後、何の音沙汰もない。
前司の妾であった悪相御前は、預かっていた経王御前を養育する自信がなく、放り出して何処かに消えていた。
残された経王御前は、実は風香前中納言の孫娘なわけだが、誰かが連れ去ったのだろうか、赤子の足で歩いて行くわけもないのに、行方不明となってしまった。
この姫君は、風香殿の長男の忠兼朝臣の娘であるが、そのこと自体秘されていることである。
双子で捨てられたのを、忠兼の弟の三位殿が拾ってきて、密かに備中前司に預けたのがこの姫君だ。
姫君の身の上を知る人は、三位殿の側近のごく一部。実父の忠兼でさえ、姫君が前司に預けられたことは知らなかった。
だから、姫君が四辻殿の一族であるという事実は、世間には全く知られていない。
経王御前の行方がわからなくなったからとて、探し出そうとする者もいなかった。
四辻狩りの締めは、風香殿の嫡孫・青海波の君である。
「まだ見つからぬか?」
呪詛事件後、誰が隠したのか姿がなく、探せども探せども見つからない。烏丸左大臣が癇癪を起こしているのも頷ける。
そんな時。東国より上野介信時が帰京した。
「信時か、久しいの、暫く見ぬうちに大きゅうなって」
烏丸殿は珍しく機嫌を直して、信時を迎えた。
「ご無沙汰を致しまして……」
信時は神妙に両手をつく。
「一年以上、都を離れておったの。おこと、今年は幾つになる?」
「はっ、十八にございまする」
「十八か。なるほど、大人びる筈よ。一昨年都を発った時は、まだあどけなさも残っておったが」
相変わらず小さな愛らしい口元ではあるが、面差しはどこから見ても、男のものだ。眼の光の隙のなさも、大人の、いや、この一年余りの間の経験を物語るものか。
烏丸殿はそんな信時に満足した。
「この一年、ようやったの。今日はその報告か?」
「はっ、左様で」
「したが、それならばいま少し早く来るべきであったの。おことの報告を楽しみにしていたに。どうしてこんなに遅くなったか」
そうは言っても、時折狂気の色を覗かせる烏丸殿のその瞳には、怒っている様子は窺えない。
最近の信時をことのほか気に入っている烏丸殿である。少しくらいの遅参は目をつぶる。
とはいえ、信時の心は平穏ではいられない。益々辞を低くして言った。
「……兄の喪中にございますれば……」
「喪?おことに死んだ兄なんぞおったか?」
思わず信時は顔を上げる。
烏丸殿は首を傾げている。真顔だ。本当にわからないらしい。
信時はおずおずと、
「備中前司……」
と言って、首を竦めた。
だが。
「ああ!」
何とも間の抜けた顔を、烏丸殿は合点で溢れさせた。暫しそのままであったが、すぐにくっくと笑い出す。
「そういえば、おことの兄だったか。おことにそんな兄もおったのだな。ころっと忘れておったわえ。でも、おことに彼奴は全く関係なかろうよ。兄という意識はないだろう?」
「……」
「放っておけ、放っておけ。彼奴の弟だなぞということを、今更世の中に思い出させることもあるまい。いや、もし主上に知られてみろ。せっかくのおことの手柄も台無しだわえ。おことまで謀反人にされては、麿は辛過ぎる」
そんな烏丸殿に、信時は父のことなどとても言い出せない。
父の前侍従少納言は、備中前司とともに洛外追放になっていた。前司と共に住んでいたのだったが、信時が都に帰って来ると聞くと、途中の道に待ち構えていて、通りかかった信時を捕まえた。
「助けておくれ!」
そう泣きついてきたのである。
信時は困ってしまった。
兄の時有と、父はいないものだと決めたのに。母を捨てて、異母兄達の所へ行ってしまった父なのに。こんな哀れな姿をされると、幼かった頃に自分に与えてくれた父の愛情が、つい胸に去来してきて──。
つれなくしなければ、兄の時有が怒るだろう。母だって。そして、信時自身だって父を許したくないのに……彼は弱いのだった。
烏丸殿に願い出て、父を許してくれるよう訴えようかと思ってしまったのだ。
だが、今の烏丸殿を見れば、絶対無理だとわかる。いや、ここで父のことなど口に出しては、せっかく遠くにやって忘れていたものを、思い出して腹を立て、
「殺す!」
とも言いかねない。
信時は言葉のかわりに溜め息を吐き出して、あとは口を噤んだ。
そんな信時の心の内など、烏丸殿が察するわけもなく。
「どうした?浮かぬ顔をして。おことに褒美をやろうと思っておったに。それ、笑え、喜べ。優しい奴、そんな兄のことなど忘れてしまえ。そ奴の存在はおことの足枷になるだけぞ。おことに兄は時有しかおらぬのだ。のう?」
と、多分、慰めているらしい。
「……畏れいりまする……」
と、答えた。
すると、烏丸殿はぱんっと扇を閉じて、にっかと笑うと、その面のまま、身を乗り出してきた。
「さあて。聞かせてくれるかな、周忠の奴めの倅どもの最期を」
「はっ……」
信時は益々沈痛な面持ちになった。
やや俯き加減に、烏丸殿の膝辺りに視線を向けながら、ぼそぼそ話し始める。
「……忠兼朝臣はなかなか往生際の悪い御仁でした……世にも稀な素晴らしい麝香を持っている、それをやるから命だけは助けてくれと……逃げ惑いましたが……」
「斬ったか」
「私の供の者が……」
「鬼だのう」
くふくふくふと烏丸殿は愉快そうに笑った。
「で、弟の方は?」
「……」
あの時のことを思い出すだけで、胸が締め付けられる。戦の度に味わう苦痛とよく似た感情。
信時は泣きたさを堪えていた。
「……周雅卿は……よくわかりませぬ……」
「ん?」
「……初めからわかっておられたような……我等を見ても、それを当然としているようでした」
「ほう」
微かに烏丸殿の眉が動いたようだった。
「やはり見所のある男だったようだの。麿は奴を婿とろうかと思ったのよ。素直に婿に来ておれば死なずにすんだものを。道を誤ったな。そう考えれば、やはり惜しむべき奴でもなかったか」
「……」
「まあよいわ。で、素直に斬られたのか、琴の七賢は」
「いえ。我等を見ると、何を思ったか突然琴を弾き始めまして……聴いたこともない大曲で、それが怨念の塊のような、それは恐ろしい曲で……地獄で閻魔天に会ったような……」
「あっははははっ!じ、地獄で閻魔だと?」
何が可笑しいのか、烏丸殿は笑い転げて、目から変なものまで流していた。
「あはあは。で?どうした?」
「曲が終わるまで動けませんでした……」
「なんだ、それは。ははは。まあ、しかと斬ってきたのだから、ようやったわ」
信時は目を強く瞑った。
瞼にあの夜の光景が蘇る。




