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正声・十四拍──伯牙弔子期(下)

 清花の姫君は二張の七絃琴を抱いて、真夜中に一人、咽び泣いていた。


 姫君のこの悲しみようには、宰相中将殿も閉口する。


 姫君の嘆き、悲しみ。その心を知り得る人は、兄君の中将殿と、女房の讃岐だけであったのだ。


 姫君が何故泣くのか。それは、昼間の長国が置いていった威神の琴の為に他ならない。


 中将殿は長国を帰した後、すぐに姫君のもとにやって来て、威神の琴と『止息灌頂次第』を手渡したのだ。そして、三位殿の最期の様を、長国から聞いた通りに姫君へ伝えていた。


 兄は妹の恋を知っていた。


 妹が威神の琴を、落ち行く罪人の三位殿にどうしても渡したいと言った時──姫君愛用で南唐派の秘宝を渡したいと言った時に、察したのだ。


 そして、姫君は三位殿に会いたいと願った。その思い余る恋。兄君は恐ろしい予感に、姫君を塗籠に閉じ込めた。そして、そんな姫君の思いを哀れに思って、威神は三位殿に届けてやったのである。


 その威神を持って下向した三位殿が、途中で斬られて絶命した。


 そして、その時傍らでその様子を見つめていた琴が、今こうして、もとの主の手元に戻ってきたのだ。


 姫君は、三位殿を追って、安房に行こうともした。それを中将殿が無理に抑えたのだけれども。


 そんな姫君だから、狂ったように嘆くだろう。そう思われた。


 だが、兄君から威神を渡された時、姫君は声を殺して泣いていた。静かに。微かな衣擦れの音さえ立てずに。誰にもこの悲しみを悟られまいとして。


 中将殿はかわいそうにと思った。辛かった。


 妹はいずれ入内するであろう后がねだから。その姫君が、誰かに恋心を抱くなど、決してあってはならないことだ。だから、その恋は誰にも知られてはならない。必死に忍ばなければならない。


 そうしろと強く妹へ命じたのもまた、中将殿だった。


 だから。


 恋しい人の死に、泣くことさえ許されぬ姫君が、中将殿はかわいそうでならない。


 姫君は、周囲の女房達に変だと思われるので、悲しむことも、虚ろな表情を見せることもできなかった。


 だから、今のように、皆が寝静まった時にしか泣くことができない。


 せめて、姫君の恋を兄君以外ではただ一人知る讃岐が、側にいてくれれば──。


 弟を失った讃岐と、悲しみを分かち合うこともできたであろうに。


 姫君は三位殿の死を知った日に、気を失った。そして、未だに悲しみに苦しめられている。


 さらに今日、彼の形見にもらった威神と、秋声とを胸に抱いていると、


「ああ。三位殿は、本当に亡くなってしまわれた……」


と、実感が湧いてきて、悲しみが現実のものとして襲ってくる。


 どうして、どうしてこんなことに。


 あの三位殿が、何をしたというのか。呪詛だなんて、絶対に嘘だ。陰謀だ。それなのに、流罪になって、挙げ句の果てには刺客に殺されるなど。


 あんなに優しい人が。あんな音楽を奏でる才人が、どうしてこんな目に遭ってしまったのか。


 この国は、天が選びし楽の才人を殺した。この国への天罰は、必ず下るであろう。


 胸の中の威神を見つめた。かの人が最期に弾いていた琴。姫君が長年愛用していた琴。


 そして、たった一度かの人を見た時、姫君が弾いていた琴。


 かの人と、琴で会話した時の琴。


 姫君は、ただ一度会ったその時に弾いていた『烏夜啼』を弾いてみた。


──無実の罪で捕らえられた愛する人を、真夜中に待つ一人の女人。彼の無実を信じ、ひたすら待つ彼女の耳に届く、烏の声。


「彼は帰ってくる!」


 そう予感した。


 そして、翌日。彼は本当に彼女のもとに帰ってきた。


──


 初めの方を弾いただけでやめた。


 この曲は、彼は無実と証明されて帰ってくるのに、三位殿は。三位殿は姫君のもとには帰ってこない。


「嫌っ!!」


 叫びとともに、思いきり威神を床に叩きつけていた。ごとっと凄い音。


 その音にはっと我に返る。


 悲しみも瞬時に吹き飛び、夢中で威神を拾い上げた。背に冷や汗を覚える。心の臓の鼓動と、震える指。しかし、目は舐めるように威神全身を見回している。


「……よかった」


 どこにも傷はない。ほっと一息、脱力した。


 そうすると、また頭が思考を始めてしまうのだ。


 どうせなら、二度と琴を弾かないでみようか。


 威神を壊して、二度と琴を弾かない……かの伯牙が、知音の鍾子期の死を嘆いてしたように。


 姫君も知音を弔おうか。


 伯牙は鍾子期の死後、どうやって生きたのだろう。


「これから先、あの方のおわしまさぬ世で、何十年も生きなければならないなんて」


 考えただけで憂鬱になる。かの人がいないのに、この先四十年も五十年も生き続けなければならないのだ。三位殿に会えないまま、何十年も。そう、死ぬまで会えない。


 未来の長さに絶望する。


 今死ねたら、どんなにか楽な人生だろうに。


 色々あらぬ事を考えた。けれど、姫君は泣き疲れて、そこから先の意識は、現での事か夢の中での事か分からない。


 夢の中でも思考している。三位殿に会いたいと──。


 どれくらい経っただろうか。


 暗い部屋の中の、姫君の枕元に一つだけ灯っている火の先が、幽かに揺らめいた。


「姫君、姫君……」


 声なき声。


 誰かが呼んでいる。


 ふわりと頭の辺りを、羽衣のようにやわらかく薄い、風のようなものが撫でた。


「姫君」


 やわらかな空気。甘やかに揺らめくのを、肌が感じる。えもいわれぬ匂いも微かに感じられるような。


 姫君は闇のあなたに目を凝らした。


「姫君」


 背後からの声。


 驚いて振り返ると。


 すぐそこに、あの懐かしい顔が。美しく気品溢れる白い顔があった。


「三位殿!?」


 姫君は驚いて声をあげた。


「三位殿。三位殿、いったいどうして……」


 ただただ驚くばかりの姫君だが、それでもなお婉然たる姿であるらしい。吸い寄せられるように三位殿は姫君の面を見つめ、やがて、自嘲するように、


「……妄執のつたなさよ」


と呟いた。


 そして、姫君の透けるほどに白い顔から視線を外した。愁眉のままに睫を伏せる。その姿が儚く頼りない。


「三位殿?」


 不安を覚えて呼びかける。


 三位殿はなお愁眉のままに眼を開けた。姫君を真っ直ぐ見つめ、その頬にそっと触れる。そよの薫風のような優しさ。


「あなたが私のことを哀れに思って嘆いて下さるので、こうして現れて参りました」


 さらに憂いを帯びた眉ではあったが、三位殿はそっと微笑んだ。


「あなたのように、この世にまたとない美しい御方が、何の取り柄もない私なんぞを思って下さったのは、奇跡としか言いようがなく、何と御礼申し上げたらよいのかわかりません。私なぞに心をかけて下さり、幸せに存じております」


 芳しい花々の中に埋もれているような心地だった。これは夢に違いない。


 三位殿はじっと姫君を見つめ続けている。


「あなたが私を愛して下さったこと。一言、その御礼を申し上げたかったのです」


「……三位殿……」


 姫君は目を伏せた。


 やはり、三位殿は姫君の三位殿への思いを知っていた。「嗚呼」と心が溜め息をついた時、傍らの二張の琴が目に入った。


 そうだと思いつく。


「今日、威神が戻って参りました」


 姫君が笑顔を作ると、三位殿も頷く。


「ええ。これは秘宝です。この世の何者にも弾けない。あなたしか──。だから、あなたに返上したいと念じておりましたら、それが通じましたようで」


 くすりと笑った。そして、もう一方の秋声を見る。


 姫君は、


「どうぞ。お心ゆくまでお弾き下さい」


と言い、


「いいえ。弾いて聴かせて下さいませ。御身の曲を聴きたいのです」


と、言い改めた。


 三位殿は嬉しそうな表情を浮かべた。


 秋声は三位殿の心。


 すぐに手に取り、膝に置いて色々弾き始めた。


 『烏夜啼』、『幽蘭』、『流水』、『孤館遇神』、『長清』……


 だが、時というのは止まらないもの。空は白みかけている。夜明けは別れを意味していた。


「かたじけのうございます」


 やがて静かに三位殿は礼を述べ、姫君の膝に秋声を返し、それをそっと胸に抱く姫君の瞳を見つめた。もう一度右手を伸ばし、姫君の頬に触れた。琴人の爪、琴人の手であった。


「とても幸せな一時でした」


 すると、夜明けの光に透けるように、三位殿の姿が薄くなりはじめた。


「あっ」


 姫君はそれを何としてもこの世に留めようと、夢中でその右手を掴む。しかし三位殿の朧な姿は益々光と一つになって、その形状も認め難くなってゆく。


「姫君。私はいつでもあなたの中におります。琴を裂いたりしないで。毎日弾いて下さい」


 そう聞こえたかと思うと、その右手もすうっと光に消え、感触も消えた。


 三位殿を吸い込んだ光は琴を抱く姫君の胸元を照らし、そのまま中へ入り込んでしまった。


「三位殿っ、三位殿!?」


 呼び叫べども、すでにその姿はなく、辺りはまたもとの静寂と闇に戻っていた。


「三位殿……」


 秋声を抱く己の胸を見下ろす。ずうんとそこが熱い。


 何か力が、叡智が湧き起こっているような……


 やがて、朝がきて、昼となった。


 きっと姫君はまだ泣いているのだろうと思い、宰相中将殿は悩んだ末、帝に直訴することに決めた。


 宮中に没収された、三位殿の遺品についてである。


 鳳勢、文王などの琴や、山ほどの譜、楽論の数々を、清花の姫君に下賜されたいと願い出ようと思ったのである。


 これは亡き友の三位殿の願いでもあった。


 中将殿は参内すると、殿上の間より奏上する。


「畏れながら、それ等の品々は代々呉楚派に伝わるものにて、我が妹に伝えられて然るべきものにてございますれば──」


「これ等は皆、国の宝であるから、もとから宮中に置くべきだったのだ。長年、呉楚派の門徒等に私させることを不承不承に認めてきたが、この度のことはよい機会であった。これよりは宮中に収め、国の宝として、大切に扱ってゆこうよ」


 帝はそう言って、姫君への下賜、いや、呉楚派への返却の意思がないことを公に述べた。


 だが、中将殿は引き下がれない。命懸けで、再度奏上する。


「ですが、これ等の名器は、名手の手によって輝くもの。名手の腕なくしては、如何なる名器でも、ただの調度品に過ぎませぬ。譜もまた然り。名手がその譜にあることを、またその行間をも読み取って音に表すからこそ、初めて譜に価値というものが生じるのでございます。名手の手元にないならば、譜は単なる解読できない呪文や暗号文に他なりませぬ。何卒、呉楚派伝来の品々は呉楚派の門にお戻し下さいますよう……」


「くどいぞ、頼周(よりちか)!」


 帝は癇癪を起こして、がばっと立ち上がり、地団駄を踏んだ。


「無銘秘琴は確かに没収した筈なのに、いつの間にか消え失せ、舜琴、龍舌の両琴は、周雅の邸にもなかった。国の宝がこうも次々散逸しておるに、せっかく収めた鳳勢と文王を、何で一個人にくれてやるものかよ!」


 そう言い捨てると、退席してしまったのであった。

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